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​第七十六話

​第一章

「すみません。ここに助産師さんがいるって…」

1919年
赤十字の従軍看護婦として東部戦線に派遣され前年の末、終戦を受けてやっとウィーンに戻り、助産婦の仕事に復帰したフリデリーケの元に、一人の中年女性が飛び込んできた。

恰幅の良いその女性は、身なりや香水の匂いなどから…、身体を売って生業を得ている女性であることは一目でわかった。

彼女の身なりから同胞の堕胎…かなと一瞬頭によぎったが、一応聞いてみる。

「分娩ですか?」

「当たり前だろう!だから産婆さんを訪ねてきたんだよ!とても…とても苦しそうなんだ!助けてくれよう」

取りすがって来たその女性に、「すぐ支度をします。その女性の元へ案内して下さい」と答えるとフリデリーケは道具一式の入ったバッグと掛けてあった白衣を引っ掴むと、その女性について分娩の始まった(であろう)女性の元へと急いだ。


 

「ロベルタ!今助産婦さんを連れて来たからね!もう安心だよ」

案内された裏通りの狭いアパートの一室で、苦しそな呻き声を上げながら苦痛に耐えている女性の姿に…フリデリーケは目を瞠った。

そこにはー
兄の妻であるはずのロベルタが大きなお腹をして、苦しそうに喘いでいたからだった。

「え…?」

思わず立ち竦んだフリデリーケに、苦しい息の中でロベルタもその呼ばれて来た若い助産婦に目を向けた。

「あ…あんた…」

彼女もまたフリデリーケを認めたようで苦しい息の下から何かを言おうとしている。

その様子にフリデリーケがハッと我に帰った。

「大丈夫ですよ。お身体を見させて下さいね」

手早くロベルタを検診し、「お湯を…それから清潔な布を用意して下さい」と傍の女性に指示すると、白衣をまとい道具を並べ、「さあ、この苦しみも…あとちょっとですよ。私を信じて…行きましょう!」とロベルタの目を見てはっきりと語りかけた。
その頼もしい言葉を受けロベルタが縋るような瞳でフリデリーケに小さく頷いた。

「いきんで!」

「うぅ〜〜〜〜!」

出産は安産とは言い難いものであった。
母体であるロベルタの健康状態が決して良くなく、加えて栄養失調でとてもではないが、妊娠出産に耐えられる体力ではなく、もはや気力だけでこの場に臨んでいるような危険な状態だった。

ーーこれ以上…これ以上長引くと、お腹の子も…それからロベルタも危ない。

フリデリーケが危惧し始めたその時、最後の大きな陣痛の波にロベルタが獣のような咆哮を上げた。

ーーこれで…決めよう。

「ロベルタ!行きましょう!ハイ!!」

フリデリーケの声に励まされ荒々しい叫び声と共に、ロベルタが最後の力を振り絞った。

ーー来い!!

ロベルタとフリデリーケの想いが一つに重なった。

その一瞬後、フリデリーケの両手が、この世に生まれ出でた新しい命の重みを感じ、この苦痛の嵐をつんざくような、希望の産声が狭いアパートに響き渡った。

ーーンギャア…!

「おめでとうございます。…元気な坊やですよ」

「おとこ…の…こ」

「ええ、ええ。兄と、あなたの。ホラ」

沐浴を終えて清潔なリネンに包まれた赤ん坊をそっとロベルタの身体の上に下ろす。

「…あたしの…赤ちゃん…。イザークと同じ…黒い…髪」

「ふふ…。綺麗な赤ん坊だね。心配してたあんたのソバカス…受け継がなくてよかったね」

ザビーネの言葉に少し嬉しそうなホッとしたような笑みを浮かべ、そのままロベルタが深い眠りへと落ちた。

〜〜〜〜

眠っているロベルタのすっかりやつれ切った青い顔と、筋のうっすらと浮いたやせ細った首元に、思わずフリデリーケの顔が曇る。

なんとか出産は乗り越えたものの、母体の体力の消耗が激しい。体もやせ細り一目で栄養失調と分かる。
これでは子供の母乳どころか、産後を無事乗り切れるか…。

いや…、それよりも、そもそもなぜロベルタがこんなところでお産を迎えているのだろう?

兄は?

彼女の夫であり、生まれた子の父親である兄は、一番この場にいるべき彼は一体どこで何をしているのか?

こうして何とかお産を乗り切り一息着いてみると、彼女に、そして兄に何があって、一体今の状況となっているのか、分からないことだらけなのであった。

 

 

第二章

「こんにちは。…ロベルタの具合はどうですか?」

翌日フリデリーケが産後のロベルタの様子を伺いにザビーネの元を訪れた。

フリデリーケの問いにザビーネは力なく首を横に振って俯いた。

「1日の大半は…眠ってる。どんどんやつれて行って…このままだとどうなるのか。…母乳もほとんど出なくて、可哀想に、坊やも腹が減っているのだろうね。泣き叫んでいて」

「…そうですか。あの…近所に乳を分けてくれるような…」

その言葉にもザビーネは首を横に降る。

「そうですか。…では母乳の代わりに米のとぎ汁に砂糖を加えたものか、もしくは牛乳を同量のお湯で割って砂糖を加えたものを与えていてください。貰い乳の件は…私もなんとかツテを当たってみるようにします」

