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​第七十七話 Ⅱ

レオニードの背中を押したのは、一挺のヴァイオリンだった。

 

ヴァシリーサがロンドン郊外のユスーポフ邸に逗留するようになってひと月程が経とうとした頃だった。

「あの…ユスーポフ侯爵様…」

オークネフ―、ヴァシリーサに付き従ってやって来たミハイロフ家の執事だった男がレオニードを呼び止めた。
両手で恭しく抱えている細い黒革のケースは…楽器ケースだろうか?

「あの、少しお時間をよろしいでしょうか?」


 

~~~~~~

「これを…」

差し向かいに掛けたオークネフがレオニードの方へ大事に抱えていたケースを差し出した。

「…開けてもよろしいですか?」

レオニードの問いかけにオークネフが頷いた。

ケースを開けると中には、一挺のヴァイオリンが収められていた。
木目の表れた艶やかなボディが美しい。

「これ…は?」

「ストラディヴァリです。主人からことづかりました。どうぞこちらをお納めください…と」

いくら音楽に疎いレオニードでも、この名を持つヴァイオリンがどれほどの価値を持つものかは、おおよそ理解していた。

そして同時にこの名器の弾き手のことも。

ケースに掛けた手を下し、じっと楽器をみつめるレオニードにオークネフが続ける。

「もう…当家には…ミハイロフ家には、この楽器を弾く人間がおりません。侯爵様ならば、この楽器の価値を理解して下さるであろうから…と。レオニードお坊ちゃまも…紳士のたしなみとして楽器の一つぐらい心得があってもよいでしょうし、この楽器は世界中のヴァイオリニスト垂涎の名器でございます。…しかるべきところで処分すれば…」
いいづらそうにオークネフが言いよどんだ。

律儀で誇り高いミハイロヴァ侯爵夫人は、ただただ厚意に甘えて食客に甘んじ続けることを自らの矜持によしとしなかったのだろう。
…しかし、このストラディヴァリは、きっと彼女にとっては、資産価値以上に、特別な意味をもったかけがえのないものであるはずだ。

楽器ケースを閉じ、居住まいを正して、オークネフに言った。

「…ミハイロブナ夫人と、直接話がしたい」


 

~~~~~

 

「驚きました。これは…ミハイロフ家の錚々たるヴィルトゥオーゾたちが、愛用してきたとりわけ思い入れの深いものでありますまいか?」

「…」
レオニードの言葉を受けて、フッとヴァシリーサが寂しげな笑みを浮かべ、楽器に目を落す。

「もう…随分昔ですが、宮廷で素晴らしい音色をしばしば拝聴致しましたよ。音楽に関してはズブの素人以下…の私ですら、あの音楽は未だ耳に残っている。最初は…先代侯爵、貴女のご子息のミハイル・ミハイロフ侯爵、そして、その次は…ペテルブルク管弦楽団のコンサートマスターに内定していた、ドミートリィ・ミハイロフ侯爵…。いずれも素晴らしい名演だった。…そしておそらくは…」

「ええ。…あの事件の後は…、弟のアレクセイがこの楽器を持ってドイツへ亡命致しました。…ですから、最後の持ち主は、アレクセイということになりますわね」

「かようなかけがえのない大切な楽器なら尚更、貴女が大事にお手元に置いておくべきです」

いたわりに満ちたレオニードの言葉に、ヴァシリーサはゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。たとえ落ちぶれて国を追われたといえども、ミハイロフ家のはしくれとして…ただただ侯爵のご厚意に甘えっぱなしという訳にはまいりませぬ。この楽器は10月革命の少し前に孫から…アレクセイから託されました。「これは資産価値のある楽器だから」と…。それにもう…ミハイロフ家には、我が家にはこの楽器を弾く人間がいないのです。…弾き手のない楽器は哀れです。ならば…潔く手放して、次の弾き手の元に渡った方が楽器も…そしてこの楽器をこよなく愛した今は亡き息子や孫たちもきっと本意でしょう。この楽器の価値を理解しておられるあなた様であれば、きっと悪いようにはなさらないでしょうし、それにこのユスーポフ家には、幼いレオニードがおりますわ。孫の…アレクセイもちょうど楽器を始めたのはあの子ぐらいの時分だったと記憶しております。紳士の嗜みの一つとして音楽の手ほどきを受けるのも…よろしいではございませんか?」

