第七十七話Ⅹ
アデールが白蝶貝の透かし彫が施された愛用のコンパクトミラーを取り出し、顔を映した後に、指でそっと髪のカールを整える。
もうこれで、何度目だろう。
ーー大丈夫。完璧よ。アデール。
自分に言い聞かせ、口元をキュッと結ぶと、コンパクトをバッグにしまい、背筋を伸ばした。
夫とロストフスキーは、これから会見する取引相手のユリア・フォン・アーレンスマイヤを迎えに駅まで出向いている。
もう一度手元の書類をめくってみるが、緊張で文字が目を上滑りしていく。
ーー大丈夫。取引相手と言っても…とって食われる訳ではないわ。
アデールが長い深呼吸を一つついた。
〜〜〜〜
あの別居宣言と独立宣言の後、自分にも考えをまとめる時間が欲しい とロンドンへ戻って行ったレオニードから、ある晩電話があった。
冷静な口調の夫ではあったが、その落ち着いた声音の奥底に、彼の興奮が感じられた。
言われるままに、翌朝屋敷を発ち、ロンドンへと向かった。
初めて訪れる夫のオフィス。
夫と交わすビジネスの話。
思いもかけない展開に緊張で身体が引き緊まる一方で、アデールもまた興奮を覚えていた。
〜〜〜〜
「待っていたぞ。ようこそ、オフィスへ」
そのまま社長室に通された。
ーー掛けろ。
アデールの前に、美しくて若い英国人の事務員がお茶を置いて行った。
「本格的な…オフィスなのね」
アデールのトンチンカンな感想に、レオニードが小さく笑って正面に掛けた。
「当たり前だ。本格的な…事業を行なっているのだから」
レオニードが差し向かいに掛けると、ロストフスキーが書類の束をテーブルに置いた。
自分の爆弾宣言から、急ぎグラースのことを調べ上げたのだろう。
全農地の作付面積や収穫高、工場の生産高や設備の様子、資本、取引先…事細かに調べ上げられていた。
「単刀直入に言う。どうせやるならば、もっと大規模に買い取れ。足りない資金は私も出資するし、それで足りない分は銀行から融資を受けろ。私が、保証人になってやる」
ーーこの際中途半端なことは考えるな。大きなビジョンで一つ世間に仕掛けてやろうではないか。
そう言って不敵な笑いを投げかけた夫の顔に、往時の戦地に思いを馳せていた頃の面差しが蘇った。
「どうだ?アデール。グラースだけなどとケチくさいことを言わず、このヨーロッパ全土を舞台に、ビジネスを展開するのは」
落ち着いた口調ではあるが、全身から漂う夫の凄みに押されてアデールが思わず無言で頷いた。
〜〜〜〜
「実はな、私のビジネス相手から相談を受けていたのを思い出したのだ。買収した製薬会社で新事業、化粧品事業を展開すると。選りすぐりの原材料を贅沢に使い、値はやや張るが上質でハイセンスなものをドイツでも作りたい…と。なんだ?イタリアの老舗の…サン、サンタ…」
「サンタ・マリア・ノヴェッラ?」
「そう!そうだ。そなた流石に詳しいな。そういう製品を、まずは通信販売を軸に完全顧客管理をしながらリリースしていく予定らしい。顧客の対象は、彼女の携わっている都市計画で郊外に作ったヴィラに暮らす有閑マダムたちだな」
「女性…ですの?そのビジネスのお相手…は」
「そうだ。ユリア・フォン・アーレンスマイヤと言って、私の最も古いビジネスの同志だ。まぁお前も、知らない名ではないな」
知らないどころか…!