「有難い!助かったよ。フリデリーケさん」

「いえ。あの…それで、ロベルタには?」

「それがさ、あの子「入院はしない!子供と引き離されるのは嫌だ」の一点張りで。いくらなだめすかしても…。ホント強情なんだから。私もこのままグズグズしていてもあの子の具合はどんどん悪くなってくのは明らかだからさ。気が気じゃなくて。あんたからも説得しておくれよ」

「分かりました。今日ロベルタの目が覚めたら、私からも入院の必要性を説いてみましょう」

「それであの…そっちの方は?」

「あれからあの足で教えて頂いた寄宿先に、兄を訪ねました。ですが…」

〜〜〜〜

「フリデリーケ?…フリデリーケじゃないか!よくここが分かったなあ。無事に帰還したんだね。良かった」

数年ぶりに再会したフリデリーケを、顔を綻ばせて抱きしめたイザークからは、なんとも言えない荒んだ投げやりな雰囲気が漂っていた。

「こんな有様で、情けない次第だけど、無事ウィーンに戻ってきたお前の元気な姿を見れて何よりだよ。どこに派遣されてたんだっけ?」

「東部戦線」

「そうか…」

「兄さんは?」

「僕は西部戦線。来る日も来る日も塹壕掘りさ」

二人の脳裏に凄惨な戦地の記憶が去来し、重苦しい空気が二人を包む。

「ここを訪ねてきたということは…僕の今の状況を知ってるってことだよなぁ」

その重苦しい沈黙をイザークの方から自嘲めいたため息と共に破った。

「兄さんの指のこと知って…本当に驚いた。…わたし何も知らず…」

「最初は毎日、死を願ったよ。明日目覚めることなく、天に召されていますように…ってね。でも、もう絶望にもだいぶ慣れたかな。ハハ…」

「…」

「屋敷も手放して…近いうちにレーゲンスブルグへ帰ろうと思っている。音楽そのものであるこの街ウィーンに居続けることは…あまりに苦しい」

「ロベルタのことは?」

「ロベルタ…」

フリデリーケに問いただされ、イザークは、まるで心の片隅に追いやっていたものを不意に思い出したかのように小さく呟くと、遠い目をして押し黙った。

「彼女には…ほとほと愛想が尽きたよ。結婚して数年来。僕は彼女の無知や無教養が起こすトラブルに幾度も耐え続けて来た。…でも今度とい今度は」

ーーハァ…。
嘲るような短いため息を挟み尚もイザークが続ける。

「やはり…人の根本的な人品というか、性根というものは、如何ともしがたいものなんだな。…もう、疲れたよ。彼女とは…」

「私が誰から兄さんのことを聞いたか…分かる?ザビーネさんて、覚えてるよね?」

「ああ、ロベルタの友達の。…何だ、お前に僕との復縁の仲介を頼んだのか?」

イザークの言い草に、フリデリーケの中で何かが弾けて、猛烈な激情が込み上がって来た。

「…自惚れないで!何が復縁よ!」

今まで聞いたことのないような妹の怒りに震える低い声に、思わずイザークが怯んで、居住まいを正す。

「ザビーネさんはね、お産の始まったロベルタのために私を呼びに来たの!びっくりした。裏通りの狭くて粗末なアパートの一室で、見る影もなく痩せ細ったロベルタが産みの苦しみに呻いている姿に。…何故ロベルタがこんなところで?兄さんは一体?と分からないこと不可解なことだらけだった。…ロベルタは身体を酷く弱らせていて、とても難産だったけど、何とかお産を乗り越えて男の子を出産した。…兄さんの子供だよ?ねえ、分かってる?!兄さんが、はじめてのお産を控えていたロベルタに…どんな仕打ちをしたか!どんなに彼女を傷つけたか!ロベルタはどんな思いで日々大きくなるお腹を抱えて出産の日を迎えたか!どんなに不安で失意の中にあったか!…そのことを胸に刻んで、謝るべきはどっちだったか、よーく自分の胸に手を当てて考えて!」

思いの丈を一気に兄にぶちまけると、「帰る!」と一言言い放ち、商売道具の白衣と鞄を乱暴にひっ掴みイザークに向けて踵を返した。

ドアの前で立ち止まって振り返ると、フリデリーケが最後通牒を告げた。

「ロベルタ…かなり身体悪くしてるの。このままにしておくと、確実に死んでしまう。私も入院の手続きをして最善を尽くすけど、グズグズ悩んでる時間がいつまでもあると思わないで!私今ここで、助産院やってるから、私に連絡くれてもいいし、ロベルタが身を寄せているザビーネさんの部屋に直接行っても構わない。結論を出すなら、早くした方がいいよ」

住所を書いた紙をテーブルに置き、そう言い残した妹の冷ややかな声と、思い切り閉められた扉の音、遠ざかる早足のヒールの音が、まるで責めさいなむように、イザークの耳にいつまでも残っていた。

 

