第七十三話
ーーロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ二世処刑される。
1918年7月某日。
そのニュースは祖国から遠く離れたドイツの地にももたらされた。
「フロイライン…。いえ、プリンセス・アナスタシア。落ち着いて聞いてほしい。あなたのお父君、ニコライ二世陛下が去る17日に、ウラル・ソヴィエトに処刑された。対外的には処刑されたのはニコライ二世陛下お一人とされているようだが…アメリカの情報筋によると、一家全員と、それから彼らに付き従っていた使用人たちも皆殺害されたようだ」
レオニードのその言葉に、ヴェーラは「おぉ…」とそれ以上の言葉を失い、傍で石像のように固まってその宣告を受けていたアナスタシアの細い肩を抱き寄せた。
ヴェーラに肩を抱かれ血の気を失い真っ白な顔をしたアナスタシアが、絞り出すような声で「…部屋へ…下がらせてください」とだけ言うと、朝食の席をフラリと立ちあがった。
凍りついたような表情のまるで彼女自身が亡霊となったようなその様子に、「すまぬ。ゲルトルート。フロイラインに」とレオニードがゲルトルートに付き添うよう命じる。
「かしこまりました」
食堂の片隅に侍していたゲルトルートがサッと、食堂を後にするフロイラインに寄り添った。
〜〜〜〜
ーーフロイライン、鍵、開いてる?入ってもいい?
ノックの後に、ドア越しにユリウスが中に声をかける。
部屋の中から返事は返ってこない。
少しの逡巡の間の後に、ドアが静かに開きユリウスが部屋に入ってきた。
泣き崩れているかと思いきや、アナスタシアは静かに窓の外を見ながら佇んでいた。
「フロイライン…」
ユリウスの呼びかけに、そのまま窓の方を向いたままアナスタシアが答えた。
「皇帝だった父と…皇位継承権を持っていたアレクセイ。…それから…国民からひどく憎まれていた母のことは…正直…もうダメかもしれない…と、国を出た時に…半分覚悟は…してました。…だけど…なぜ?…なぜ姉達が…姉達まで…処刑されなくてはならなかったのでしょう!…皇位継承権もない!…同世代の…従姉妹たちや貴族や…ブルジョアジーの令嬢達よりも…ずっと、ずっと慎ましやかに、質素に暮らしてきた!!あの姉達に…なんの…なんの…」
ーーうッ…うぅ…
胸の中の想いを吐き出したアナスタシアが、嗚咽と共に崩れ落ちた。
カーテンを掴んで嗚咽をあげる彼女に近づくと、ユリウスはそっと背後から抱きしめた。
「泣き声を噛み殺さなくていいよ。我慢しなくていい。思いっきり泣きなさい」
その言葉に、アナスタシアはユリウスの方を振り返ると、彼女に縋り付いて涙が枯れるまで声を上げて泣き続けたのだった。
昨年家族と別れてからアナスタシアが初めて見せた、むき出しの悲しみと絶望だった。
〜〜〜〜
「ありがとう…。泣かせてくれて…胸を貸してくれて…」
泣いて泣いて泣き尽くしたアナスタシアが、少し掠れた声でそう言った。
「ううん。…一人で、部屋にこもって…あんな風に感情を押し殺してジッと悲しみに耐えるなんて…辛すぎるよ。ぼくは…慟哭しているあなたのそばにいて、…あなたのご家族の魂の安息を祈ることしかできないけれど…」
ユリウスがそっとアナスタシアの両手に自分の手を重ねた。
「それだけでも…嬉しい。だって…もう故国には…父達の魂に祈りを捧げてくれる人なんて…いないと思うから…」
目を伏せ少し自嘲気味にそう言ったアナスタシアに、
「そんな…レオニードたちも…とても心配していたよ。あなたは…もっとレオニードやそれからヴェーラに、感情をぶつけてもいいんだよ?」
とユリウスがアナスタシアの手を握ったまま、心配そうな眼差しを向けた。
そんなユリウスに
「それは…出来ません」
とアナスタシアが俯いたまま首を横に振る。
「…どうして?」
