第七十七話 Ⅰ
1919年4月
ジョージ五世陛下が、クリミアに残されたお祖母様を始めとする皇族の救済のために軍艦を黒海にお差し向けになられた。
その軍艦、マールバラ号に乗船していた皇族の中には、義父の元妻で、私の従姉にあたるアデールも含まれていた。
停泊したイスタンブールまで義父自ら迎えに出向き、彼女たちは英国の義父の屋敷にやって来た。
〜〜〜〜
「アデール!」
「あなた?…あなた!!」
イスタンブールに到着したマールバラの甲板に忘れもしない黒い髪の長身の男が上がってきた。
まさか自分のことを迎えに来てくれるなどとは思いもよらなかった。
これは夢…だろうか?
目の前の元夫に茫然としているアデールに、「姫様、旦那様ですよ。夢ではございませんよ」と涙声のネーリが背中を優しく押してくれた。
おずおずと夫の方に一歩二歩と近づいたアデールの身体を夫の逞しい腕が抱きしめた。
「ああ…無事で、無事でよかった。…本当に済まなかった。極秘任務のために、そなたたちを革命の嵐の中に置き去りにしたこと…」
アデールの身体を抱きしめた夫の声も少し涙交じりに掠れていた。
その言葉に、革命から今に至るまでの苦悩が全て報われる昇華していくのをアデールは感じていた。
「いいえ…いいえ。…迎えに来て下さるなんて…。わたくしたちのことを…迎えに来てくれるなんて…」
「当たり前ではないか!…私たちは…夫婦だったのだから」
ーーあぁ!
「レオニード!レオニード!!」
ーー革命が起こってから、クリミアに幽閉されてから…毎日が不安だった!このまま自分たちは、息子は…どうなってしまうのだろう…と時に気が違いそうなほど、不安だった!
夫の腕の中でようやく重荷を下ろし子供のように泣きじゃくるアデールの背中を「よくやった。本当によくやった。お前は本当に見上げた女だ」とレオニードの大きな手が、アデールの感情が収まるまでずっと撫で続けていた。
アデールの傍で、侍女のネーリに手を繋がれ大人しく夫婦の再会劇を眺めていた黒髪の少年に目をやる。
かつてたった一度、あのラスプーチンの殺害を成し遂げた折に一度だけ会った血を分けた幼子は、聡そうな面立ちをした8つの少年に成長していた。
「ジュニア…だな」
「ええ。あなたと…わたくしの息子の。…大きくなりましたでしょう?」
「ああ。ああ…そうだな」
「さ、レオニード。…いつも母が話して聞かせていたお父様ですよ。話していた通りの立派なお人でしょう?…ご挨拶なさい」
「初めまして。父上。レオニードです。…お会いできて嬉しいです」
自分とよく面差しの似た少年が、ハキハキと名乗った。
自分に向けられた素直な笑顔に、レオニードの胸がキュッと締め付けられる。
「ジュニア…。今までよく…父に代わってお母様を守ってくれた。お前は素晴らしい子だ。父の…レオニードだ。…私もレオニードと言うのだよ」
父親にそう言って抱きしめられた小さな息子がその腕の中で、何かを記憶の奥底から手繰りよせようとするかのように目をパチクリと瞬かせている。
「…ジュニア?」
小首を傾げて自分の顔をじっと眺めている息子に、レオニードが呼びかける。
「今よりも…ずっとずっと小さかった頃…まだヤルタで暮らす前…僕は同じ言葉をかけられたことが…あるような気がするのです。…小さかったから…顔は思い出せないのですが…。寒い…雪の沢山降っている冬の日に…」
何か不確かな夢の話をするような口調でそう言ったレオニードJr.に、その時の状況を知るネーリが両手で口を押さえ声にならない声を上げる。
「ネーリ?」
「…そうです。そうですよ!覚えておられたのですね?若様!その時若様にそうお声をかけられたのは…紛れもなくこの目の前にいらっしゃる…お父上様だったのですよ!」
「僕は…?父上に…お会いしていた?」
「あぁ!そうだ。まだこんなに小さかったお前と一瞬だったが、私はお前とまみえ言葉を交わす機会が一度だけあったのだ。…覚えていてくれたのだな」
息子の背の高さにかがみ、感に耐えたようにもう一度レオニードが息子を強く抱きしめた。
その姿にネーリとアデールは、体を寄せ合って涙にむせんでいたのだった。
離婚してからの、アデールとネーリの波乱万丈の冒険譚の第一章が、ようやく幸せな結びを迎えた瞬間だった。
〜〜〜〜
「あなた…ご紹介致しますわ」