​第三章

「ロベルタ…」

うっすらと目を開けたロベルタにフリデリーケが優しく呼びかける。

「坊やの出産、おめでとう」

フリデリーケの言葉に、

「…誰にも…祝福…されない…子かも…しれないけど…」

と途切れ途切れに答えたロベルタの言葉と少し悲しそうに伏せられた目が、何とも遣る瀬無い。

「そんなこと…ないよ。私は甥っ子の誕生は心から嬉しいし、ザビーネだって」

「…ありがとう」

フリデリーケがロベルタの身体を検診した後に、細くなった手をそっとさする。

「また痩せちゃったね。…食べれないの?」

「…坊やの…お乳のためにも…何とか食べないと…と思うんだけど…」

すまなそうにそう言ったロベルタに、

「ねぇ、ロベルタ。このままじゃあなたの体力はどんどん弱っていってしまう。入院しよう?点滴で栄養を補って体力さえ回復したら…またすぐに坊やの元に帰って来られる。ね?ちょっとの辛抱だから」

と、今度はフリデリーケの口から、再度入院を勧めてみる。

だけどフリデリーケの説得にも、ロベルタは頑として首を横に振るだけだった。

「ロベルタ…」

表情を曇らせたフリデリーケに、ロベルタが穏やかに微笑む。

「ねぇ、今日は…あたしちょっと…気分がいいん…だ。だから…ちょっとだけ…おしゃべりに…つきあって…よ。それとも…忙しい?」

ロベルタの縋るような視線にフリデリーケが微笑みながら首を横に振った。

〜〜〜〜

「髪…短くしたんだね」

「ええ。戦地へ行く前に。…どう?」

「今のあんたに…すごく…良く似合ってるよ」

そう言ってロベルタが、耳の下で切りそろえすっきりと撫で付けたフリデリーケの金の髪に手を伸ばした。

「ありがとう」

「立派に…なったね…頑張ったんだ…ね」

「…でも好きで選んだ道だったから」

「…あんたが…ちょっと…羨ましい」

「…私は、あなたが…ずっと羨ましかったよ」

「あた…し?」

少し驚いたように目を瞠ったロベルタに、フリデリーケがコクリと頷いた。

「なんで…あたしなんか…」

「愛する人にプロポーズされて、結ばれたのだもの」

「…でも…、色々バカばっかやって、一番いい自分を見せたい人に…ダメなとこばっか…見せて…とうとう…愛想…尽かされちゃった…。じぶんで…全部…台無しに…しちゃった。自業…自得…か」

ため息混じりにそう言ったロベルタの瞳から一筋涙が頬を伝って落ちた。

「…そんなことないよ。あんなに兄に尽くして全てを捧げてくれたのに…自業自得なんて言わないで」

「あんた…優しいね。…ありがとう。今になって…こうして、あんたと腹割って話せて…ホントよかった。神様の…お引き合わせ…なのかな。最期に…思いを残さぬよう、ちゃんと…話すべきひとと…話しなさいって」

「…何言ってんの?これから入院して…健康を取り戻したら、いくらでも話は出来るよ。やめてよ、最期なんて」

少し声を荒げたフリデリーケに、

「…ゴメンゴメン。あんたって…意外と気ィ強いとこあるよね。…入院は…しない。ここにいる…」

「ロベルタ!」

「ゴメン…ね。せっかく…あたしの…ために…ありがとう。…でも…、ここに…いたいんだ。ここにいるのが…一番…心が安らぐんだ。…ウィーンで一番…ね。ここが…」

ロベルタにしてみたら、ウィーンへ流れてきて十数年、友の優しい眼差しに包まれている今が思えば一番心が安らいでいるときなのかもしれない。兄と暮らしていたあの屋敷に、自分が出て行った後も安らぎが見出せなかったロベルタが哀れだった。

そんなロベルタに、尚も入院を、と勧める言葉が出て来ずに、フリデリーケは押し黙ってしまった。

「ねぇ…」

「?」

「あたし、あんたに…ずっとずっと謝りたいことがあったんだ。あの時…イザークが誤解して、あたしのせいで…あんたイザークに叩かれたでしょう?…あの時は…ホントにごめんなさい。…あたし…勇気がなくて…イザークに…またがっかりされるのが…怖くて、思わず…あんたに罪をなすりつけちゃって…」

ーーそのせいで…結局あんたは…イザークの元を離れて行ったんだよね。…あたし…この世に二人だけの兄妹の…絆…を、割いちゃって…ずっと…いつか…あんたに謝らなきゃって…心に引っかかってたんだ。…言えてよかった。あんたに謝ることが出来て…よかったぁ…。

ホッとしたように長い息を漏らしたロベルタに、

「もういいよ…。結局あれがきっかけで…私も自分の人生にちゃんと向き合えたんだから」

「あのお嬢さん方…カタリーナさんと…なんだっけ…?金髪の…綺麗な…小さなお嬢さん連れた…」

「ユリア?」

「そ…う。ユリアさん…だ。上品で…育ちの良い…お嬢さん方から…可愛がられて…親身になって…もらえてた…あんたが…ちょっと羨ましかった…な。あんたとあたし…生まれも…育ちも…大して変わらないのに…って。もし…ううん。違うな。きっと…結局自分…なんだ。自分は…自分にしか…なれない。だから…あたし…もし、神様が…時間を…あの時に巻き戻してくれても…きっと…同じことをするんだろうな…。だってあたしには…ああすることしか出来なかったし…ハハ…所詮、やっぱり娼婦は…どこまで行っても娼婦…」