その女性を巡ってここ一月まるで嵐の中で翻弄されるような心持ちを味わってきたのだった。
「…」
「どうだ?ユリアと組んでビジネスをする気はないか?」
「…」
即答出来ず押し黙ったアデールに、「まぁ、どんなビジネスをしているかも分からない相手なら、即答出来ぬのも当然か」と言いながら、「ロストフスキー」と傍のロストフスキーに別の書類を持って来させた。
「アーレンスマイヤ商会の業績の一部だ。目を通してみろ」
言われるままに、そのレポートに目を通す。
「すごい…」
「今のドイツで、これだけの業績…結果を出しているのは、驚愕に値する。これらを、このアーレンスマイヤ商会は女性二人、この家の姉妹が采配を振るっているのだ」
戦時中もそつなく利益を上げ、敗戦とドイツ革命の影響で見舞われたインフレと不況にも設備投資や不動産買収などで見事に対応している。
まるで
魔術師だ。
「プリンセス育ちの、経営はズブの素人ながら、そなたはそれを補って余りある並外れたツキを持っている。今のヨーロッパでアーレンスマイヤ商会とのビジネスチャンスを窺っている実業家はゴマンといるのに、その千載一遇のチャンスが向こうの方からやって来るのだからな。…なぁ、アデール。これだけの話を、個人的なつまらない感情で棒に振るようならば、そなたの覚悟と器もタカが知れてるというものだ。悪いことは言わぬから、むざむざ資産を減らす前に経営など諦めてあの屋敷で私に養われてろ!」
「…おっしゃいましたわね」
「本当のことだ。どうする?このチャンスに、伸るか反るか?」
「のります。ユリア女史、フラウアーレンスマイヤとのセッティング、進めて頂けますか?」
「よかろう。ではこれから、そなたはユリアとの会見の前に、やる事が山ほどあるぞ。覚悟はよいか?」
「ええ。望むところです」
「私とシフも、この取引が纏まるよう、出来る限りそなたに力を貸そう。まずはここが最初の正念場だ。頑張れるな?」
夫の激励にアデールは力強く頷くと、差し出された手を握り返した。
それから会見をセッティングした日までは、目まぐるしい日々だった。
夫とそして時折シフも交えて何度も現地へ足を運び、農場主や工場主と話しをし、買収をまとめ、畑や工場の設備をチェックし、改善の必要のあるもの新しい機械を導入する必要のあるものは、銀行から融資を受け整えていく。
同時にボーから農園で採れる植物や工場で加工される香料の知識のレクチャーも受ける。
またある時はシフから経営の基本的な知識を叩き込まれる。
今まで勉強らしい勉強をしたことのなかったアデールの脳みそが引き絞られるような悲鳴をあげる。
屋敷に帰る暇もなく昼間はレオニードのオフィスでレオニードやシフについて書類を整え、夜は滞在しているホテルで深夜まで経営や扱う花や香料の勉強に励む。
いつしか頰は削げ、目の下には濃いクマが浮かんでいた。
いよいよ会見の前日、アデールはロンドンへ来て初めてショッピングに出かけた。
新しいドレスを新調し、美容室へ行って髪を整える。
細身の洗練されたシルエットのアンサンブルドレスに身を包み、髪を整えたアデールに、持ち前の美しさと漲る自信が戻った。
〜〜〜〜
「初めまして。ユリア・フォン・アーレンスマイヤと申します。マダム・ユスーポヴァ、お会いできて光栄です」
レオニードに伴われてやって来たその女性は、アデールよりもやや年の頃は若いだろうか?美貌で鳴らすアデールをして、目を見張るような輝く美貌と、それ以上に溌剌とした魅力に溢れる女性だった。
人懐こい笑顔で自己紹介をし、アデールに握手の右手を差し出した。
「は…初めまして。アデール…アデール・アレクサンドロヴナ・…ユスーポヴァと申します」
「彼女は、アニエス・サンデュ。新生サンデュ製薬の副社長です。財務などの経営面は全てこの子に任せてありますので、何でも頼ってください。これでも会計士の資格を持っていて見た目よりずーっと優秀だから」
ユリアが一緒にロンドン入りした若い女性を紹介する。アナスタシアと同じくらいの年頃だろうか。ユリアのように飛び抜けた美人というわけではないが、聡明そうな面差しをした感じの良さそうな女性である。
「社長!」
「あはは。ゴメンゴメン!若くて可愛いのに優秀だって言いたかったの!」
なんというか…ヨーロッパ実業界に名を馳せるやり手とは思えない…、気さくさである。
屈託無く喋り笑う。
思わず釣られてアデールの顔も綻んだ。
「あ、やっと笑ってくれた」
「え?」
「だって…さっきからずーっと強張った顔してるんだもの。ねえ?アニエス」
同意を求められたアニエスもユリアにコクリと頷く。
「ぼくはね、長くお付き合いをしたい人とは、親しくなることを急がないことにしてるんだ。ねえ、まずは、あなたと他愛のないおしゃべりがしたいな」
「え?」
「レオニード、せっかくロンドンに来たのだから、アフタヌーンティがしたい。ぼくもアニエスもその心算で来たから…お腹ぺこぺこなんだ」
ーーね?