もう肚を決めていたのだろう。心の内を語ったミハイロフ侯爵夫人は案外サバサバとしたものだった。
この楽器を自分が受け取る事で、食客の立場のミハイロフ家の人間の気兼ねが少しでも軽くなるのならば、それも悪いことではない…とは思う。
しかし―。

もう一度ヴァイオリンケースに目を落す。

何の装飾もない黒革の武骨といってもよいそのケースは、持ち主の激動の人生に寄り添って来たのだろう、所々に傷が見て取れた。

その内面に、天上の音色を奏でる名器を納め守り続けたその武骨な黒革のケースに、最期まで高潔な魂を心のうちに持ち続けた、この楽器の持ち主だった男たちの面影が重なる。

― これは、私が持つべきものではない。

所々に傷のある黒革のケースの佇まいが、レオニードの決意を促した。

「あなたの覚悟と思いは、しかと受け止めました。しかし…やはりこれは私が持つべきものではない。だが私は―、この楽器を譲り受け、所持するのに最もふさわしい人物を知っている」
―― どうでしょう。このレオニード・ユスーポフを信じて、その人物にこのかけがえのない楽器を託してはいかがだろうか?


 

~~~~~~

 

―― ドイツのバイエルン―。そう、かつてご令孫が亡命していた地です。そこに彼の恋人だった女性がおります。彼女は…今も、別れてからもずっとアレクセイ・ミハイロフの事を一途に想い続けている。どうです?彼女と会って、まあ…ヴァイオリンのことは別にしても、話をしてみる気はありませんか?

 

ロンドン市街のレオニードのオフィス―。

応接室でその人物の到着を待っているヴァシリーサの胸が大きく鼓動を打つ。

かつて孫が語った恋人の話と、彼女を想いながら奏でた甘美なフォスターの旋律が懐かしく蘇る。

「ねえ、オークネフ」

ヴァシリーサが傍らに侍しているオークネフに声をかけた。

「はい?」

「もう、この世に、あの子はいない。でも…なんて縁でしょう。…あの子が想い続けた…美しい夢の君に会えるとは…」

「そう…で、ございます…ね。きっと坊ちゃまが大事に大事にされていたこの楽器の…坊ちゃまの想いの…お導きなのでございましょうね…」

そう言ってオークネフが両手に抱えていた楽器ケースに視線を落し、声を詰まらせる。

「…なんですか。泣くんじゃありませんよ」

オークネフを諫めたヴァシリーサのその声も、飲み込んだ涙で少し掠れていた。


 

~~~~~~~

 

「レオニード!お待たせ」

「悪かったな。急な話で」

「ううん。…嬉しい。今日のこの時を…とても楽しみにしていた」
―心臓が、ドキドキしているよ。

ロンドンに到着したユリウスをレオニードとロストフスキーが迎える。

「でもとんぼ帰りとは…な。忙しいのは結構だが…。屋敷にも当然来るものだと楽しみにしていたアンナが、来ないと分かってひどく落胆していたぞ」

「あ~。ごめんねぇ…。ぼくも会いたかったし、今回はとても残念だけど、お屋敷の方はまた次回の楽しみにとっておくよ。生憎ちょうど今は…ね。母さんのデザインした陶磁器のラインがおかげさまですっごく好評で。それで、沢山置いてくれて沢山売って下さった百貨店さんや商店さんに…母さんと二人でお礼に回ってるの。「ありがとうございました。これからもお願いします」ってね」

「評判は英国にも届いているぞ。大したものだ。…そうやってアフターケアも抜かりないのは、感心だな。大いに励め。…そういえば、去年のクリスマスの時に…レナーテさんから送られてきた美しい手書きのカードに、アンナがえらく感激していたな。雪原に羊を抱いた少女の絵が描かれた美しいカードだった。…あの頃はちょうど英国に移住したばかりで、アンナはレーゲンスブルクの暮らしを懐かしんで少し沈みがちだったからな。余計あの心づくしのカードが沁みたらしい」

