第七十七話 Ⅵ
受話器を置いてレオニードが長いため息をつく。
起こるべくして起こったアデールとアンナの諍い。
そして、屋敷を飛び出し失踪したアンナ。
アンナが屋敷からいなくなったことに気づいたヴェーラが、泡を食ってここカーライトン伯爵の別荘に電話をかけて来た。
(レオニードは生憎この週末を、カーライトン伯から領地の渓流で釣りの誘いを受け、屋敷を空けていた)
女たち、アンナとアデール付きの女中ネーリの罵り合う声、茫然自失としたアデール、彼女のサロンから駆け出して行ったアンナー。
普段静かで穏やかな屋敷が一時騒然となったという。
自失状態のアデールと怒りで極度に興奮したネーリ、そしてそんな異様な状況に不安で泣き出したJr.をミハイロヴァ夫人と二人で宥め、アデールとネーリから何とか経緯を聞き出している間に、気がついたらアンナがいなくなっていたという。
アンナからも話を聞こうと思い彼女の部屋を訪ねたら、部屋はおろか屋敷内のどこにも彼女の姿はなかった。
電話口の向こうのひどく動揺しているヴェーラをまずは落ち着かせる。
アンナはこのユスーポフ家の人間以外に頼る者がない。
頼る身内もいなければ友人もいない。
いるとすれば唯一…。
ヴェーラにアンナの旅券の有無を確認させる。
レオニードの読みの通り、アンナは旅券を持って屋敷を出ていた。
ーーならば…アンナの向かった先は自ずと答えが出て来よう。
「ヴェーラ、心配するな。…心配するなと言っても、無理な話ではあるが、旅券がないならば、あれの向かった先は…レーゲンスブルクだ。シフに頼んでアーレンスマイヤ家に電信を打たせろ。船と列車さえ無事運行していれば、いずれあちらに到着するだろう。…うん?ああ、そうだな。お前が行って、迎えに行ってくれると、助かる。頼んだ」
ーーハー…。
受話器を置いた途端に、長いため息が漏れる。
「どうしましたかな?」
レオニードの大きなため息を聞きつけた、この屋敷の主人で、合弁会社を立ち上げた当初から英国側の合弁相手としてビジネスパートナーであったカーライトン伯爵が声をかけて来た。
「いやその…」
一瞬口を濁したが、初老で穏やかそうなカーライトン伯爵の佇まいと、それから…カーライトン伯爵もまた先妻に先立たれ、先妻との間の娘と後添えとで新しい家庭を築いていたこと、さらには合弁相手なだけにユスーポフ家の家庭の事情も概ね把握していることが、レオニードの固い口を割らせてしまった。
「実は…」
ーーお恥ずかしい話なのですが…。
先ほど留守中の屋敷で起きた騒動をカーライトン卿に打ち明ける。
「ふむ。つまりは…なさぬ仲の問題…というわけですな」
レオニードの話にじっと耳を傾けていたカーライトン卿が口にする。
「はあ…なさぬ…仲…ですか」
「あなたが父親であれば、あなたと復縁するアデール様は」
「…義理の母…ということになるでしょうな」
不仲な従姉妹同士であることはレオニードも薄々は知っていた。
ただでさえソリの合わない同士が同じ屋根の下で家族として暮らしていく…そのことに改めて思い至りレオニードがズキズキと痛むこめかみを押さえ再びため息を漏らす。
「そうため息をおつきになるな」
普段あまり感情を表に出さないレオニードが露骨に困惑して頭を抱えている様子に、慰めたカーライトン卿の声に僅かに笑いが混じっている。
「…卿のご家庭も、確か娘御と今の奥様は…」
「そう。なさぬ仲です。…今の妻と再婚した時は、娘はまだ10代でした。まあ、それなりに我が家も色々ありましたよ」
「卿は…どうされたのですか?どうやったら、その、なさぬ仲の親子が上手くいくようになられたのか?」
「時間薬…ですな。時が解決するしかあるまい。侯が今絶対してはならないことは…どちらか一方の肩を持つことですな。中立の立場でそれぞれに理解と思いやりを持って接することです」
ーー後は、時間ですよ。時間が全てです。焦らずにドーンと構えておいでなさい。
そう言ってレオニードの肩を優しく叩くと、「ともあれ今は、屋敷に帰られた方が良いでしょうな。なぁに、渓流は逃げては行かない。釣りはまた後日お誘いいたそう」とレオニードに帰宅を勧めてくれた。