「もう、やめて。ロベルタ、喋り過ぎたね。少し休んだ方がいいよ。また来るから…。坊やのためにも…それから兄さんのためにも入院のこと、もう一度よく考えてね」

「ありがとう…」

ーーじゃあ…お大事に。また明日、来るね。

寝具を引き上げて、ロベルタが目を閉じたのを確認して部屋を出ようとしたフリデリーケの背中にロベルタの微かな声がかかる。

「フリデリーケ」

「ん?」

「坊やの…名前、決めたんだ。ユーベル、ユーベルって言うんだ。アハ…あたし…馬鹿だから…あんましいい名前思いつかなくて…」

「いい名前じゃない。喜びの声?」

フリデリーケの言葉に嬉しそうにロベルタが頷いた。

「坊やは、ユーベルは、幸せな子供だね。優しいお母様から、こんな素晴らしい名前の祝福を受けて」

「ねぇ…フリデリーケ」

「なぁに?」

「あの人に…イザークに、伝えて。…もうあの人の…人生をかき回すことはしないけど…せめて…坊やの…名前だけを…。そして…今までごめんなさい。ありがとう…と」

「それは…兄さんに直接伝えたらいいよ。…きっと近日中に兄さんを連れて来るから。ちゃんと二人で納得いくまで話し合って…その時坊やの名前も」

「…お願い…。つたえ…て」

「…分かった。長居してゴメンね。…もう、休んで」

「うん…。明日も…待ってる」

部屋を後にしたフリデリーケの白衣に包まれたスッと伸びた背筋を感慨深そうにロベルタはずっと目で追っていた。

 

第四章

「えーっと…看護婦さんの派遣とお医者さんの往診でしょ…。それから…ユーベルの乳母探しは急務だわね。それから…いくらなんでもザビーネさんに何から何までおんぶに抱っこというわけにはいかないから…。うん、私の恩給を充てれば何とか!」

先程からフリデリーケが眉根に皺を寄せながらブツブツとテーブルに向かって行っていたのは、入院を断固拒否したロベルタの自宅看護にかかる費用の試算だった。

仕事の合間に、概算を出して頭をひねっていたフリデリーケのところに、ザビーネが飛び込んできた。

「フリデリーケさん!…た、大変だ!今すぐ来とくれよう!」
ーーロベルタが、ロベルタが目を覚まさないんだ!呼んでも、坊やがいくら泣いても、全然ダメなんだーー!

ひどく取り乱し、泣きじゃくりながらそう訴えたザビーネのふくよかな肩をしっかりと掴んで、目を見ながらフリデリーケが語りかける。

「大丈夫。大丈夫だから。私はお医者様に連絡をして、すぐ行くので、あなたは先に戻っていてください」

フリデリーケの落ち着いた口調に、少し我を取り戻したザビーネが、涙でくちゃくちゃの顔でコクリと頷くと、今来た道を猛然と引き返して行った。

落ち着きを取り戻し、アパートへ戻ったザビーネを見届け、医師に電話を回す。

「こんにちは。フリデリーケ・ヴァイスハイトです。急患の往診をお願いします。患者は30歳ぐらいの女性で3日前に出産してます。予後が悪く…。はい。お願いします」

電話を切ると、フリデリーケは白衣だけひっ掴み、ロベルタの元を目指した。

〜〜〜〜

「ロベルタ?ロベルタ!?」

ロベルタは深い眠りについているように見えた。
が、呼吸は弱く、もうすでに間も無く天に召される人間の顔に表れる形相を呈し始めていた。

火のついたような愛児の泣き声にも一切反応を示すこともない。

横たわるロベルタを診察した医師が力なく首を横に振った。

「もう…間も無く天よりお迎えがいらっしゃるでしょう。この方のお身内がいるのであれば、今のうちに呼んできた方がいいだろう。…皆さんで旅立ちを見送って差し上げましょう」

医師の宣告に、二たび泣き崩れたザビーネに、

「兄さんを…兄さんを呼んできて!グズグズ言っていたら、首に縄つけて引っ張ってきても構わないから!」

ーーフリデリーケ、手伝ってくれ。

「あ、はい!…お願いね」

持ってきた白衣に袖を通しながら、フリデリーケがザビーネに兄を呼んでくるよう託した。

「わ、わかったよ。ロベルタ、あんたの大事な大事な旦那様をすぐ連れてくるから…それまでくたばんじゃないよ!…あたしが戻ってくるまでにくたばっちまったら…許さないからね」

