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​第七十五話

1918年
世界大戦の終結を待たず、ユリウスのかつての婚家であったサンデュ家が破産した。

〜〜〜〜

 

Scene.1 父と娘

「…随分立派に成長して。素敵なレディになったなぁ」

ユリウスと共にフランクフルトへ駆けつけたアニエスの、大人になりすっかり美しく洗練された姿に、ギュスターヴは眩しそうに目を細めた。

修道院から引き取られ再会した時には、不安そうに顔を引きつらせおどおどとした瞳を家族に向けていたお下げ髪の少女は、広い社会の水に洗われ洗練されて、自信に溢れ理知的な面差しをした女性となっていた。

「よく似合うな。その髪も。ドレスも」

父親に当世風のショートヘアとドレスを誉められ、この時ばかりは少女の頃のような笑顔で少し照れくさげに微笑みながら、「このドレスは社長…ユリアさんがプレゼントしてくれた」と答えた。

「そう。よかったね。…すまないね、ユリア。こんなに何から何まで良くしてもらって。ありがとう」

「…ううん。本当によく似合っていたから」

ユリウスが家具も調度も大方運び出してガランとした屋敷を見渡す。

「屋敷も随分とガランとしちゃったね…」

「ああ。大体の家具調度は競売で捌けたし。この屋敷も明日には引き渡すことになっているから」

「そう…」

「…あの、お母さんとジャン・クロード…は?」

「一足先に、これから暮らすスイスへ行かせた。ジャン・クロードの新しい学校のこととか色々あるしな」

「そっか…。カ…おばあちゃんは?」

「カトリーヌは…、この家が破産した後、次の職場を見つけ、インドシナへ旅立ったよ」

「インドシナ?」

その地名にユリウスとアニエスが目を丸くして思わず復唱する。

「ああ…。ドイツやオーストリアはこの戦争で…もうカトリーヌのような高給を取る使用人を雇う余裕のある富裕層や貴族がいなくなってしまってね。彼女は伝手を辿って…インドシナに駐留しているフランス人の屋敷の家政婦長の職を得て、ベトナムへ行ったよ。ヨーロッパ人の家政婦長や執事のなり手が中々ないようでね。破格の待遇で迎え入れられた。それで、毎月相当額を私達家族に仕送りしてくれている。…本当に情けないな。私は」

「そんなこと…」

「カトリーヌだけじゃない…。ユリアにもだ。今まで支払っていたリーザへの養育費を…。しかもこのご時世に支払っていた金額よりも運用で増えているなんて…君は本当に優秀な女性なんだな」

元夫の言葉にユリウスがわずかに目を伏せて首を横に降る。

「これから家族を守るために、お金は必要になって来る。私は私でリーザをちゃんと責任持って育てて行くから。あなたは今の家庭を守ることを最優先に考えて、ね?」

「本当に済まない。この借りはいつか必ず…」

握りしめられた元夫の手に自分の手を添えて、ユリウスが無言で頷いた。

「アニエスも…こんな有様になって些か言いづらいのだが…これから…」

「私は…スイスへは行かない。レーゲンスブルグ のアーレンスマイヤ商会が、今の私の生きる場所だから。あそこでもう少し頑張る」

「私もね…スイスには多少のツテもコネもあるし、この子は優秀な子だからあちらでの就職先の口を聞いてもいいんだよ。これからこの国を離れて外国へ行ってしまう家族と今離れてしまうと…もうこの先もずっと遠く隔てられてしまうよって重々言って聞かせたのだけど…」

「そうか…。そういえば、会計士の資格試験に合格したのだってな。すごいじゃないか。おめでとう」

「ありがとう…。あのね、私たち家族…ううん、私とお父さんたちは…互いに距離が近すぎると多分うまく行かない。きっとまた…昔のようにお互いがお互いをうまく受け入れることが出来なくて…多分皆の居心地が悪くなる。…だから私は、離れたところから、距離を置いた場所から家族として繋がっていることに決めた。…これを」

アニエスが小切手帳を差し出した。

「お母さんに渡して。これから毎月ここに…仕送りをするよ」

 

「アニエス…」

 

それ以上は言葉が続かずに、ギュスターヴは目の前の娘をただただ見つめる事しか出来なかった。

 

「しまって…それ」

 

