top of page
第七十四話

それはドイツの新聞でも、そこそこ大きく取り上げられた事件だった。

1918年秋。

出勤したユリウスがいつものようにレオニードのデスクに新聞各紙を並べて置いていく。

その中の一紙を何気なく繰っていたユリウスの指が国際面でふと止まった。

そこには
不滅の恋人の故国で、彼が一命を投じて打ち立てた新しい国家、ソヴィエトロシアの事件が取り上げられていた。
ユリウスの目が紙面に釘付けになる。

新聞に取り上げられた出来事は、良い事件ではなかった。

その記事は、あの革命で最高指導者となったレーニンの暗殺未遂を報じていた。

〜〜〜〜

去る8月30日、演説を終え自動車に乗ろうとしたレーニンを、三発の銃弾が見舞った。
肩と肺に命中した銃弾は手術で摘出出来なかったが、レーニンは一命を取り留め、犯行現場に居合わせたエスエル党員、ファニー・カプランが逮捕され裁判を経ずに翌月9月4日に処刑された。レーニンはその報復として、臨時政府の閣僚や政治家、旧貴族らを次々に逮捕処刑し、その数は512人に及んだという。
その中には志を同じくして革命を成し遂げた元同士も多く含まれ、昨年の革命の立役者で、先のブレスト=リトフスク条約締結メンバーでもあったアレクセイ・ミハイロフらも含まれていた。

その記事と小さなアレクセイの顔写真に、思わず震えた手から新聞が地面に落ちる。

ガタン。

膝から崩れ落ちたユリウスに、社長室に部屋に入ってきたレオニードが駆け寄る。

「…どうした?」

放心状態で血の気のない真っ白な顔をして震えている彼女の肩を掴んで瞳を覗き込む。

レオニードの黒い瞳に見つめられたユリウスの碧の瞳が虚に揺れている。

「…いや…!」

小さくそう呟くと、ユリウスはレオニードの手を振り切り、駆け出して行った。

「ユリウス…?!…!!」

彼女が走り去って行った後に残された、床に落ちた新聞の記事に、レオニードは全てを悟った。

そこにはー、彼女が少女時代に出会い、そしておそらくは今でもずっと愛し続けていた恋人の処刑が報じられていた。

〜〜〜〜

「ユリウス…」

彼女は予測した通りの場所にいた。

魂をどこかに置いてきたような虚ろな表情で、池の水面を眺めている。

追ってきたレオニードの気配にユリウスが振り返る。

いつもの表情豊かで快活な彼女からは想像のつかないような、血の気は失せ表情の一切を失った痛ましい様子に、ありきたりの慰めの言葉を思わず飲み込み、言葉もなくそんな彼女と対峙し立ち尽くす。

「我慢をするな…。泣きたい時は…泣いた方がよい」

絞り出すようにそう言ったレオニードの静かな声と言葉に、堪えていたユリウスの感情がとうとう決壊して溢れ出した。

激しく慟哭するユリウスをレオニードの胸が受け止める。

 

「なんで…!ねえ、なんで?!」

 

―― ワァ…!!

 

激しく慟哭するユリウスをレオニードの胸が受けとめる。



「こんな…こんなことに…こんな結末を迎えるのだったら…、あの時アレクセイを祖国へ返すんじゃなかった!逃がすんじゃなかった!!…こんな結末のために…ぼくは…!!」

 

レオニードの胸の中でユリウスが吐き出した想いに、胸がつまる。
彼女の背中を撫でながらレオニードが答えた。

「それは違うぞ。ユリウス。お前があの時奴を逃したからこそ、あの国は新しく生まれ変わったのだ。…お前のしたことは無駄ではなかった。…第一、あのままここにい続けたら、奴はこの年まで生きてはおらぬどころか、無事ドイツを出国し祖国の地を踏んではおらぬ。そうなれば…無論生きて、革命の実現も迎えておらぬ」
ーーこの私の名にかけてな。

「…ぼくのしたことは…無駄じゃない?」

まだ涙を湛えたままユリウスの瞳がレオニードを見上げた。

ユリウスの問いにレオニードが頷く。

「ぼくのしたことは…あれで、よかった…の?」

もう一度レオニードが大きく頷いた。


 

〜〜〜〜

「…よく、ここが分かったね」

「まあな。…足を運んだのは初めてだが」

「そう…かもね」

「…思い出の場所なのであろう?…そんな場所にズカズカと土足で踏み込むなど…そんな無粋な真似出来るか」

「ふふ…。あなたの口から…無粋なんて」

まだ頰を涙で濡らしたまま、ユリウスが泣き笑いの表情になる。

「拭け」

そんなユリウスにレオニードがハンカチを差し出した。

「…ありがと。なんか…昔っからぼくが泣いていると…こうしていつもレオニードがそばにいてくれるね」

「…そう言えばそうだな。鼻もかんでよいぞ」

「…ありがと。洗って返すね」

「構わん」

〜〜〜〜

「ありがと…レオニード。追いかけてきてくれて。そばにいてくれて。…もうこんな時間!…すみません。今日はぼく大幅に遅刻だね…」

近くの音楽学校から聴こえてきた鐘の音に、落ち着きを取り戻したユリウスが我に返り少し慌てた表情になって遅刻を詫びる。

「今日はもう帰れ。…帰って、心ゆくまで奴の冥福を祈って…喪に服してやれ」

「え…でも…」

「よい。社長の私がよいと言ってるのだ。シフには体調不良で帰したと伝えておくから心配するな。ホラ、家まで送ってやる」

そう言うとレオニードは、茫然と自分を見つめているいるユリウスの手を取り半ば強引に自分の腕に組ませてゆっくりと歩き出した。


 

〜〜~〜〜

「侯…」

「すまぬ。遅れた」

「いえ…」

床に落ちていた新聞の記事で、大体を察したのだろう。普段は表情をあまり表に出さないロストフスキーが、痛ましげに顔を曇らせた。

「奴が…近頃レーニンと方針をめぐる意見の相違で確執が生まれてたのは…情報筋から耳には入っていたが…。この度の事件がレーニンにとっては災難であったと同時に…政敵と…それから自分と意見を異にする人間を一掃するまたとない口実になったのであろうな」

「赤色テロ…ですか」

「奴は…アレクセイ・ミハイロフは…、先に処刑されたニコライ陛下や皇族貴族らへの処遇で、レーニンと真っ向から対立していたらしい。…しかしそれが仇になったようだな。奴は「所詮貴族の御曹司」と現政権内で孤立を深めて行ったようだ。…皇室が倒されて…少しはまともな国に生まれ変わったかと思ったら…意外に馬脚を現すのが早かったな。…これであの国は…再び暗黒時代を迎えるのか…」

「侯…」

「亡国の身である私が何を言っても…今更、だな。ただ…これからあの国から逃れてくる難民が増大するであろう。少しでも彼らの助けになれれば…とは思っている」

「…そう…ですね。窮乏難民のとなった同胞のために出来ることを…我々はしていきましょう」

「そうだな」

©2018sukeki4

bottom of page