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第七十七話 Ⅶ

「ユリウス…」

―― うわぁん…!!

レーゲンスブルクの、懐かしい屋敷で出迎えてくれたユリウスの顔を見た瞬間に、張っていたアンナの気持ちが一気に緩んだ。

ユリウスに縋ってわんわん泣き続けるアンナを抱きしめ、「と、とにかく無事で良かった。さ、入って」と、屋敷に招き入れた。

サロンに通し、まずはアンナを落ち着かせる。

「お茶、どうぞ。…ビックリしたよ!ロンドンから電信を受けて。こうして無事なあなたの顔を見るまで、生きた心地がしなかった」

身を小さくしているアンナの横に掛け、ユリウスが肩を優しく抱き髪を撫でた。

「ね?何があったの?聞かせて?」

優しいいたわりのこもったユリウスの声に、だんだんとアンナの心もほぐれて来る。

「あのね…私」

俯きながらポツリポツリと話し始めた。

〜〜〜〜

「えーーー!?あなた…レオニードとぼくを…そんな関係だと思っていたの?…それは…誤解…だよ。っていうか、あのリーザがお腹にいた頃に交わした口約束の話、一体誰から聞いたの?…まさか、レオニードから?」

ユリウスの質問にアンナがふるふると首を横に振り、「リーザ」と答えた。

ユリウスが思わず天を仰ぐ。

「リーザ…あのおしゃべり娘…」

「リーザは悪くない!私…すごくその話聞いた時、いいなと思ったもの。それに…あの侯爵が、そんな話に心を動かされたのにも、ちょっとびっくりした。ねえ、ユリウス、あなたと侯爵は…少なからず…」

「それは、ないよ。誤解だよ」

アンナの言葉の続きをユリウスがはっきりと否定した。

「ウソ」

「ウソじゃないよ。ぼくとレオニードは、確かに特別な関係だよ。お互いに。それは否定しない。でも…それは恋愛という絆じゃないんだ。レオニードは本当に伴侶として奥様を愛していらっしゃるんだよ。彼は、奥様がありながら他の女と恋愛関係になるような不誠実な人間ではないよ。それは、誰よりもぼくが一番よく知っているし、あなたも侯爵のことはよーく分かっているでしょう?」

ーーバカがつくほど誠実で実直な人なんだ。彼は。

「あの…ね、私ね…」

「うん?」

「本当は…分かってたんだと思う。侯爵とあなたが…そんな関係ではないということ。…恋愛よりも夫婦よりも…ある意味もっともっとユニークで深い絆で結ばれているということを。…あの…ね、私ね…、侯爵の妻だった従姉のアデールのことが大嫌いで…それで」

「うん…うん」

ポツリポツリと本音を語り出したアンナの想いを、ユリウスが受け止める。

「アデールと私は従姉妹同士なの。彼女のお母様、クセニア様が私の父の妹に当たるの。アデールは美人だけど高慢で、権高で派手好きで…おまけに私のお母様のことを馬鹿にして露骨に悪口を言って、必死に頑張っていたお母様のことを傍で嗤って…私は本当に彼女が大嫌いだった。私…お母様の悪口が私たちの耳に伝わって来るたびに悔しくて悔しくて…悔し涙を流した。でもお母様は…「いくら高名な家庭教師でも、教えられないことがあるのよ。温かな家庭の愛情でしか得ることのできない徳もあるのよ」って。…あ!」

「どうしたの?」

突然何かに気づきを得たように語りを止めたアンナに、ユリウスが問いかける。

「…もしかして…あぁ…もしかしたら」

アデールの母親、クセニア様は子供にあまり関心のない女性だった。
夫の大公との夫婦仲もとうに冷え切っていたという。

もしかしたら…。もしかしたらアデールは。

「アデールの家庭は…あれを家庭と言うのだったらだけど。彼女の母親は子供のことに無関心で、夫婦仲も良くなくて…」

「そうだね…。もしかしたら、アデール様は…温かな家庭で、ご両親の愛情を存分に受けて育った…あなたたちが羨ましくて、苛立たしかったのかもしれないね」

「そっか…。そうだったのか…」

仲の悪い従姉の高慢な顔が脳裏に浮かぶ。
美しいが取り澄ました顔の下に、柔らかで繊細な、愛情を求めるむき出しの心が、初めて見えたような気がした。

「…なんで、もっと早く気付けなかったんだろう。何故…あの時にお母様の言わんとしていたことが、理解できなかったのだろう。傷ついている人の心を…私はさらにズタズタに切り裂いて…引き裂いてしまった」

そう言ってすすり泣き始めたアンナを、ユリウスが胸に抱きしめた。

「うう…ヒック…」

ユリウスの胸に顔を埋めたアンナがしやくり上げながら訴える。

「私…自分を許せない。あんな酷いことをするなんて…。お父様に、お母様に、お姉様たちに…アレクセイに…あんなに温かな愛を与えてもらったのに…そのくせに…アデールを…あんなに傷つけた。もう…あの家にはいられない…。皆に…会わす顔がない…」