「ありがとう…。アニエス。…きっとお母さん…嬉しくて泣いちゃうだろうな。あんな形で別れても…お母さんは」

「…お母さんには…お母さんにだけは悪いことしちゃったな…って、アーレンスマイヤ家にお世話になってからも、心のどこかでずっとそのことが引っかかってた。もしずっと…その、お母さんもまた、私と同じように…私のことを思ってくれていたのだったら…」

「当たり前じゃないか!…お父さんが愚かだったために…お前たちに悲しい思いをさせてしまったが…お母さんだって、お前はかけがえのない子供なんだよ。…ずっとずっと、お前のことは気にかけてたよ。それから…「自分が弱くて無力だったせいで、あの子に孤独な思いをさせてしまった。あの子に申し訳ない」とずっと自分を責めてた」

「お母さんが?」

「ああ」

「私のことを?」

ずっと邪魔な存在だと思っていた。
親に疎まれていると思っていた。
だからそばで疎まれ続けるぐらいだったら…と親を家族を捨てて、新しい自分の人生を生きようと誓った。
それでも
やっぱり心の奥底では、親を捨てる事など出来なかった。
だから、自分を想ってくれなくても、せめて家計を支えることで家族と繋がっていようと思った。

なのに…
なのに…

母は自分を想ってくれていた。
ずっと離れ離れになった自分のことで心を痛めてくれていた。

「う…うぅ…。うわぁん〜〜」

とうとうアニエスが物心ついて以来ずっと心の奥底に溜め込んでいた感情が堰を切って溢れ出した。

小さな子供のように声を上げて、顔をくしゃくしゃにして泣き続けるアニエスの震える身体をユリウスが優しく抱きとめた。

「ひっく…ウ…ヒッ…!」

引きつけるほど激しく慟哭したアニエスの感情が大分収まってきたところで、彼女の肩を抱いたままユリウスが再度彼女に問いかける。

「どうする?積年の誤解も解けたようだし。まだ、遅くないよ。今ならまだ間に合うよ?」
ーーこのまま家族とスイスで暮らす?

優しく問いかけられたその問いにアニエスがきっぱりと首を横に降る。

「ううん。私はやっぱりドイツで頑張る。ひとかどの人間になるって…自分で自分の人生を選びとって生きるって、あの時に決めたから。決めたことは、やり通したい。お父さん、ありがとう。それから…今までごめんなさい。お母さんにも伝えて。離れているけどずっと想っていると。いつか再会する時まで…ウッ…グスン…元気で…いて…と」

嗚咽混じりに語る娘に、ギュスターヴは始めてこの可哀想な長女の赤裸々な本当の姿を見たような気がした。

「うん。お母さんに、必ず伝えるよ。会えないけれど…手紙を書いてやってくれないかな。母さん、喜ぶよ」

父親から渡されたハンカチを固く握りしめ、溢れる涙のままにアニエスが何度も頷いた。

 

 

Scene.2 幼友達

 

「おばさん、ご無沙汰してます。ハンスは…?ハンスは今どこにいるの?」

突然訪ねて来た息子と同じ年頃の金髪の美女に、ハンスの母親は「え?…てか、どちら様?誰?」とまん丸に見開いた目を瞬かせて尋ね返す。

「ユリウス…ユリウスだよ!ハンスの幼馴染の!お久しぶりです」

思いもかけないその目の前の美女の自己紹介に、「え?え?!えーーーー?!」
と、ハンスの母の絶叫が響き渡った。

〜〜〜〜

ユリウスが今回わざわざフランクフルトの元婚家を訪れた理由はもう一つあった。

それが、
雇用先の破産により職を失った幼馴染の救済だった。

長引いた戦争の痛手、そして11月革命による社会の混乱で国内は職を失った者で溢れていた。

そんな折に勤め先を失った幼馴染の事をどうしてもほおっておくことができなかった。

もう何年も前の、まだ自分がこの家の人間であった頃に、ハンスは相変わらず昔のアパートで母親と暮らしていると言っていたので、藁をもすがる思いでその懐かしい場所、かつて自分が暮らしていた界隈を訪ねる。

幸いなことにハンス母子は転居をしていなかったようで、ドアを叩くと、幾分か往時よりも歳を重ねてはいるが懐かしい顔が現れた。

怪訝な顔で訪問者を見つめる彼女に、昔の名前を名乗ると、彼女は目をこれ以上ないほど見開き、空気をつんざくような声を上げた。

〜〜〜〜

「ま、まぁ。こんなところで立ち話もなんだから…。入ってちょうだいな」

昔よくお邪魔していた懐かしいアパートへ招き入れられる。

「…お邪魔します」

「大したものは出せないけど…」

ハンスの母親が出してくれたお茶に、「頂きます」と口をつける。

出されたお茶を頂くユリウスに、ハンスの母親の視線が痛いほど降り注いでくる。

「あの…!」

声を上げたのは同時だった。

「あ、ごめんなさい」
ーーどうぞ?