ーーハイ。
クシャッと鼻筋にシワを寄せながら、いたずらっ子のようにユリアとアニエスが顔を見合わせて笑い合った。
〜〜〜〜
車をメイフェアストリートに回す。
「お二人のお部屋もここにお取りしておりますので」
向かった先はロンドンでも屈指の格式のホテルだった。
ティールームでレオニード、ロストフスキー、アデール、そしてゲストのユリアとアニエス、5人でアフタヌーンティを頂く。
「美味しいですね」
「美味しいね」
ユリアとのアニエスは、本場のアフタヌーンティにご満悦である。
「復縁されるのですってね。おめでとうございます」
「ありがとう…」
「あの、つっこんだこと…聞いてもいいかな?復縁されたのに、夫婦が別居されるのは…あの、もしかして」
「別に…あなたのせいではないわ。…まぁ、きっかけはそうだったかもしれないけれど」
もうそのことはすっかり自分の中で解決しているのだろう、ティーカップから立ち上る芳香を堪能しながらサバサバとアデールが答える。
「おい、アデール!」
「…こないだ偶然会った母から言われたの。あなたが一番信じたい人の言葉を信じなさいって。だからわたくしは、レオニードの言葉を信じるわ。それから、わたくし自身の直感と、ね。わたくし大事なことは全部自分で判断して自分で決断することに致してますのよ。些細なことも…些細じゃないこともね。自分の気持ちを誤魔化して、納得のいかない人生を生きるなんて、真っ平だわ」
「うん。そうだね。それは同感だな。ぼくもね、よく娘に言われるんだ「ママは大事なことはいっつも自分一人で決める」って」
「…そのお嬢さんが、わたくしのレオニード、あ、息子の方よ! と将来娶せようとレオニードと話していたお嬢さんなのね」
ちょっと面白そうにクスリと笑いながらアデールが言った。
「参ったな…。あの戯言がよもや奥様の耳に入ることになるなんて。ごめんなさい、冗談とは言え、あまり愉快ではなかったでしょう?」
「まぁ…ね。最初は正直…ショックだったけど、今は愉快だわ。ねぇ、今度お嬢さんとも会わせて頂戴よ!なんだか今となっては俄然興味湧いてきてよ、わたくし。だって…将来の義理の母になるかも知らないのですもの!」
ーーね?
アデールに視線で同意を求められたレオニードが、バツの悪そうな顔で黙々とサンドウィッチを口に運んでいる。
「ホント?…写真ならば今持ってるよ」
「あら、見せて!…まぁ!綺麗な子!あなたにそっくりなのね、あなたのようなブロンドなのかしら?瞳は?ブルー?」
「うん。目の色も髪の色もぼくと同じ」
「今はおいくつ?女学校に通われているの?将来はやはり…あなたの跡を継ぐのかしら?」
「おい、アデール!」
「今は11歳。地元の女学校へ通っているよ。事業を継がせることは…今はあまり考えていないかな。音楽と学問…数学や物理化学に興味があるようだから…これからじっくり進路を決めればいいと思う。ぼくは彼女の選択を尊重するよ」
「そうなの。女の子なのに優秀なのね。音楽はなんの楽器をやられているの?」
「ピアノとハープ」
「まぁ、ハープ!さぞかし美しいでしょうね。まるで天使の奏でるハープだわね」
「ハハ…。うん、まぁ…地元ではそう言われることもあるみたいだけど。そちらは?レオニード…ああ!なんだかややこしいね」
そう言ってユリウスがチラリと(父親の方の)レオニードを見やる。
「Jr.、でいいわ。彼もそう呼んでいるから」
「そう…。じゃあ、Jr.は?ウチよりも確か3つほど下だったよね?」
「ええ、そうよ。今は8つ。これからパブリックスクールの入学準備に入るところよ」
「え…?じゃあ…Jr.とは、離れ離れになっちゃうの?」
サバサバとしたアデールとはうらはらにそれを聞いたユリウスの顔が曇る。
「…そんな顔しないで!男の子ですもの。いつまでも母親の懐の中にいるわけにはいかないわ。あの子には生まれてから今まで十分に愛情をかけてきたから…そろそろ独立心を養ってもらわないと」