「そっか…。フロイラ…あ、今はアンナか。よろしく伝えておいてね」

「相分かった」

「それはそうと!シフさんやドルジェフに会えるのは、楽しみだなぁ」

「あいつらも久々にお前に会えると、今日を指折り数えて待ちわびてたぞ」

「二人の卓上カレンダーに「ユリア」と書かれてましたね。―さ、着きました」

ハンドルを握っていたロストフスキーがとあるビルの前に車を止めると、恭しくユリウスの横のドアを開けた。

~~~~~~

「ミハイロヴナ夫人。紹介します。…ユリア、ユリア・フォン・アーレンスマイヤ嬢です」

レオニードに連れられて、待ち人がとうとうヴァシリーサの目の前に現れた。

想像していた通り、いや、想像を遥かに超えた、美しい女性だ。

整った顔立ちにまるで宝石のような碧の瞳がことさらに目を惹く。
結っていても十分にその美しさが分かる金の髪は応接室の窓から射しこむ柔らかな光を受け、透けるように輝いている。

ユリア と紹介された目の前の女性の美しい碧の瞳からポロリと涙がこぼれた。

感極まって言葉も出ずに、ただただぽろぽろと涙を流しながら嗚咽を堪えるように肩を震わせ口を抑えているユリアの身体を―、ヴァシリーサがギュッと抱きしめた。

ヴァシリーサに抱きしめられた、ユリアの両手がそろそろとヴァシリーサの背中に回る。

この世にはいないかけがえのない人を想い、二人の女性が互いの温もりを分け合いながらただただ涙し合った。
何も語らず。
それだけで十分だった。

 

 

~~~~~~

 

「あなたのことは、アレクセイから聞いていましたよ」

ヴァシリーサの言葉に、ユリウスがわずかに目を瞠る。

「…一体、彼は何と言っていましたか?…ちょっと聞くのが…怖いな」

「まばゆい金の髪に緑がかった碧の瞳の、綺麗な女の子だと言っておりましたよ。…あの子の言った通りですね」

ヴァシリーサの言葉に少し照れ臭そうな笑みを浮かべて俯いたユリウスに、ヴァシリーサが続ける。

「真っ直ぐで心が優しくて、誰もがすぐに彼女に惹かれてゆく…そんな女の子だと…」

それを聞いたユリウスの両の瞳に二たび涙が溢れる。
碧の瞳を涙でいっぱいにして肩を震わせるユリウスの隣に回り、ヴァシリーサは肩を優しく抱き寄せそっと涙を拭ってやる。

「あらまぁ…そんなに泣いて。せっかくの綺麗なブルーアイが、真っ赤になってしまいますよ」

少し呆れたような笑いを含んだ声で、傍の孫の恋人だった女性を優しく慰める。

「そうですね…。そう…ですね」

ヴァシリーサの腕の中でしゃくりあげながらユリウスが何度も頷いていた。

〜〜〜〜

「あなたのことを…あなたの口からアレクセイと過ごした思い出を聞かせて下さる?」

ヴァシリーサの言葉にユリウスがコクリと頷き初恋の思い出を語り出す。

「私が、クラウス…アレクセイと出会ったのは、今からもう16年も前、15になったばかりの秋のことでした」

ーーその年に、庶子だった私は、父に認知されて、今まで母と二人で暮らしていたフランクフルトから、父の屋敷のあるレーゲンスブルブルクにやって来ました。…新しい姉妹と家族、周りに友達どころか誰も知り合いのいない孤独な環境、名家アーレンスマイヤ家の外腹の娘という蔑みの視線…貧しかった庶子の頃からすると考えられないほど贅沢な暮らしになったけれども、庶子の頃より幸せになったかと言われると…決してそういうわけでもなくて、孤独な鬱々とした日々を送っておりました。そんな時だったのです。彼と会ったのは。彼は当時在籍していた音楽学校にあった古い塔の窓辺に腰掛けて…空を見ていました。ジッと…遠くの…はるか遠くの空を。私はその塔の下を偶然通りかかったのです。古い塔だったのできっと…石造りの窓枠もだいぶ朽ちていたのでしょうね。彼の掛けていた窓枠の石組みが…嫌な感じに軋んで、思わず下から「危ない!」って声をかけたんです。それが、出会いでした。
彼と私は…すぐに意気投合して、まだ恋というものを知らなかった15の私は…まるでお兄さんのような、なんでも気持ちをぶつけられるいい友達が出来た、と、最初は無邪気に喜んでました。尤も…アレクセイの方は…その…、かなり早い段階で私のことを…友達ではなく…。