暫くお互いに譲り合った後に、ユリウスが話の口火を切った。

「あの…これはその…。話すと長くなるのだけど…」

そう言って決まり悪そうに上目遣いでちらりとハンスの母親を見上げる。

「さっきユリウスと…あのユリウスと名乗られて、とても驚いたけど、あんたあの頃のレナーテさんと瓜二つだから…にわかには信じがたい事だがこれは真実なんだろねぇ。ハンスは多分…遅くなると思うし、私もこの通り職にあぶれて暇をかこってる。…あんたさえ良ければ、その長くなる話、聞かせてよ」
ーーどれ、私もお茶を用意しようかね…。

ハンスの母親が一旦席を立ち、カップにお茶を入れ再びユリウスの正面に腰かけた。

〜〜

「…でね、ぼくはそうして…あの家の奥様としてハンスと再会したの」

ユリウスが性を偽っていた経緯から婚家で幼馴染との再会までをハンスの母親に語って聞かせた。

ハンスの母親は、うんうんと頷いたり、「へぇ!」「そうだったのかい!」と短い相槌を挟みながらも、ユリウスの語る数奇な半生に熱心に耳を傾けてくれていた。

自分が性を偽っていた事実を赤裸々に話したのに、彼女が一度もそんな自分と、母レナーテに対して非難めいた言葉を口にしないで、昔と変わらず優しい眼差しを自分にむけてくれていたことが嬉しかった。

「…ごめんなさい。ずっと騙していて」

「あんたが好きでやったことじゃないのだもの。謝ることなんかないよ。…勿論レナーテさんだってそうだ」

「…おばさんは責めないんだね」

「誰をだい?」

「ぼくと…母さん」

「…自分の娘に酷いことをする親は、この世の中に腐るほどいるさ」

「そっか…」

「今にして思うと…ちょっと不可解なことはちょこちょこあったかもしれないね。ハンス、おばさんがあんたに触れようとするのを過剰に避けていたし…。あれは」

「うん…。多分身体に触れられることで…ぼくが女の子だって見破られてしまうのを…防いでくれていたのだと思う」

「そうかい」
思い返せば、あれも、あの時も…と、次々に思い当たる出来事が脳裏に蘇る。
息子の背中に守られるように身を縮めて下を向いていた少年…。

「ま、何にせよ。綺麗になったね。見違えるようだ」

「ありがと…。ハンスから…本当に何も聞いてなかったんだね。ぼくのこと…ぼくと再会したこと」

「ああ。全く。青天の霹靂だったよ」

「本当に…口堅いんだから」

ふふ…。

二人が笑い合った。

〜〜〜〜

「ユリちゃんの秘密を知ってたのは、ウチの息子だけなのかい?」

「ううん。ヨシアスも。ぼくに仲良くしてくれていた二人はある時から…男の子じゃないって気づいたみたいで。…でもそのことでぼくや母さんを問い詰めたりせずに、分かった上で、ぼくのことを守っていてくれたの」

「そうかい。一人は我が息子ながら…あの子ら中々懐の深いいい男だねえ。…そう思わないかい?」

ハンスの母親にそう水を向けられ、ユリウスが大きく頷いた。

「うん。二人は本当にいい男だと思う。再会してからもそう思ったし…あんなに幼い頃から、まるで騎士のようなハートを持っていた」

「なのに、女っ気はサ〜ッパリなんだよねぇ。何でかねえ全く。…ユリちゃん、あんたあの子どうだい?今フリーなんだろう?」

「え?え〜〜?!」

「あ、そうか。あんた今は貴族のお嬢さんで、手の届かない高嶺の花だったね。あはは…忘れて忘れて」

「そんな…。ハンスはいい男だと思うよ。…同年代の女性として、彼は魅力的だよ」

「あら、お世辞でも嬉しいこと言ってくれるねえ」

「お世辞なんかじゃないよ。本心だよ」

「じゃあ、あの前の酷いダンナで…、聞いたよ離婚の経緯は。それはハンスから。まさかあのよく出来た奥様がユリちゃんだったとは夢にも思わなかったけど、ひっどい話だなぁと同情してたんだ…、あ、だからね、わがまま勝手なボンボンにはもうウンザリ!と思ったら、ウチのハンス、いつでもウェルカム!だからさ。もちろん私もね」