ーーグスン。

涙をぬぐい、屹と顔を上げると、ロベルタは今度はイザークを呼びに、二たびアパートを出て行った。

〜〜〜〜

数分ほどのちに、ザビーネとイザークが部屋に到着した。

青白い顔で床に伏した妻のやつれ切った様に、イザークが呆然と立ち竦む。

部屋へ入ってきたイザークをみとめた医師が「旦那様ですか?…ここで、彼女に呼びかけてあげてください。…もしかしたら最期の奇跡が起こるかもしれない」とベッドサイドの椅子を譲り、イザークに呼びかけるよう促した。

勧められるままにイザークがロベルタの耳元で呼びかける。

「…ロベルタ、僕だよ。イザークだ。…本当に済まなかった。頼む。目を開けて僕の呼びかけに答えてくれ」

「ロベルタ、ロベルタ。後生だから…目を開けて…」

なおも意識が戻らないロベルタの手を取り、両手で握りしめながら、イザークはロベルタに呼びかけ続けた。

妻の手を両手で握りしめ頬ずりしながら涙ながらに呼びかけ続けていたその時、とうとう奇跡が起こった。

「ロベルタ…ロベルタ…」

夫の涙に濡れたロベルタの手が、呼びかけに対してピクリと僅かに反応する。

「ロベルタ?…ロベルタ!!僕だ!イザークだ!」

声を大にして叫んだイザークの呼び声に、ロベルタが最後の力を振り絞って、瞼を開いた。

虚ろな瞳が夫の顔をみとめ、微かな声で答える。

「…イ…ザー…ク…?」

「そうだ!イザークだ!君のイザークだよ。…遅くなって済まなかった。…あぁ、本当に済まなかった!」

イザークが死の淵で辛うじて留まった妻のか細い身体を力一杯抱きしめた。

「…あ…たし…の、イザー…ク…」

「あぁ、そうだ。そうだよ。…ごめんよ。こんなにやつれてしまって…あぁ…」

「我々は外しましょう」

「ええ。そうですね」

「ロベルタ…よかったねえ…。グスン、あんなに待ち望んだご主人だよ」

部屋にイザークを残し、三人は部屋を退出して行った。

〜〜〜〜

夫婦とフリデリーケたちを隔てた薄いドアから、イザークがロベルタに語りかける声が微かに聞こえてくる。

やがてその語りかける声が、悲痛な叫びに変わった。

「ロベルタ!ロベルタ!…なぜ息をしていない?起きろ!起きてくれ」

医師たちが再び部屋に入り、蘇生を試みる。
そしてじきにそれがすでに無駄であることを悟る。
脈と瞳孔を確かめ、時計に目を落とす。

「天に召されました。ご愁傷様です」

その言葉に、イザークは呆然と膝から崩れ落ちる。
ザビーネと、それから彼女の泣き声につられるかのように火のついたように泣き出したユーベルの泣き声に狭い部屋のガラス戸がブルリと振動した。

この場で冷静でいなくては…と涙を堪えていたフリデリーケに、医師がポンと肩を叩く。

「身内だったのだろう?…泣いておあげなさい。それが故人への供養だ。…そして、残された君の為にも…」

医師の言葉に、フリデリーケが嗚咽を噛み殺しながらすすり泣く。

心から愛していたとは…言えなかった。
寧ろ恋敵として感情的なわだかまりを抱えていた。
彼女の存在を心から疎んじていた事もあった。

だけど…。
今こうして自分の前から永久に去って行ってしまった彼女に感じるのは、心を締め付けるような哀切の想いと、一人の女性として愛児を残して旅立つ彼女の無念さへの共感と同情しかなかった。

また自分に対する猛烈な怒りもフリデリーケの胸中に渦巻き始める。

多忙を建前に兄の元を出てから、二人と意図的に距離を取っていた。

その気になれば、いつでも連絡を取ることぐらい出来たのに、それをしなかった。

それが彼らの不遇と窮地を見過ごすこととなり、結果救いの手を差し伸べ損ねることとなった。

世知に疎い兄と、教養のない義姉は、地位を失って世間に投げ出されたらひとたまりもなかった。もがけばもがくほど事態は悪い方へ悪い方へと転がって行った。

もっと早い段階で、兄たちに手を差し伸べていたら…手紙の返事が来ないのならば、せめて屋敷を訪ねていれば…、否、兄の元を離れてからもちゃんと兄たちと会っていれば…。

次から次へと溢れてくる悔恨の「たられば」がフリデリーケを苛む。

「ウ…うぅ…ウ〜〜〜」

頭を抱えて蹲り、涙を流しながら歯を食いしばりフリデリーケが呻き声を漏らした。

 

第五章

翌日
ロベルタの葬儀がひっそりと執り行われた。
見送る人間は、夫だったイザークと、親友のザビーネ、そしてフリデリーケと生まれたばかりのユーベルというなんとも寂しい旅立ちであった。

市内の墓地の一角に小さな墓を求め、亡骸はそこに葬られた。

〜〜〜〜

「ザビーネさんには…何から何まで、本当にお世話になりました。きっと手厚く看取って貰えたこと、故人も喜んで心から感謝しているはずです」
ーーあなたの傾けて下さった厚意には遠く及びませんが、これを…。