「ふうん。すごいね。…ぼくは、娘と離れ離れになるなんて…今は考えられないよ」
「それは、男の子と女の子は違うもの。女の子は…多分これから一番精神的に母親を必要とする時期になるのではないかしら?」
「そう…かな?」
「そうよ。…わたくしの母は、子供に殆ど関心のない人でね。それがずっと当たり前だったから…特に淋しいとかそういうのはなかったけれど…でも、同じ女性として、人生の先輩として、相談に乗ってもらいたいことは…やっぱりあったわね。少女時代にもう少し…母がわたくしの悩みや相談事に耳を傾けてくれる人だったら…レオニードとの結婚生活も…。少なくともあんなに無駄な時間を過ごしたりはしなかったかもしれないわね」
「アデール…」
「あ、あら!なんだかしんみりしちゃったわね。でも、結局今はこうしてレオニードと再会して復縁しているのだから…結果オーライだわね。あなたのところは?どうだった?お母様とは」
「うん…。優しくて、頼りになって…本当に、あなたの言う通り、人生と先輩として、同じ女性として、ぼくの成長を、人生をいつもそばで見守ってくれていた。それは今でも変わらないかな」
「そう…。羨ましいわね。あなたのお母様にも、いつか是非お会いしてみたいわ」
「母には…、あ、母は今はデザイナーとして仕事もしていて、だから、今回の新商品のボトルデザイン全般を担当してもらう予定なんだ。サンプルが出来たらあなたにも送るよ」
「レナーテさんは…、彼女の母親は、遅咲きのデザイナーとしての才能を開花させて、今は食器やファブリックのテキスタイルデザインなどを手がけているのだ。私も彼女がデザインしたマグカップをプレゼントされて、今ロンドンの住まいで毎日使っているぞ」
「レナーテさんらしい花の模様が、手に取るたびに優しい気持ちになります」
「ああ!そういえば母さんがロンドンに送ってたね。男同士でペアマグなんてそれどうなの?って思ったけど、母さん「いいのよいいのよ」って。でも気に入ってもらえたのなら良かった。母さんにも伝えておくね」
〜〜〜〜
美味しいアフタヌーンティを囲んだ楽しい時間ですっかり打ち解け、最初のぎこちなさが嘘のように和気藹々とした中で会見の時間も残り少なくなって来た頃に、アデールがユリウスに切り出した。
「ねえ、何故、化粧品事業を始めようと思ったの?女性が化粧品を選ぶ、使うって…特別な意味を持つと思うの。…だから女性のあなたが化粧品を手掛けようと思ったのは、勿論利益とか、そう言った計算や戦略もあってのことかもしれないけれど…多分それだけじゃないように思って。女性にとって化粧品というものは特別なものだから。だから…あなたがこの事業を始めようと思った理由を聞かせて」
アデールの質問に、ユリウスが静かに語り出した。
「そうだね…。確かにあなたのいう通り…女性にとって肌に髪に直接触れるものというのは…特別な意味を持つよね。ぼくにとっても…そうだったかな」
ーーあのね…。ぼくの本当の…生まれた時に母さんがつけてくれた名前は、ユリアではなく、ユリウスって言うんだ。ぼくは、父に棄てられた母さんの、いつかアーレンスマイヤ家の嫡子として家と財産を乗っ取るという計画のために、男の子として育てられたんだ。
ユリウスが極めて特異だった自分の前半生を語り出した。
〜〜〜〜
1903年
ーーこんなの、変だ!やっぱし、女の子の格好なんて…ぼくには似合わない。
性を偽っていたことが発覚し、晴れて(?)令嬢としての人生をスタートさせたユリウス改めユリアだったが、女性として装った自分の姿を、まだ直視することが出来ずにいた。
姿見に、ドレス姿の、結った髪にリボンを結んだ自分を映す。
痩せっぽちで、険しい表情をして、髪だって短いのを無理やりリボンなんてつけたりして…なんだか滑稽だ!