「うふふ…。ありがとう。おばさん。…でも、それは…ないかな。あのね、ぼく実は…」

そこまで言うとユリウスは頰をわずかに赤らめた。

「好き合ってる人が…いる?」

その問いにユリウスがコクリと頷く。

「なぁんだ!…ガッカリ。その人とは?そのうち一緒になるのかい?」

次の質問に、ユリウスはわずかに俯いて首を横に振って応えた。

「まだ結婚する前に出会って…とてもとても好きで…でも…お互い事情があって一緒になれなくて。…今でもずっと好き。愛している」
ーーだからね…、離婚の件は、何もギュスターヴだけが悪いと言う訳ではないんだ…。ぼくも…他の男性に心を残しながら結婚したぼくも…彼に酷いことをした。…不実なことをしたんだ…。

言葉を詰まらせながらそう言って小さく鼻を鳴らした。

そんなユリウスの金の頭をハンスの母親がポンポンと撫でる。

「そうか…。そうだったんだ。…よく頑張ってきたね。でも、好きな人がいる。その人を愛している…と言い切った時のあんた、とても綺麗だったよ。あんたが少なからず女性としての幸せを感じて生きていたことは…おばさん良かったと思うよ。…何でその人と一緒になれないんだい?…あちらさんも、もう妻子持ち?」

ハンスの母親の再度の問いかけに、

「…もうこの世には…いない人だから。…こないだ…彼が死んだことを…知って…」

もう泣くまい と思っていたのに、こうしてあの事実に触れるたびに、未だ心が張り裂けそうなほどに痛む。

嗚咽で震えるユリウスの肩を、彼女の隣に席を移したハンスの母親が優しく抱きしめ髪を撫で続ける。

「こんなに華奢な身体で…こんなに細い肩で…あんたの人生は苦難との闘いの連続なんだね。でも偉いね。よく耐えてきたね」

「うぅ…」

ーーさ、もういい加減ハンスも戻って来る頃だよ。あんたハンスを心配して来てくれたのに、泣き顔見られて逆にあの子を心配させたくないだろ?涙を拭いて…。

ハンスの母親のふくよかな胸に抱かれ、手渡されたリネンで涙を拭っていたそのタイミングで、噂をすれば…、ハンスが帰宅して来た。

「あ〜。やっぱ甘くねぇなあ。今日も一日職の斡旋の列に並んで…収穫ゼロだ。腹減った〜。オフクロ、飯〜」

「ハンス!!」

家の中でから飛び出して来た思いもかけないその人物に、ハンスが文字通り目をひん剥いた。

「え?ユリウス…?!何で?!…え〜〜〜〜!?」

〜〜〜〜

「突然お邪魔したのに…ご飯までご馳走になってすみません」

「いいのよぅ。昔はしょっちゅうだったじゃない。あの頃は食が細くておばさん心配してたんだよ?この子育ち盛りの男の子なのに、何でこんな小鳥が啄ばむような量しか食べられないんだろう?ってね。まあ、女の子ならば仕方ないか。あはは。でもやっぱり女性がいると場がこう…パァっと華やぐね。ハンス、さっきもね、ユリちゃんさえ嫌じゃなけりゃウチのハンスどうかって言ってたんだよ」

ーーねー?