フリデリーケが虎の子の恩給を包んだものをザビーネに差し出した。

「…やめておくれよ。貰えないよ!そんなもの。…そもそもあんたとは出産の際の助産婦さんとして知り合ったわけだから、むしろあたしの方が未払いのお金を払わなきゃならないのに。…そもそもあんたが私にそんなもの支払う筋合いがないよ」
ーーそれ、あんたが戦地で命張って得た恩給だろう?そんな金断じて貰えないよ。ホラ、しまっときなよ。

ザビーネが少し強引にフリデリーケの懐にその封筒をねじ込んだ。

「それから…あの。…ユーベルのことなのですが…」

先ほどの謝礼の件よりも更に言いづらそうに切り出したフリデリーケに、

「うん…。分かってるよ。ユーベルは、あんたに任せようと思う。ロベルタが生きてさえいりゃ、あの子を手助けしながらあたしの郷里にでも引っ込んで、田舎で二人してユーベルを育てようなんて言ってたけど…、キチンとした身内が養育の名乗りを上げてくれてるのなら、話は別だよ。第一にユーベルのためにもそれが一番いい。…赤の他人の…娼婦に育てられるよりも、経済的にも社会的地位もキチンとした職業夫人の叔母さんに育てられた方が…。あの子を、頼みますよ。ロベルタが命をかけてこの世に生み出した…あの子の生きた唯一つの証を…」

そう言ってザビーネは鼻をスンと鳴らしながら声を詰まらせた。

「ええ。必ず。この子は立派に育ててみせます。天のロベルタに誓って」

「ありがとう…ありがとう…」

涙にむせぶザビーネの丸い背中をフリデリーケは涙が止まるまで優しく撫で続けていた。

〜〜〜〜

「ザビーネさんは…やっぱり…当初の予定の通り、郷里へ帰るの?」

フリデリーケの質問にザビーネは首を横に振った。

「最初はそれもいいかな…と思ったけど…、やっぱりここに残ることにした。だって…ここには、この街にはロベルタ
が眠ってるのだもの。あの子寂しがり屋だから…あたしがいなくなったらきっと寂しがると思う。…あのね、フリデリーケさん…、実は…あたしね、前から…昔世話になってた娼館のお父さんに…後添いにならないか…って言われていて…、ロベルタのこともあったし…断ろうと思ってたんだけど…やっぱりその話受けようかと思って。…娼館の親父なんだけどね、とってもハートが温かくて優しいんだ。あたしもロベルタも、随分よくしてもらってね。…だからあたしはその人と一緒に…あたしが今まで生きてきた世界で、堂々と胸を張って…、昔のあたしやロベルタのような子達を面倒見て生きてくよ。…あんたみたいな立派な生き方してる人には…あたしの言ってることなんて到底理解出来ないと思うけど…」

「いいえ。そんなことないです」

「あんたは?どうするの?」

「私は…レーゲンスブルグに、故郷に帰ります。…私の故郷は今街の名士の人たちが頑張ってくれたおかげで、社会制度が整ってて…ここよりも生きて行きやすいので。兄も連れて帰ります。ここにい続けるのは…兄のためにもよくない。一度故郷でゆっくりと自分のこれからの人生を見つめ直す時間が必要だと思います。…私は、それを支えます」

「あんた…大丈夫なのかい?あんたにはあんたの人生だって…!まだまだ若いんだし…その」

ザビーネの言わんとしていることを汲み取ったフリデリーケが、首を横に振った。

「ロベルタの遺髪…ヴァイスハイト夫人として、父と母のお墓の隣に丁重に葬りますね。私は…この子とレーゲンスブルグ にいますので…時間が出来たらこの子の顔を見に遊びに来てください」

「…あたしの故郷はボヘミアなんだ。レーゲンスブルグ は近くだよ。…きっと…きっと会いに行くよ」

「待ってます…。レーゲンスブルグから、あなたのこれからの人生の幸せを祈ってます」

「あたしも。…あんたに会えてよかった。ロベルタの最期に、あんたに巡り会えて、本当に良かった。ありがとう。フリデリーケさん」

この数日間で芽生え始めていた共感と絆を今一度確かめ合うように、最後にフリデリーケとザビーネがお互いの身体をきつく抱きしめ合った。

 

エピローグ

 

「ただ今帰ってきました」

「おかえりなさい」

兄と甥とともにレーゲンスブルグ に戻ってきたフリデリーケを、郷里の古い友人たちが温かく迎える。

「髪切ったのね。随分昔と雰囲気変わってビックリしたわ」

生まれたばかりの三人目の(待望の女児だった)赤ん坊を腕に抱いたベッテイーナがフリデリーケの頭に目をとめる。

「でもよく似合ってるよ。大人っぽくなった」

ユリウスもフリデリーケの髪にそっと手を伸ばす。

「戦場へ行く前にね、一緒に行く子たち皆で切ったんです。切った時はちょっと感傷的な気持ちになりましたが…私どうやら髪が長いと幼く見られてたようで…短いほうがしっかりして見えるのかな?仕事がしやすいので、以来ずっとこのままです」

「そうだね。昔は儚げな美少女〜って感じだったよね。今はキリリとした押しも押されぬ職業婦人だね」

「ありがとうございます。色々揉まれましたから」


 

