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​第七十七話 Ⅷ

翌日、カーライトン伯の屋敷から自宅に戻って来たら、ヴェーラとアデールが屋敷を留守にしていた。

屋敷に残っていたアデールの侍女のネーリによると、ヴェーラは朝一でレーゲンスブルクまでアンナを迎えに、そして、アデールも、急に思い立って南仏へ発ったという。

「ムッシュボーが、現在カンヌで調香を再開しておりますれば。ロシアにいた頃に使っていた香水が切れておりましたので、香水を求めにカンヌへお出かけになられました」

ミハイロヴナ夫人からは、今回の騒ぎのことで丁重な謝罪を受けた。

元はと言えば、侯爵と懇意にしている女性のことを妻でいらっしゃるアデール様に喋ってしまった自分が、あまりにもデリカシーに欠けていた…と。

反省しきりの老婦人に、こちらの方が申し訳ない気分になる。

たった一人残されていた孫に縁の深い女性とひと時の邂逅の時間を持てたのだ。
嬉しくて舞い上がるのが当然というものだ。
当然ミハイロヴァ夫人は悪くない。

謝罪するミハイロヴァ夫人に、どうか気になさらないで欲しいと率直な思いを述べるとともに、この度の一連のことは、どうか受け流してやって、これからもいい友人として、人生の先輩としてあれと付き合ってやって欲しいとこちらも頭を下げる。

私の帰宅を待たずに南仏へ発ったアデールも、気まずいから一旦距離を置いてクールダウンしたい…という思いがあるのだろう。

南フランスの景勝と、「ネ」の称号を持つ天才調香師の産み出す妙なる香りが、きっと彼女の心を落ち着けてくれるだろう。

〜〜〜〜

このままこの屋敷にいたら、このまま戻ってきたレオニードと顔を合わせたら、わたくしきっとどうにかなってしまう。

アンナの憎悪の嵐を真っ向から受けたわたくしは、逃げるように英国を発ち、カンヌへと向かった。

逃げるって…
一体何からだろう。

あの屋敷から距離をおいても、自分の心からは距離を置くことなどは到底出来っこないのに。

海峡を渡ると、空気と言葉が変わる。

英国から遠ざかるにつれ、わたくしの心も徐々に落ち着きを取り戻してきた。


 

〜〜〜〜

 

革命後モスクワからカンヌへ移転したラレー社には、革命前から香水をオーダーしていたエルネスト・ボーが所属していた。

訪れたラレー社で思わぬ人物と顔を合わせてしまった。

母だ。

「久しぶりね」

「ええ」

「貴女も香水を頼みにきたの?」

「ええ」

母クセニアはロマノフロシア最後の皇帝だったニコライ陛下の妹に当たる。

大公である父とはもう長いこと冷えた関係で、革命後父と母は別々にロシアから脱出し、今に至っていた。
(皇帝一家をはじめ多くの皇族が殺害の憂き目にあった中で、私の実家の人間は、両親も、それから六人いる私の弟たちも皆無事に国外を脱出していた)

母はわたくしと同じくマールバラ に救出され、現在は英国で暮らしていた。

「ええ しか言えないの?つれないわね。…元気だった?」

そんなこと聞いて、一体どうだと言うのだろう。

気が滅入っていて、人と話したくない。だからネーリですら同伴を許さなかったと言うのに…。

私の苛立ちなどお構いなしでなおも母はわたくしに話しかけてくる。

「せっかくの偶然の巡り合わせですもの。もっと優しくしてちょうだいな。そんな仏頂面見せられたら、こっちまで気が滅入ってしまうわ」

ならば…わざわざそばにいることもなかろうに…。

「レオニードはお元気?今一緒に暮らしているのでしょう?」

…驚いた。
どこから聞き出したのか。
大方…お祖母様といったところか。

「ええ。お陰様で。ついでだからご報告しておきますが、…わたくしたち近々…復縁いたしますの」

「あら!そうなの。お披露目は?するの?」

「今のところ予定しておりませんわ」

「お祝儀を贈りたいところだけど、あいにく手元不如意なの。ごめんなさいね」

英国から南仏くんだりまで出向いてきて、この界隈で最高級のホテルに連泊しているくせに、手元不如意が聞いて呆れる。

「…何か言いたげな顔ね。おっしゃいな」

「いいえ、別に。お父様とは?」

「世界中を飛び回っていて、最近は連絡を取ってないわ」

「そうですか…」

聞いたわたくしが馬鹿だった。

「ねえ」

母がわざとらしく顔を寄せ声を低くする。

「貴女の旦那様の屋敷に、アナスタシア様がいらっしゃるって…本当なの?驚いたわね。あの混乱の中で国を出ていたなんて」

それも…お祖母様から聞いたのか!