泣きじゃくるアンナの身体をユリウスが優しく抱き寄せる。

「大丈夫だよ。…家族はそんなことで貴女を見限ったりしない。…レオニードは、ユスーポフ家の人たちは、そんな生半可な覚悟で貴女と家族の縁を結んだのではない。明日には…ヴェーラが迎えに来てくれる。貴女はヴェーラと英国へお帰りなさい。そして…アデール様に素直に今の気持ちを伝えて、心からの謝罪をなさい」

「アデールは…私を…許して…くれないかも…しれない」

「それでも。あなたの誠意を込めて、アデール様にぶつかってごらん。勇気を出して、ね」

泣きじゃくり取り乱していたアンナをユリウスが説得する。その言葉に、やがてアンナが落ち着きを取り戻す。

「あの、ね。私、実は…侯爵のことを…」

恥ずかしそうに言いかけたアンナの唇を、ユリウスの白い指がそっと押さえた。

「あなたは…これからきっと素晴らしい出会いを経て、素敵な恋をする」
ーーその時に、それは笑い話になるよ。

ユリウスの言葉にアンナが泣き笑いの顔でコクリと頷いた。

「いい子だ。さあ、お腹すいたでしょう?ご飯にしよう。電信を受けてびっくりしたけど…皆貴女を食堂で待ちわびてるよ」

ユリウスに肩を抱かれてアンナが食堂に向かった。

「あらまあ、しばらく見ないうちに…大きくなったわね!」

「マリア…。それは小さな女の子にかける言葉だよ」

「英国の都会の水に洗われて、垢抜けたな」


「親父様の言葉が正解。大人びて綺麗になったね、アンナ」

 

「御機嫌よう。フロイ…アンナ」

「今日は…フロイライン…アンナ様のお好きなものをご用意致しましたよ。さ、お席にどうぞ」

食堂に入ると懐かしい面々がアンナを迎えてくれる。

「さあ、頂こう」

ユリウスが、アンナを席に促した。

〜〜〜〜

翌日、ヴェーラがレーゲンスブクに到着した。

「あぁ!アンナ!無事でよかった。貴方の無事な顔を見るまで…生きた心地がしなかったわ」

私の顔を見るなりヴェーラが抱きしめてくれた。

「…ごめんなさい」

「もう…!この鉄砲玉娘は…。もう黙って…屋敷を立ち去るなんてしないで。私たちが貴女のことを…どれだけ心配したか」

私をギュッと抱きしめそう言ったヴェーラの声は、僅かに掠れていた。

「ごめんなさい…ありがとう…」

そう言った私の声も…多分涙で掠れていたと思う。

〜〜〜〜

「わたくしも、それからお兄様も、迂闊だったわ。もっと貴女の気持ちを気遣うべきだった」
ーーごめんなさいね。

ヴェーラが私の両手をギュッと握りしめる。

「みんな、心配しているわ。早く帰って、無事な姿を見せてあげて皆を安心させてあげましょう」
ーーね?

散々家族をかき回して大騒ぎした私に、ヴェーラからは咎めるような眼差しも、責める言葉も一切なかった。

ただただ私のことを心配し気遣い、優しく接してくれたことに、嬉しさや安堵と言うよりは、寧ろ申し訳なさと面目無さが募る。

「この度は、お騒がせいたしました」

「ううん。気にしないで。何はともあれ貴女の顔を見られたことは嬉しかったよ。ただ今度は、笑顔の、幸せな笑顔をした貴女に会いたいな。…また顔を見せてくれるね?」

エントランスで見送ってくれたユリウスに「はい。必ず…」と再会を誓い、別れの挨拶を交わす。

ーーまだウチの周りには人相の良くないロシアのおじさんたちが張ってるからね。一応ハンスに送らせるよ。

ユリウスが念のためにフランクフルトまで車を出してくれた。

大柄でいかにも屈強そうなユリウスの専属のその運転手は、なんとユリウスの庶子時代の幼馴染だという。

強面に似合わず気さくな人で、ユリウスを話の肴に盛り上がっていたら、あっという間にフランクフルト中央駅に到着してしまった。

ハンスに見送られ、英国行きの船の出るオステンドまで列車の旅となる。

自分で蒔いた種とはいえ、列車が刻一刻と英国に近づくたびに憂鬱が募ってくる。

気鬱で食堂車でも殆どお皿に手をつけずにいた私に、ヴェーラが言った。

「しばらくね、お義姉様は家を留守にしているから。お義姉様が戻るまでに気持ちを整理すればいいわ」

「アデール…何処へ行っているの?」

「南仏。カンヌよ。ムッシュボーがね、今ラ・ボッカにいるみたいなのよ。で、香水をオーダーしに行ったわ」

「そう…」

「安心なさい。わたくしが、遺恨が残らないようお義姉様に話をつけてあげるから。貴女は大船に乗ったつもりで私に万事任せてればいいわ」

「貴女…に?」

「ええ、そうよ。万事わたくしに任せて。…これでもね、わたくしは彼女に大きな貸しがあるのよ。だからわたくしが間に入れば、絶対悪いようにはならないから」

ヴェーラの確信に満ちたその言葉に、私は縋るように彼女の出した助け舟に乗ったのだった。

ヴェーラが、かつてアデールのせいで、革命家だった恋人を目の前で侯爵に射殺された過去を知ったのは、その何年も後の、彼女が幸せな結婚を決めた後のことだった。

©2018sukeki4

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