 

「この度は助産院の開設にあたり皆様にも多大なご後援を頂いて、感謝しております」

「いいえ。戦争が終わって…若い人たちが街に戻ってくるでしょう?これから出生率も上がってくるだろうし、優秀な助産婦さんのいる助産院の需要はきっと高まると思うから。寧ろ大手を振るって大歓迎だわ」

「うちの基金や、娘たちの母校での講演も引き受けてくれてありがとうね。皆、レーゲンスブルグの女性たちはあなたの話を聞くのをとても楽しみにしているよ」

「本当に私なんかで…私なんかの経験で…よろしいのでしょうか?」

「当たり前だよ!あなたはこれからの時代の女性の生き方のまさにお手本なんだ。皆、あなたの背中を追いかけて、あなたを模範に未来を見据えてるんだよ」

「自信持って!事実、女学校の方も基金の方も、講演会の予約は満席のようよ。きっと街中の女性が講堂に集まるようね」

「…なんだか…プレッシャーです」

「女学校の講演会にはカタリーナ、それからアニエスも登壇するから。あなたがあなたのキャリアを生きてきた上で感じたこと、伝えたいことを、あなたの言葉でそのまま語ってくれればいいんだよ。皆それを聞きたがっているんだ」

ーーね?
ーーええ。

「ありがとうございます…。そう言っていただけると…少しは気が楽になります。カタリーナさんにも、こちらで働く上で色々な力添えを頂いて…」

「まぁなんてったって、同業者ですものねえ」

「そうだね。ぼくらと違って一番あなたの力になれるのはやっぱりカタリーナかもね。なんてったって」

「今や大病院の経営者様ですものね」

ユリウスとベッティーナが声を揃えた。

「ユリウス様はカタリーナさんと共同で何か大きな構想を計画中とか…」

「あ、うん。そうなの。都市開発と医療を組み合わせた…ね。富裕層を対象にした高額医療と介護をセットにしたヴィラを過疎化した農村に誘致するプランをね。第一弾は高齢者の隠居を目的としたヴィラだけど、そのうち人間ドックや、それこそ出産を目的とした施設なんかも作れればいいかなと思ってる」

「その富裕層向けのサービスで上がった収益は、一部を街の社会事業に回して市民に還元させる。それに、新しい産業が生まれれば、雇用だって生まれるわ」

ユリウスの説明を、凛とした声が継いだ。

「カタリーナ!」

「こんにちは。フリデリーケ。遅くなっちゃった。遅れてきたから話題に入れなかったらどうしよう…と思ってたけど、丁度折の良いところだったようね」

仕事で遅れてやって来たカタリーナが、先にいた三人の話題にいい感じで入ってきた。

「何言ってんの。丁度あの話をフリデリーケにしてたところなんだ。アレ持ってる?」

「ええ、勿論」

カタリーナが手にした書類ケースから事業計画書を取り出し、フリデリーケの前に置いた。

「わぁ…すごい!…それにしても、お二人とも、今でも相当な忙しさなのに…更にこんな壮大な計画まで」

その計画書に目を通しながら、フリデリーケが目を丸くする。

「まぁ…。何から何まで自分でやるというわけでもないし。新しいことを始めるのは大変だけど、それ以上にワクワクして楽しいことも多いよね」

「ええ」

こともなげにユリウスとカタリーナがそう言い、同意し合ってみせる。

「この人たちはね、男なのよオトコ。マリア・テレジアと一緒よ。「オーストリアにはおそろしい男がいる。そしてその男は女だ」ってやつね」

「まぁ!酷い」

「ホントだよ!誰がオトコな訳?」

四つの大きな瞳がベッテイーナを睨みつけ、サロンが笑いに包まれる。

「ごめんなさい。褒め言葉よ、ほめことば。でね、ウチの義母もとてもそのヴィラ建設を心待ちにしていて。自分とお取り巻きが入居者第一号になるんだ!ってね」

「キッペンベルク夫人にも大いなる賛同を頂いて、心強いよ」

「完成の暁には、是非ともよしなにお願いしますね。もう、モンスターのようにワガママだけど」
そう言ってベッティーナが派手に顔をしかめて見せた。

「知ってるよ」

アハハ…。

再びサロンが笑いに包まれる。

「でも…本当に素敵な計画です。私もいつか、その計画になんらかの形で関わりたいな」

「あら、いつかなんて言わずに、すぐにでも力を貸して欲しいぐらいよ」

「そうだよ。さっきもチラッと言ったように、リゾートと高額医療のパックも考えているんだ。お産だってこれからどんどん多様化してくる。その時は色々アドバイザーとして意見をちょうだいよ」