その質問には、はいともいいえとも答えずに、視線だけ母の方にジロリと向け声を潜めて答える。

「何のことだか。さっぱり分かりませんわ。こんな場所で…話題にされる内容をよくわきまえてくださいまし」

ぴしゃりと返した私の目の端に、肩をすくめて見せた母がちらりと映った。

「それはそうと…貴女なんだか…」

母が無遠慮に頭の先から足の先までわたくしのことを睨め回す。

「…なんでしょう?」

「貴女…本当にレオニードと上手くいってるの?」

「な…!」

「なんか…なんと言えば良いのかしら?…あまり女性として…満たされていない?険のある顔をしてるわよ。まるで…夫を愛人にとられた正妻みたい」

そう言って無遠慮に視線を巡らせると、母はクスクスと笑った。

当たっているわけではないが…決してそんなわけではないが…何というか母の女の勘は…なかなか鋭い。

憮然としたわたくしの表情に、母が嫌なクスクス笑いを引っ込めて「あら…まさかのビンゴ?」と大きな瞳をますます見開いた。

「…」

この時のわたくしは、きっと少し破れかぶれになっていたのだろう。

この心にわだかまったモヤモヤを、よりにもよってまともな判断能力を持っている時だったら、まず打ち明けないだろう人物に、さらけてしまった。

「…夫婦って…一体、何なのでしょうね…」

始めて打ち明けられた、娘の心のうちを、母は無言で耳を傾けていた。

大きな引き込まれそうな母の瞳に促されるように、わたくしは、亡命してレオニードと再会してから、先日の出来事までを、洗いざらいぶちまけてしまった。

「レオニードとその女性は…本当にアナスタシアの言うように…深い関係なのでしょうか。…信じたいけど…レオニードの誠意を信じたいけど、その女性と深い関係を持ちながら…一方でわたくしに…復縁を迫るなんて」

「そもそもわたくしとの復縁は、単にレオニードの父と母としてだけの、家族という体裁を整えるために過ぎないのでしょうか。わたくしは一体…レオニードの何なのでしょうか?」

相槌も打たずにじっとわたくしの話に耳を傾けていた母が口を開いた。

「そんなに不審ならば、レオニードに直接聞けば良いのではなくて?」

「え?」

「だってそうでしょう?きっと今ならば、レオニードだって、ちゃんと答えてくれるわよ。そうでしょう?」

「でも…」

「何よ?プライドが許さない?…いかにも貴女らしいわね。でも、そうやってウジウジしてる今の貴女、とんでもないブスになってるわよ」

「な…!!」

よ、よりによって…このわたくしを…ぶ、ぶ、ブ!?

「鏡を見てごらんなさいな。浮かなーい顔して眉間に不機嫌そうな皺を寄せて。険のある目をして。いい?女の魅力の大半は、愛嬌よ?愛嬌。そんな顔した女に…いくら美形だって男は、いいえ、人は寄ってこないものよ」

母から手渡された手鏡を覗き見る。
確かに
暗い目をした、もう若くない不機嫌そうな女がそこに映っていた。

「笑いなさい。そんな顔してても、一足飛びに老けるだけでいいことなんて何もないわよ。わたくしたちのように美しい女はね、老けると顔に険が出てくるものよ」

ふふ!相変わらずしょってる。

小さく吹き出したわたくしに、

「そう。そういう顔してなさいな」

そう言って母は、わたくしの頰を優しく摘んで、髪をクシャクシャと撫でた。


 

「お母様」

「なぁに?」

「お母様は…お父様のことをどう思っていらっしゃる?何故、離婚なさらないの?」

「あら、では逆に聞くけど、わたくしたちが離婚をしなくてはならない理由があって?」

「えっと…だって」

「お互い愛人がいるから?もう男と女としてのお互いを見ることができないから?」

だって!

「あのね、アデール。夫婦にだって…色々な距離感があるのよ。これが正解、これしか正解じゃない なんてものはないの。わたくしたち夫婦は、あれはあれでそんなに悪くない関係を保っているのよ」

分からない…。

「納得いかない…って顔してるわね。でも貴女も、そんなに色々心にわだかまりがあるのならば、少しこれからのこと、復縁のことも含めてね、時間をもらってよーく考えてみたら?レオニードはそんな猶予もくれないような、了見の狭い男ではないでしょう?」

その言葉にコクリと頷く。

「それから最後に、貴女が一番信じるべき人の言葉を信じなさい。こういう時ってね、概して…一番信じちゃいけない人の言葉が一番心に刺さるものなのよね。…でも、貴女が一番信じたい人は、誰?」

「…レオニード」

私の返答に、母はあの魅惑的な笑顔を見せて大きく頷いてくれた。

〜〜〜〜

「お帰りなさいませ」

「ただ今」

帰ってきたわたくしを、屋敷の人間全員、レオニードとロストフスキーまでが、エントランスで出迎えていた。

「ムッシュボーはお元気でいらっしゃいましたか」

「ええ。だけど香水も、バスオイルも、ヘアクリームも、石鹸も…何もかも価格が高騰していて、驚いたわね」

「そうですか…」

「原材料の価格が高騰しているのですって」


 

「ア…アデール!」

ヴェーラに優しく背中を押されて、おずおずとアナスタシア…、アンナがわたくしに呼びかけた。

チラリと視線を向けたわたくしに、アンナがこわばった顔で謝罪をしてきた。

「ごめんなさい。この間は…」

「なんのことかしら?」

アンナの謝罪を遮る。

「え?」

「わたくしは…貴女の言ったことなど、信じていないし、これからも信じる気もない。だから気にしなくて結構よ。いい。男と女なんてね、夫婦なんて…、当事者にしか分からない距離や関係があるものよ。まぁ、貴女みたいな、まだ嘴の黄色い小娘に言っても分からないわね」

鼻を聳やかせて意気揚々とそう言い切った寛大?なわたくしの態度に、アンナ以下そこにいた皆が、目を丸くしてわたくしを見ている。

「皆さんここに集合していらっしゃるから、ついでにお知らせ致しますわ。わたくし、今後は南仏…グラースへ移住して、そこで農園と工場の経営に携わることに致しました。なので、この屋敷には住みません」

高らかに宣言したわたくしに、一瞬ののち、エントランスに衝撃が走った。

「ハァ~~~~?」

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