ーークリミアで出会い知り合った、わたくしの大切なお友達ですの。…心から語り合え信頼できる友に…わたくしあの地にて、初めて出会いましたのよ。
そう言って少し離れたところで感動の再会を目を細めて見つめていた老婦人とその随従をレオニードに引き合わせた。
「こちら、ヴァシリーサ・ミハイロヴナ様。わたくしの人生の大先輩で…腹心の友ですわ」
アデールが引き合わせた上品で、齢は重ねているが矍鑠と威厳を失わないその老婦人の姿と、名前にレオニードは彼女が誰であるか悟ったようだ。
レオニードの顔に僅かな表情の変化が見える。
「過ぎたご紹介に預かり、恐縮至極でございます。ヴァシリーサ・ミハイロヴナ・ミハイロヴァと申します」
腰を軽く折って挨拶し、優雅に差し出された老婦人の白い手を、レオニードが恭しく押し戴いた。
「…お互いにこの数年は、まるで嵐に翻弄される小舟のような年月でございましたな。…御令孫のことは新聞で知りました。大変遺憾に思います。ミハイロフ侯爵夫人。この激動の時代をこうして凛と生き抜いた貴女に、最大の敬意を表します。そして…アデールの、良き友となってくれて、彼女の精神的な支えとなってくれて、心から礼を申し上げます。是非、わたくしの、アデールと共に英国の邸宅にご逗留下さいませ。我々若輩者の人生の良き師として、歓迎申し上げます」
レオニードに丁重な挨拶と招きを受けたヴァシリーサが、恐縮し切って傍の若い友人に視線を向ける。
「是非…是非、一緒に来てくださいますわよね?」
甘えたようにヴァシリーサの手を握りそう言ったアデールと、その背後に寄り添っている元ロシア帝国侯爵、レオニード・ユスーポフの顔を交互に見遣ると、「お言葉に甘えて、しばらくお世話になります。このご恩は忘れません」とヴァシリーサが深々と頭を下げた。
かくして、アデールとネーリ、レオニードJr.と、その友人ヴァシリーサ・ミハイロヴァ元侯爵夫人とその一行は、イスタンブールから北上し、オーステンデで海峡を渡り、英国へと到着したのだった。
〜〜〜〜
レオニード・ユスーポフ侯爵の邸宅は、ロンドン郊外の瀟洒な屋敷だった。
執事は置いていないようである。侯爵の秘書だろうか…、怜悧そうな面差しをした侯爵と大凡年の頃同年代の男性と、侯爵とどことなく面立ちの似た美しい女性がエントランスで一行を出迎えてくれた。
「執事は置いていないのです。その代わりに、秘書のロストフスキーと妹のヴェーラが家内のことは全て取り仕切っております」
「ようこそおいでくださいました。道中の困難と苦難、お察し申し上げます。侯爵の秘書を務めておりますロストフスキーと申します。以後、お見知り置きを」
ヴァシリーサ一行と引き合わされたロストフスキーが恭しく名乗り挨拶する。
「ご逗留頂くお部屋にご案内申し上げます」
ロストフスキーに案内され、ミハイロフ侯爵家一行、ヴァシリーサと執事のオークネフ、そしてヴァシリーサ付きの女中のリザが続いて行った。
〜〜〜〜
「この子がお兄様の?」
「…ああ」
「初めまして。叔母さま。レオニードと申します。これからお世話になります」
ヴェーラにもハキハキと挨拶する。
素直で子供らしい無邪気さと元気の良さがなんとも愛おしい。
「初めまして。貴方の叔母さまの、ヴェーラよ。これから仲良くやっていきましょうね」
初対面の甥に挨拶を返すと、今度はアデールに、「お義姉様、クリミア幽閉からこの度の英国海軍による救出までのご苦難、心よりお察し申し上げますわ。わたくしも…命からがらあの革命のさ中を国外へ逃れましたので…」
心のこもった言葉と両手を握りしめてくれた掌の暖かさに、感慨が込み上げてくる。
あぁ、自分はかつてこの夫の妹に、正義を嵩に酷いことをしたのだった…と過去の行いが苦く心に蘇る。
優しいいたわりの言葉をかけてくれた義妹をじっと見つめる。
革命前の頃は、美人だったがお堅く、加えて本人も華やかな社交の場に出ることにあまり積極的ではなかったせいか、上品だけどどこか華やかな女性らしさに欠ける印象があつた。
正直…散々遊び歩いて馬鹿をやっていた頃には、女としての格は自分と彼女は月とスッポンだと殊更に低く見ていた。
年頃の若い娘なのに、遠出もパーティにも興味を示さず、いつも読書か手芸をしているか、せいぜいオペラの鑑賞程度の社交しかしなかった彼女をまるでオールドミスの伯母たちのようだと仲間内で揶揄していた。
そんな彼女は、革命後国を出てから都会の水に洗われ、驚くほど美しく洗練されていた。
