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第七十七話 Ⅲ

「え?!それでは…あの、あの大事なストラディバリを、ただでその初対面の女性に…譲ってしまわれたのですか?」

後日ヴァシリーサから報告受けたアデールがー、思わず眦を屹と上げた。

「ええ」

「ただの…ただの一回しか会っていないその女性を信頼して?」

「ええ。一度会えば…充分ですわ。わたくしとユリウ…ユリアさんは、アレクセイという存在を通して、一瞬で分かり合った。それだけで十分すぎるほどですもの」

「そんな…。そんな甘いことを…。もしその方が…その、貴女の思っているような女性ではなく…そんな…」

「アデールさん!」

明らかに苛立った様子の、しかしその苛立ちを自分でもうまく咀嚼できずに、うまく言葉に出来ずにいるアデールをヴァシリーサが遮った。

「…一体、どうなさったの?何に…そんなに苛ついているの?」
正体のわからない苛立ちに翻弄されている自分とは裏腹に、落ち着いている目の前の歳の離れた友人の様子が余計に勘に触る。

「わたくしは…わたくしは、そのような甘いことではこれから生きていかれない…と、そう申し上げたかったのです!大変高価な楽器なのでしょう?それを…誰にも相談せずにそんな…」

「相談ならば、レオニードさんに致しましたし、その他でもないレオニードさんから彼女を、ユリアさんを紹介されたのですよ?本当に一体どうなさったの?アデールさん。何に…そんなに苛ついておいでなのですか?」

心配そうな眼差しを向けられたアデールの苛立ちの小さな泡がプツリと弾けた。

「兎に角…、友人のわたくしに黙って、そんな大事なことを決断したりして…」

「姫様、姫様!」

アデールの様子にそばに控えていたネーリが慌てて彼女の興奮をセーブしようとするものの、「お黙り!ネーリ」と逆にそれは彼女の興奮に油を注いでしまったようだ。

「人をそんなに簡単に信じたりしたら…きっと後で痛い目に遭いますからね!」

まるで頑是ない子供のように捨て台詞を履くと、踵を返しアデールは走り去って行った。

走り去ったアデールと、支離滅裂な八つ当たりを受けた形となり呆気にとられた形のヴァシリーサを困ったように交互に見ながら、ネーリはヴァシリーサに頭を下げて、「姫様!姫様!!」と主人の後を追って行った。

〜〜〜〜

なぜ…なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう。

部屋に駆け戻ったアデールが、先ほどの自分の態度を悔いて、ベッドに思い切り突っ伏した。

先日ー
急用の為に執事のオークネフを連れロンドンの夫のオフィスへと出かけて行ったヴァシリーサ。

大方所有している資産の運用の件で夫の会社の、金融のスペシャリストだというマネージャーに相談にでも行ったのであろう。
彼女とてこれからの余生を霞を食べて暮らしていくわけにはなるまいから。

そんな風に彼女は考えていた。

事実は彼女の考えとは全然違っていた。

ヴァシリーサは、彼女の孫がドイツに亡命していた折に恋仲だったという女性に、事もあろうに無償であの高価な楽器を譲ってしまったのだという。

そしてその女性との縁を繋いだのが、誰あろう夫レオニードだというのだ。

ヴァシリーサから、嬉々とその女性のことを、まるで天使のように清らかで美しく、魅力的な女性な上に、手広く実家の家業に携わる優秀なビジネスウーマンだと聞かされ、その上、夫と彼女の知り合った経緯まで知ったアデールの中で、熱くドロドロとした嫌なマグマが沸き起こった。

ーーなぜ?わたくしがそばにいるのに、そんな女性と仲良くなるの?なぜわたくしの前で新しい友人のことをそんなに嬉々として話すの?

ーーレオニードは…一体その女性を、どう思っているの?いい友人関係?男女にそんなもの…あるわけがないじゃない!

自分の中でブクブクと嫌なマグマが湧き上がり滾って行くのが分かる。

そして
そんな感情に絡め取られていく自分が、なによりも煩わしく嫌だった。

心の中のマグマの存在をなかったことにするかのように、アデールが長く大きなため息を一つついた。

アデールがため息をついたタイミングで、ネーリが部屋へ入ってくる。

「ミハイロヴァ夫人に…あのような態度は良くありませんよ。彼女は、わたくしとは違うのですから。あんな態度をお取りになったら、お友達というものは…」

「分かってるわよ!」
ーー分かってる!…わかって…

先ほどのヴァシリーサに対する態度を見兼ねて注意したネーリの言葉を金切り声で遮ると、再びベッドに突っ伏しアデールは声を立てて泣き出した。

そんなアデールの傍に腰掛けると、ネーリは、もう大昔から幾度もそうしているように、何も言わずに彼女の感情が収まるまで、髪を、背中を優しく撫で続ける。

泣きたいだけ泣いて真っ赤な目と鼻の頭をしたアデールがムクリと起きあがり、決まり悪そうにネーリに問いかける。

「ミハイロヴナ様…きっと…呆れてるわよね…わたくしのこと…」

泣き腫らして真っ赤な目でネーリを窺い見る主人に、ネーリが首を横に振る。

「いいえ。ミハイロヴァ夫人は…ヴァシリーサ様は…心配して、心を痛めておいででした。姫様のことを。いつも優しくて親切な姫様らしくない…と」

そう言って、アデールの髪を優しく指で撫で梳く。

「うそ…。だってわたくし…優しくもないし…親切でもないもの…」

唇を尖らせてボソッと呟いたアデールに、クスリと笑いながら、尚髪を優しく梳き続けながらネーリが答える。

「昔は…そうでしたね。たしかに。…でも今は、姫様そんなことは、ございませんよ。ヴァシリーサ様がおっしゃる通り…あの方は間違ったことは仰ってないと、わたくしは思いますよ」
ーー姫様…随分お変わりになられました。

「本当?」

「本当ですとも」


 

 

「わたくし…謝ってこなきゃ。ミハイロヴナ様に。先ほどの無礼で思いやりのない言動を」

ノソノソとベッドから立ち上がったアデールを、ネーリが大きく頷いてドレッサーの前に掛けさせる。

「そうなさいませ。まぁまぁ!せっかくフランスでお洒落にカットした髪もぐちゃぐちゃになってしまって。セットし直しましょう。お化粧も直しましょうね」

いつものネーリの優しい手の感触に、まるで魔法にかけられたようにアデールの心も穏やかに凪いでゆくのだった。

©2018sukeki4

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