身なりだけ女の子に戻したって…全然おかしいや!
乱暴に髪のリボンを解くと、ユリウスは不貞腐れたようにプイと姿見に背中を向けた。
「ユリウス、ユーリカ。リボンが落ちていたわよ。…あら、解いちゃったのね。せっかく似合っていたのに…どうして?」
開いた窓の窓枠に頬杖をついて、入ってくる風に髪を遊ばせていた娘の透けるような金の髪に、アデールがそっと手を伸ばす。
ユリウスが苛立たしげに、その手を振り払った。
「ユーリカ…」
「全然…どこが?どこが似合ってるの?てんでおかしいよ!ちぐはぐで、似合わない女の子の格好なんて、おかしいよ!…でももう…男の子にも…戻れない!…ねえ、ぼくはどうすればいいの?…どうしたらおかしくなくなるの?」
そう言ってユリウスは窓枠に突っぷすと、シクシクと泣き出した。
そんな娘の不憫な姿に、胸が締め付けられる。
「誰かに…変だって、言われたの?」
娘の細い背中を撫でながらそう聞いたレナーテに、ユリウスが首を横に振った。
「誰かって…一体誰?ぼくはここではひとりぼっちだもの。変だと指差して笑う人すら…ぼくにはいやしないよ」
顔を突っ伏したまま嗚咽交じりにそう訴えたユリウスに、「ごめんね…ごめんなさいね」と言い続けることしか出来なかった。
〜〜
一日が終わり、ドレスからナイトウエアに着替える。
上質な生地に繊細なレースをあしらった白い夜着に身を包んだ娘をドレッサーの前にかけさせる。
相変わらず鏡を直視することを嫌がって俯きがちな娘の髪を丁寧にブラシで梳いてゆく。
肩ほどの長さの波打つ娘の金髪が一梳きごとに艶を放つ。
「とても綺麗な髪だわ。…大事にしてあげて」
ブラシを置いたレナーテがそう言って頭のてっぺんにキスをすると、ヘアオイルの瓶を取り中身を掌に開け、丁寧に娘の髪に揉み込んで行った。
ますます金の髪が輝きを放つ。
上質な香料を使っているのだろうオイルから仄かに漂う花の香りに、ユリウスがクンと小さく鼻を鳴らし、わずかに顔を上げた。
「こっちを向いて、ユーリカ」
手を前掛けで拭い、娘を向かい合わすと、レナーテは今度はハーブウォーターを手に取り娘の顔に丁寧に叩き込んだ。
ずっと機嫌を損ねて険しい顔をしていた娘の表情が和らいでいくのが分かる。
クリームを手に取り十分に掌で温めると、娘の頰と首筋デコルテから腕、指先へと丹念に塗り込んで行く。
晩の身仕舞を終えた娘が頰に手を当て、髪に触れ、その手を鼻の前に持って行った。
「柔らかい…。それに…ぼくいい匂いがする」
すっかり柔和な表情になり、ポツリとそう呟いたユリウスの肩を抱き、二人してドレッサーの鏡に姿を映す。
「そうよ。柔らかくて、いい匂いがして…。白いおでこはすべすべ、柔らかな頰はバラ色、唇はさくらんぼのよう。艶やかな髪は夏の溢れるような陽光の金。白い手は砂糖菓子のよう。…自信を持って鏡を見てごらんなさい。こんなに愛らしい少女は町中、いいえ、ドイツ中を探したっていやしないわ」
歌うように耳元でそう言われたユリウスが、恐る恐る、鏡に向かって顔を上げ、ぎこちなく微笑んだ。
〜〜〜〜
「あの時の…ハーブウォーターとクリームとヘアオイルの香りが…自分の中の女の子の扉を開いてくれたんだ。頑なになっていたぼくを、いとも簡単に女の子の方へ引き入れてくれた。昼間のちぐはぐな自分は…正真正銘の女の子だった。ぼくは女の子なんだ。女の子でいいんだ。花の香りと柔らかな肌と髪の感触が何よりも雄弁にそう言ってくれていた。それから…」
〜〜
1904年
いつもの場所でアレクセイがユリウスの肩を抱き寄せ、長い髪に指を絡ませ鼻を近づける。