そこまで言うとユリアは少し恥じらった様子で頰を赤らめ目を伏せた。

「つまり、あの子は、15の可憐な少女の貴女に恋に落ちた。あなたのことを異性として見ていた。そうですよね?」

ヴァシリーサがユリアの言い淀んだその続きを口にする。
ユリアがコクリと頷いた。

ーーそんな子供子供していた私の無邪気な友情と信頼に、アレクセイはずっと紳士な態度で応えてくれていました。だけど…春も間近に迫ったカーニバルの直前のある日…、ひょんな流れで、とうとうアレクセイが、私に本当の気持ちをぶつけて来たのです。私のことを熱い眼差しで見つめて…そして…キスして…、その時にあまりビックリした私は…思わずアレクセイをその場において走って逃げ帰ってしまったんです。そして…。

そこで当時を思い出して可笑しくて仕方がないと言うようにユリアがプッと吹き出した。

「そして?どうしたのですか?」

「何とその直後に私は…、あまりのショックで熱を出して倒れちゃったんです!知恵熱ってやつですね」

ユリアとヴァシリーサが声を立てて二人で笑った。

ーー熱を出して、寝込んだベッドの中で、私は一生懸命考えました。本当は…もうとっくに…気づいていたんです。アレクセイの気持ちに。そして自分のアレクセイに対する気持ちにも。彼は…ただの友達ではない。あのキスは二人の間の必然だったと。…で、熱が下がって、真っ先に彼に会って気持ちを伝えました。自分もあなたと同じ気持ちだと。そして、私とアレクセイは晴れて恋人同士になりました。毎日会って手を繋いで、肩を抱かれ、髪を撫でられキスを交わし…。幸せでした。だけど…本当の意味でのアレクセイの正体と、彼に課せられた使命を知ったのも、ちょうど同じ頃でした。彼がロシアから指名手配されている反社会活動家だと言うこと、故国から差し向けられる秘密警察に日々命を狙われていること…。そしていつかロシアに帰る身であること。一方私も…庶子の身から一転アーレンスマイヤ家の三女として認知されたその本当の目的は…、すっかり没落して左前になった家を、良縁に嫁いで再興させること、つまり縁談の駒として利用するためで…。アレクセイはいつか国へ帰り、そして私は資産のある家に嫁ぐ。愛し合いながらも決して重なり合う事のないその変えがたい未来が、たまらなく悲しかった。そしてそのことは…二人の頭の片隅に常にあったように思います。二人の恋は、遠からず終わりの日を迎える、と。果たして…その日は突然に訪れました。ロシアから任務でドイツを訪れた皇帝陛下の忠実な家臣が、偶然私と一緒にいるアレクセイを目撃してしまったのです。…それに気づいた私は、当時アレクセイと同じ音楽学校の生徒で姉のチェロの教師をしていた義兄に、手紙を託けて、アレクセイに危険を知らせました。…アレクセイは危機一髪敵の手から逃れ、…彼とは以来それっきりです。あ、ちなみにその時私と彼の逢引を偶然目撃したのは…レオニードだったんです。…もう、大変でしたよ。その後。すっごい乱暴な詰問を受けて。手首に真っ赤な跡がつくぐらいギュッと強く捻り上げられて、「アレクセイ・ミハイロフをどこへやった!」って。

キュッと肩を竦めると、ユリアは当時を思い出しながら、眉間に皺を寄せ声を低くしてユスーポフ侯爵の口調を真似てみせた。

「オホホ。チャーミングな貴女が侯爵の真似をしても、あまり似ていませんね。でも…あの逞しい大きな手で腕をねじり上げられたら…それは痛かったでしょう?」

「ええ!それはもう。…でも私だって…ただやられぱなしじゃあありませんでしたわ。私の腕をねじり上げ、侮辱的な言葉を吐いた侯爵の…向こう脛を思いっきり蹴っ飛ばしてやりました!だから…そんなこんなで、初対面の時の印象は、お互い最悪だったのです。レオニードと私は」