「ええ〜?!私でいいんですか?…でも楽しみです。…絶対実現させてくださいね」

「任せて」

ーーエェ…エェ…

フリデリーケの傍で大人しく寝ていたユーベルが小さな声でぐずり始めた。

「あら、あらあら。…どうしたの〜?」

その声にフリデリーケが甥っ子をあやす。

「この子がイザークの赤ちゃんね。可愛い。どちらかというとパパ似なのね。こんにちは〜。初めまして」

三人がユーベルの寝ている小さなベッドを覗き込んだ、

「お腹が空いているのかも…。すみません、ユリウス様。少しお湯を頂いてよろしいですか?」

「うん。ゲルトルート、これにお湯を入れてきてくれる?」

「はい。すぐに」

ゲルトルートが哺乳瓶を受け取るとサロンを後にした。

「ねえ、抱っこさせて」

ユーベルがベッティーナからユリウス、そしてカタリーナの手から手へと渡される。

「この子今何ヶ月だったかしら?」

「ようやく三か月です」

「え?…ちょっと小さいわね。…ウチの子も三ヶ月よ」

「ちょっと!ベッティーナ!」

ベッティーナの何気ない一言をユリウスが窘め、軽く肘で小突いた。

「あら、気に障ったならごめんなさい。だって気になっちゃったのだもの」

「もう。…大丈夫よ。フリデリーケさん。子供の発育なんて個人差あるのだから…、なんてあなたにそれは言わずもがな、ね」

カタリーナもちょっと困ったような笑顔を浮かべながらフォローの一言を入れる。

「…ありがとうございます。でも本当にベッティーナさんの言う通りで…。この子生まれた時から母乳に縁がなくて。粉ミルクもあまり好きじゃないようで、お腹は空いているみたいなのに中々飲んでくれなくて、どんどん痩せていってしまって…」
ーーやっぱり…お母さんじゃないとダメなことって…あるんですよね。
甥っ子を抱きながら小さくそう呟いたフリデリーケの顔が少し悲しげだった。

そんな彼女の横顔にその場の三人が思わず押し黙り、サロンにユーベルのむずかる声が響き渡る。

その重苦しい空気を一変させたのは、ベッティーナだった。

「貸して!」

フリデリーケの手からユーベルを受け取ると、「よちよち。お腹空いたのね」と腕の中であやしながら、片手で手際よくブラウスのボタンを外すと、母乳で張った白い乳房をユーベルに哺ませた。

ーーンク…ンク…。

お乳を咥えたたユーベルが音を立てながら夢中でベッティーナの乳を貪る。

「…ベッティーナ」

「母乳は沢山出る質なの。…長男の時も次男の時も、それから今もね。…二人分ぐらいどうってことないわ」

思いの丈ベッティーナの乳を吸って満ち足りた顔をしたユーベルを、手際よくげっぷさせ、フリデリーケに返した。

「こんなに…満足そうな顔…初めて見た」
ーーユーベル…ユーベル、良かったねえ。美味しかったの?…ゴメンね。今までひもじい思いをさせちゃって…。

自分の腕の中で満足そうにちゅぱちゅぱと下唇を吸っている甥に、フリデリーケがポツリと呟いた。

そんなフリデリーケに、

「ねぇ、フリデリーケ。あなたさえ手間じゃなければ、これからお乳が必要な間、ユーベル連れてウチにいらっしゃいな。私でよければ、この子の乳母を引き受けてあげてよ」

「…え?」

思いがけないその申し出に、フリデリーケが思わず顔を上げる。

「…母乳なら沢山出るって、言ったでしょう。あと一人ぐらいなんでもないわ。どうせ育児中で外出らしい外出もしないから、お仕事の手が空いた時にいつでもいらっしゃいよ」

「え…そんな。でも…」

畏れ多くも街一番の富豪の若奥様に乳母の役目を申し出られ、戸惑ったフリデリーケが意見を求めるように、ユリウスとカタリーナの方に視線を向ける。

フリデリーケの視線に二人が笑顔で大きく頷いた。

「ありがたく好意をお受けしたら?」

「いいじゃん。あり余ってんなら、貰っちゃいなよ。ベッティーナだってそのまま余らせてたらお乳が張って辛いんだからさ。ね?」

「もう!ユリウスったら。人を乳牛みたいに言わないでよ。失礼しちゃうわね。…でも彼女たちの言ってることは尤もだし、それに…ね」

「それに?」

「わたし…私たち夫婦…、ずっと昔に、あなたとあなたのお兄様に、とてもひどいことをした。若くて愚かだったとは言え、私はあの時の自分のしたことが恥ずかしい。…ね、だから。せめて!あの時のお詫びを、私のおっぱいでさせてもらえないかしら」

そう言ってベッティーナはゆったりとした笑顔で、豊かな胸を張って見せた。

〜〜おまけ〜〜

「お待たせしました〜。温度が適温になるのに時間かかってしまって…。ミルク作るのも慣れないと中々難しい…え?あれ?フリデリーケさん、どうしたの?何で泣いてるの?」

ミルクの入った哺乳瓶を片手にサロンへ戻ってきたゲルトルートが、感激の涙で目を真っ赤にしたフリデリーケと、そんな彼女の肩を抱いて慰めているレーゲン女子たちの姿に、一人状況が飲み込めず、一人目をパチクリさせるのだった…。

「ゴメンありがと、ゲルトルート。それ、必要なくなったわ。…せっかく苦労して作ってくれたのに悪いけど、それ捨ててきてもらっていいかな?」

「え?え〜〜〜?…なに?何があったんですか?」

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