「お前、いい匂いがする…」
柔らかな金の髪に顔を埋め鼻をひくつかせたアレクセイに肩を抱かれたままユリウスがこそばゆそうに身体を小さくよじってクスクス笑う。
「くすぐったいよ。アレクセイ!…それはぼくの匂いじゃなくて…ぼくがつけてるヘアオイルとクリームの香りだよ」
「いーんだよ。お前から立ち上る香りは、お前の香りで!うーん、たまらん!食っちまいたいな」
アレクセイが両手でユリウスを抱きしめると、水蜜桃のような柔らかな頰に音を立ててキスをした。
「くすぐったいってば!もう、アレクセイったら」
アレクセイの息遣いと頰に擦り寄る鼻先と、サラサラの亜麻色の髪の毛先の感触。
あれは16歳になったばかりだった。
〜〜
「あ!今、社長昔の良い人のことを思い出してたでしょう?」
アニエスに指摘されたユリウスの美しい顔がパッと薔薇色に染まる。
「アレクセイ・ミハイロフ …?」
アデールの口から出て来たその名に
「え?ええ!?…そんな…。なんで知って…、あぁ、おばあさまから聞いたのか」
と、狼狽えながらも合点する。
「ええ、まあそんなところね。…あら、レオニードったら、なんて顔なさってるの?まぁ、あなたにとっては愉快な名前ではないわね。でもそんな仏頂面はやめて頂戴。せっかくのお菓子がまずくなるわ」
思いがけず話題がアレクセイ・ミハイロフに及び、普段は無表情を決め込んでいるレオニードが柄になく仏頂面で紅茶をすすっているのを、目ざとくアデールが指摘する。
容赦のないそのツッコミに、傍のロストフスキーの方が狼狽えて落ち着きを失う始末である。
「…紅茶が渋いだけだ」
「あら、そう。ならば給仕にお湯を足して貰えばいいじゃない」
「もう、よい!私は仕事へ戻る!ロストフスキー!」
「はっ!」
アデールにおちょくられ、苦々しい顔でレオニードが席を立つと、大股でティールームを出て行った。
「侯!」
レオニードの背中を目で追いながら、ロストフスキーが三人に「どうぞお三方は引き続きごゆっくりお過ごしくださいませ。…頃合いを見て車で迎えに上がります」と言い置くと、慌ててレオニードの後を追っていくのだった。
こうして会見の初日はお互い打ち解けて和気藹々と過ぎて行った。
~~~~~
翌日からは実務面のヒアリングとディスカッションを交わし、結局アデールとサンデュ製薬は、単なる原材料の取引という形ではなく、業務提携と資本提携という一歩踏み込んだ形で手を結ぶことが決まった。初年はドイツ国内のみでのリリースとなるが、翌年からはフランス、そして英国での販売も視野に入れること、そして英国での販売が決定した暁にはレオニードの会社が販売代理店を引き受けることで、話し合いがまとまった。
そして、
このロシアとドイツの令嬢たちがタッグを組んだ新事業に、新たにもう一人の令嬢―、ヴェーラ・ユスーポヴァが広報担当として加わり(教養と知性と今風の洗練された美貌に恵まれ、育ちの良さから誰に対しても物おじすることなく、何と言ってもアデールに過去の借りをちらつかせながらアナスタシアへの怒りの矛を収めさせた、存外したたかな一面を、他でもないアデールが見込んで、熱心に参加をすすめたのだった)、新生サンデュ製薬はスタートしたのだった。
この画期的な新事業のスタートが、後に―、大きな運命の巡り会わせに導くことを、まだ当事者であるユリウスはじめ、誰一人としてあずかり知らなかった。
アデールが南仏グラースで農場と香料工場の経営を行う…この設定の元ネタは、『ロシア幻想』『W’s』の管理人でいらっしゃる浪.Co様のアイデアから着想を得ました。改めてお礼を申し上げます。