「まあまあ!でも今はとても良い関係を築いていらっしゃるのね。侯爵があなたのことを、優秀で心映えも素晴らしいとベタ褒めしてらっしゃいましたよ。彼が柄にもなく熱心に勧めるもので、私もあなたに会ってみようと思ったのですから」

「そう…ですか。そうですね。彼とは…いつのまにか、随分と長い付き合いになってしまいました。最初の出会いこそは最悪だったものの、お互いを認め合い、尊重し合って、アレクセイとはまた違った意味で、今では私の中で一番信頼のおけるかけがえのない存在です。彼は」

「そうですか…」

「実はアレクセイが1905年のモスクワ蜂起に敗れて、死刑の宣告を受けた時に、皇帝陛下に助命嘆願を出したのは、他ならぬレオニードだったのです。そのことで感謝の気持ちを伝えた私に、彼言いました。「お前のためにやったのではない。ロシアが、これからのロシアが奴を必要とするからだ」と。レオニードもアレクセイも、対岸の立場にありながら、あのロシアという国の未来を正しく見据え、そして現状を憂えていた。そんな二人の優秀な人材が彼の国で活かしきれず…残念です」

ユリアが寂しそうな笑みを浮かべた。

「そう…ですね」

二人の間にしんみりとした空気が流れる。

その空気を破ったのは、ヴァシリーサの方だった。

「そうそ!そう言えばユリアさんはお歌がとても上手だと、アレクセイから聞いていますよ。綺麗なソプラノの声で歌うのだと。アレクセイがね、シベリアから戻ってきて、モスクワ蜂起の前にわたくしに預けたヴァイオリンを取りに来た、その時にね、何か弾くよう所望したわたくしに、あの子が弾いてくれたのがフォスターの…」

「夢路より?!」

「ええ、そう。甘美で艶やかな、それは素敵な演奏でした。でね!その曲を弾いているあの子を見て、わたくし、ピン!ときちゃったのですよ。これは…何かあの子の中の艶っぽい思い出の一曲なのだと。問い詰めたら…ビンゴ!でした。あの子、照れ臭そうに貴女との思い出を語ってくれましたのよ」

「あの曲は、彼と初めての…結局最初で最後になってしまいましたが、遠出をした時の、思い出の曲なんです。お忍びでね、電車の中で待ち合わせをして、郊外の我が家が所有している農園に、二人でサクランボの花を見に行ったんです。初めて見るアレクセイの私服姿。彼と車窓から眺める景色、親切な農園主夫妻と奥様がこしらえてくれた美味しい昼食。そして、まるで白い雪のような満開のサクランボの花!クローバーの緑の絨毯に咲く可憐なシロツメグサ。そこで私たちは…私とアレクセイは、二人でシロツメグサで花の冠を作って、シロツメグサの指輪を交換して、満開の花をつけたサクランボの木に永遠の愛を誓い合ったんです。「終生の愛と忠誠を誓います」って。…でもね、アレクセイに永遠の愛を誓いながらも、他の男性に嫁いだ罰が下ったのかな…。結婚生活は五年足らずで破綻しちゃいましたが」

最後はちょっと自嘲気味にユリウスが肩をすくめて、ペロリと舌を出してみせた。

「そうですか…。今は?どうされているの?」

「前の夫との間に出来た娘と実家に出戻って、今は母と娘と三人で実家の屋敷近くのメゾネットで暮らしてます。そして、結婚前から携わっていた家業のビジネスに専念しております」

「まぁ!優秀でいらっしゃるのね。ねえ、ユリアさん、シベリアから帰還したアレクセイが貴女を想いながら弾いた《夢路より》、今度は貴女の歌で聞かせてくれないかしら?アレクセイと貴女、二人の演奏で聴けなかったのは…残念だけど」
ーーね?いいでしょう?