時代が彼女に追いついた…と言うべきか、今風の膝丈のシンプルでタイトなドレスに軽やかなショートヘアが長身細身で理知的な目をした彼女の美しい顔立ちと体型をよく引き立てている。
そして彼女もそれを自覚しているのだろう、目の前の義妹は今を咲き誇る花のように自信に溢れ美しく、眩かった。
それに引きかえ…。
クリミア幽閉から手持ちの宝飾品もドレスもあらかた手放し、救出された時にはほぼ着の身着のままだった自分。
改めて己の格好を顧みると、全てが流行遅れの、前時代のドレスを纏った自分かひどく野暮臭く思える。洗練されたヴェーラを直視することができず、思わず彼女から視線を外し俯いてしまった。
「…」
視線を落とし、自分の見に纏っているベルエポック風のドレスを見下ろし俯いた義姉の心のうちをヴェーラは女の勘ですぐに察した。
革命前はロマノフ家の華、宮廷一の美女ともてはやされた義姉。
義兄と別れてから憑き物が落ちたように社交の場から距離を置き、離婚の際に譲られた領地に隠遁してなかなか健全な領地経営をしていたことは聞き知っていた。
きっと女手ひとつで子供を育てて行くために彼女もなりふり構わず必死だったのだろう。
ヴェーラは昔と明らかに顔つきが変わり、キリリと引き締まった表情と目に強い光を湛えた彼女を昔よりも遥かに美しく好ましいと感じたが、当の彼女は必ずしもそうではない部分もあるのだろう。
「あの…ね」
俯いたアデールに、ヴェーラが語りかける。
「 わたくし、一昨年の夏の終わりの混乱の最中に、偽造旅券で出国し、単身…ドイツの当時兄たちが逗留していたとある屋敷へ辿り着いたの。わたくしはたった一人の…女性一人の逃避行だったから…わたくしの身を案じた兄がね、用意した偽造旅券は…男性のものだったのよ。それでね、わたくしはその旅券の写真に合わせて、ドレスを脱ぎ男装し…髪も短く切って、その偽造旅券で国を出て亡命を敢行しましたの」
その語りに思わず顔を上げたアデールに、その時の名残のショートヘアにそっと手を遣りながらヴェーラが微笑みかけた。
「周りに味方はなく、孤独で…しかも停車する駅という駅にボリシェヴィキの兵士が待ち構えていて、旅券が偽造だとバレて連行されたらどうしよう…、女だと分かって乱暴されたらどうしよう…、気持ちを緩めた隙に荷物を盗まれたらどうしよう…始終気を張り詰めて、列車の中では目をつけられないように身を硬くして気配を殺しながら…国境を越えるまで地獄の門が大きく開いたその上に張られたロープの上を渡っているような気分だった。殆ど眠ることも食べることもできずに、ガリガリに消耗して、おまけに…」
そこまで言うとヴェーラは小さく思い出し笑いを漏らした。
「おまけに?」
「その列車は我先と出国する人たちでぎゅうぎゅう詰めで、皆着の身着のままのような状態だから、入浴どころか着替えすらままならない状態で、酷く衛生状態が悪くって…ずっと同じスーツを着た切り雀だったわたくしも…身体中ノミに食われて…、ドイツの逗留先に着いてすぐにお風呂を用意してもらって、その時亡命して以来ようやく衣服を脱ぐことができたのだけど、わたくしのその時の身体ときたら、肌いっぱいに赤いノミの食い跡が散っていて…。まるで赤い水玉模様の服を着ているみたいだった!逗留先の女性たちがわたくしの入浴に手を貸してくれたのだけど、ノミの食い跡でいっぱいの身体を見られたのだけは恥ずかしかったことを今でも鮮明に覚えていますわ」
まるで笑い話のように語ってみせるが、その旅は、アデールよりもはるかに過酷で孤独だった筈だ。
同じような修羅場をくぐり抜けたヴェーラを、初めてアデールは身近に感じることが出来た。
「?どうなさいました?お義姉様?」
押し黙ったまま、じっとヴェーラの亡命譚に耳を傾けていたアデールにソロソロと声をかける。
ヴェーラに声をかけられたアデールが、晴れやかな声でヴェーラに言った。
「素敵に洗練されたあなたを見て、わたくしも久しぶりに思い切りおしゃれをしたくなったわ」
ーーわたくしのお買い物に…付き合って下さる?
自分でもびっくりするほど、その言葉が自然に口をついて出た。
漸く昔のような華やいだ表情を見せたアデールのお願いを、ヴェーラも笑顔で応じる。
「ええ。喜んで」
ーーどうせなら海峡を渡って、ドーヴィルまで足を伸ばして今評判のメゾンで、ドレスを仕立てましょう。