母親の恐れを知らぬアプローチにハンスは返す言葉もなく、テーブルに突っ伏し頭を抱える。

「…勘弁してくれよ。何言ってんだよ。ユリウスは今や貴族のお嬢さんだぞ。わきまえろよ…。ユリウス、オフクロの言ったこと、全て聞き流していいぞ…。ていうか聞き流してくれ」

頭を抱えたまま呻くようにそう言ったハンスに、

「なんで?…ぼくはそう言ってくれて、嬉しかったよ。あ、勿論ハンスの奥さんにはなれないんだけど…」

とクスクス笑いながら答える。

「だから…聞き流してくれって」

「ユリちゃん、ずっと好きな人がいたんだって」

母親の言葉に頭を抱えていたハンスが顔を上げる。

「へえ…。そりゃ初耳だったな」

「うん…」

「なんで一緒に…なれなかったのか?身分差か?」

ハンスの質問に答えあぐねているユリウスの代わりにハンスの母親が息子の頭を叩く。

「イテ!」

「お前もデリカシーないね!だから女性にモテないんだよ!ユリちゃんのね、いい人は…」

「死んじゃったの…こないだ。…もうこの世にいない人なの…」

言葉少なくそう言って、泣き笑いのような顔で微笑んだユリウスに「…ゴメン」とハンスが萎れたような表情で謝る。

三人の間に暫ししんみりとした沈黙が流れる。

その沈黙に耐えかねてハンスが再び口を開いた。

「で、今日はわざわざなんでこんなボロアパートくんだりまで足伸ばしてくれたんだ?まあ、お前がフランクフルトに足運んだのは…なんだ、サンデュ家の件というのは分かるんだけど…」

「そう!そうそう…」

ハンスに水を向けられユリウスが居住まいを正し本題を切り出す。

「スカウトだよ。ハンス、今ぼくね、専任の運転手を探してるんだ。信頼が置けて、いざという時にはぼくや娘を警護してくれる腕っぷしの強い運転手をね。もし君が、君とおばさんがフランクフルトを離れて、レーゲンスブルグへ転居してもいいというのならば…考えてくれないかな。お願いします。ぼくと娘のために、運転手を務めて下さい」

そう言うとユリウスは幼馴染に頭を下げた。

「頭上げてくれよ。…いや、驚いたな。知っての通り…俺も、それからオフクロも、今は職にあぶれてて、僅かな俺の傷痍軍人手当てで食いつないでるのが現状だ。…あ!そんな顔するなよ。怪我はもうすっかり治って身体はこの通り!ピンピンだ。…なだけにもう間も無く傷病手当の支給も終わるし、正直八方塞がりでオフクロと頭抱えてたんだよ。…行くよ。レーゲンスブルグ。俺でよければ。こんなご時世に願ったり叶ったりだ。…オフクロは…どうする?今更住み慣れた…」

「行くよ!行くに決まってんだろ。私たちはたった二人きりの…肉親同士じゃないか。ユリちゃん、まぁ…お嫁さんでないのはちょっと残念だけど、こんな腕っぷしと頑丈なことぐらいしか取り柄のない息子だけど、真面目に職務に励みますのでどうかよろしくお願いします」

そう言うとハンスの母親は「ほら!お前も」とハンスの頭を押さえつけ、深々とユリウスに頭を下げた。

〜〜〜〜

 


「それからハンス。ヨシアスとは今もよく会う?」

「ああ。まあな。あいつも物好きっちゅーか。俺よりもずっと高給取ってたんだから、他にいい物件はフランクフルト市内にいくらでもあるのに、相変わらずこの界隈に部屋借りて住んでてよ。「慣れてるしチョンガーだからここで十分」てな。だからしょっちゅう会うし、よくウチにも飯食いにくるよ」

「あの子律儀者だから、食べた分だけキチンと食費も入れてくれてね。大したもん出してるわけでもないのにかえって恐縮しちゃうよ」

「ふふ…。ヨシアスらしい」

「だな。…で?ヨシアスに何か伝える事でもあるのか?」

「うん。ヨシアスがサンデュ家の残務処理が終わって…まだ次の勤め先が決まっていなかったら、ここに連絡頂戴と。これを渡しておいて」

ユリウスがハンドバッグから名刺を出してハンスに手渡す。

「ぼくが結婚前から役員として関わっている合弁会社が、このほど合弁先のイギリスへ本社を移転させて、マネージャーもイギリスへ行ってしまうんだ。こっちの会社は現地子会社として残すのだけど、後任のマネージャーを、会計や財務に明るい人材を探しているんだ」
ーーじゃあ、よろしくね。いい返事を待ってるよ。

渡された名刺を手にしたハンスの手を、ユリウスの白い手がふわりと包み込んだ。

©2018sukeki4

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