ヴァシリーサにせがまれ、「では…お耳汚しですが…」と、ユリアが立ち上がり、両手を組み、あの頃に思いをはせる様に碧の目を閉じた。

beautiful dreamer awake unto me

応接室に、あの頃と変わらないユリアの澄んだソプラノが響き渡る。

その美しい歌声に、ヴァシリーサと、オークネフが夢幻に漂うようにうっとりとした面持ちで耳を傾ける。

 

beautiful dreamer awake unto me

歌い終わり、ヴァシリーサとオークネフから贈られた盛大な拍手に、ユリアがカーテンシーで応えた。

「あぁ、なんて素敵な時間…。ありがとう、ユリアさん。こんな身寄りもなく孤独な老人をわざわざロンドンまで訪ねてきてくれて。オークネフ、あれを…」

オークネフが、黒革の長細いケースを恭しく差し出した。

「これを…是非貴女に持っていて欲しいのです。受け取って貰えますか?」

見覚えのある…、忘れもしない黒革の、アレクセイの愛器を納めていたヴァイオリンケース!

「まさか…そんな…」

震える手が楽器ケースに伸びる。

中から現れたのは、思った通り、アレクセイのストラディバリだった。

「あぁ…!」

思わず楽器を取り上げ、滑らかなボディに頰を寄せる。
想いが込み上げ言葉が出てこない。

「ユリアさん。本当はね、この楽器は…お世話になっているユスーポフ侯爵にお譲りしようと思っていたの。そうしたらね、彼が…」
ーー自分よりもこの楽器を所有するに相応しい人間を知っている…と、貴女の存在を教えてくれて、引き合わせてくださったのよ。…わたくしとしても、貴女が持っていて下さるのが、アレクセイが、一番喜ぶような気がして。今日、あの子の形見のこの楽器を、貴女に託せて…本当に良かった。これで…肩の荷がおりましたよ。いつでも天に召されることが出来ます。

サバサバとそう言ったヴァシリーサに、

「そんな…!天に召されるなんて、仰らないで!ありがとうございます。ミハイロヴァ夫人。私たち…私とアレクセイは、お互い恋の形見は持たないようにしていたので…アレクセイを偲ぶ形見の品らしいものを、殆ど持っていなかったのです。あぁ、ありがとう。これは…大切にします。私…彼の母校の音楽学校の奨学金基金の運営をしているんです。これはいずれ…優秀で才能溢れる学生に貸与することにいたします。…その方がきっと…ヴァイオリンも、それからアレクセイも喜ぶと思うから!…帰ったらすぐにこの楽器のお代を送金しますね」

ユリアの言葉に、ヴァシリーサが目をパチクリと瞬かせる。

「代金?…いいですよ。そんなもの。わたくしはヴァイオリンなど弾きませんし、そんなわたくしがこれを持っていてもしょうがありませんもの。貴女の手で、有望なヴァイオリニストに橋渡しをして、その音色を存分に奏でられた方が、楽器も幸せというものでしょう。そう思いませんか?」

「でも…」

この楽器の価値をよくよく知っているのだろう。困ったような顔で楽器とヴァシリーサを交互に見ているユリアに、ヴァシリーサが一つの提案を持ちかけた。

「では、こう致しましょう!この楽器を譲るにあたり、貴女に一つ…いえ、二つお願いがあります」

「なんでしょう?」

「一つは…、たまにでいいので手紙を書いて下さらないかしら。それから…もし、商用などで英国を訪れた折には、顔を見せて下さる?それから二つめは…、わたくしのことは、ミハイロヴァ夫人ではなく、おばあさま、と呼んで頂戴?アレクセイの大切な人ですもの…あの子と同じように、おばあさま…と」

「それ…だけ?」

拍子抜けしたようにそう問いかけたユリアにヴァシリーサが大きく頷いた。

「分かり…ました。おばあさま。きっと手紙を書きます。アレクセイとの思い出とか、娘や母や…家族のこととか…、そんなことでよければ、たくさん沢山書きます!」

「ホホ…楽しみですこと」

「それから…ぼくのほうからも」

「なんでしょう?」

「ぼくのことは、是非ユリウス と呼んでくださいませんか?アレクセイも…親しい人は皆そう呼ぶので」

楽器ケースを後生大事そうに抱きしめたユリウスが、そう言って今日一番の晴れやかで美しい笑顔を見せた。

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