「だって…。私の両親は…、直接ではないにしろ…侯爵たちのお父様の命を奪っている。…私たち一家が盲信していたラスプーチン神父に、侯爵のお父上は殺された。そのぐらい…誰も何も言わなくても…知っている。そんな私が…彼らに…同じように親を殺された悲しみをぶつけるなんて…どうして出来ましょう?…親を殺した、間接的であれその原因となった人間の娘に…彼らはこんなにも良くしてくれる。なんの見返りもなしに!…もうそれだけでも過ぎた厚意なのに…。私は…」
再び顔を両手で覆ってシクシクと泣き始めたアナスタシアに、
「…あなたはとても人を思いやる気持ちに溢れた、優しい子だね。ねえ。…レオニードやヴェーラが…皇帝の忠実な臣下だからって…ただそれだけであなたに尽くしているのは…ぼくは違うと思うんだ。たしかに最初はそうだったかもしれない。身に沁みついた忠誠心から彼らはそうしたのかもしれないよ。だけど…今は違うと思うんだ。レオニードも、ヴェーラも…あなたと接して、あなたと生活を共にして…あなたの純粋で優しい生の魂に触れて、そんなあなた自身を、一人のアナスタシアという女性を愛おしいと思ったから…こうして親身になってそばにいるのだと、ぼくは思うよ」
ーーだって…他ならぬこのぼくがそうだから。元ロシア皇女のアナスタシアではなく、一人のフロイラインアナスタシアとしてのあなたのことを、愛おしく思っているから…。
そう言ってユリウスは、娘を抱きしめるように、この悲しみに傷ついた少女の身体を、魂ごとギュッと抱きしめた。
〜〜〜〜
「フロイライン…アナスタシア・ニコラエヴナ様。あなたの新しい身分が整いました。あなたのこれからの名前は…アンナ。アンナ・ユスポヴァだ。この私と養子縁組をして、あなたは以後私の義理の娘ということになる。イギリスの王室筋にも極秘に話を通して、近日中にイギリスに渡り、謁見の手配も整っている。イギリス国籍の取得の手配も進んでいるので、これからは…一イギリス人として、ロシア系イギリス人、レオニード・ユスーポフの娘として生きていくことになるので、今後は父として…なんでも遠慮せずにこの私を頼りなさい」
「…父…ですか」
「父としての私は…なんの経験もないし、些か…いや、父親としてはかなり至らない点もあるかとは思うが…」
そう言って侯爵は厳しい表情をちょっとだけ決まり悪そうに崩した。
ーー父…。
家族を失ったその数日後に…私は淡い初恋も失うこととなってしまった。
相手が父では…私の想いはどうにもならない。
私の漏らした小さな嘆息に「その…私では、やはり父親としては…力不足…である…な」と益々決まり悪そうに侯爵がつけ加える。
「いいえ。そんなことはありません。…ふつつかな娘ですが…これからも、よろしくお願いします。これからは私のことは…アンナ と呼んでください。私もあなたのことを…お義父様と呼ぶことにいたします」
私の「お義父様」のその一言に…侯爵は少し驚いたように軽く目を見張り…そして大きな手を私に差し出した。
「…そうであるな。私たちはこれからは親子なのだから…な。私こそ、至らない父親ではあるが、これから家族として…仲良くやっていこう。…アンナ」
そう言った侯爵…いや、義父の笑顔と、私に向けた眼差しは、今までとは違った家族に向けるものに他ならなかった。
この出来事から数か月のちーー
クリスマスを待たずして、かねてより進めていたイギリス移住の準備、私の新しい身分の問題も含むー、が完了した私と侯爵たちは、一年の時を過ごしたレーゲンスブルクのこの旧家を後にし、渡英した。
そして以後この国を母国として、義理の父となった元侯爵レオニード・ユスーポフの娘として、私は生涯を過ごすことになるのだった。
〜〜おまけ 後日譚〜〜
それから三ヶ月後ー
「フリードリヒがロンドンでユスーポフ侯と会ったようだ。その後の、王室とのやり取りの経緯や新生活の様子を知らせてきた。あれから秘密裡に国王との謁見は叶ったものの…やはりロマノフ家皇女としての王室での保護は叶わなかったそうだ。但し、英国に預けたあの隠し財産については、残っている分に関しては全額プリンセス…いや、今はアンナ嬢だったな…に譲渡されたそうだ。秘密の保持を条件に。まぁ、さしずめ手切れ金と口止め料といったところであるな。ロンドンに移転した会社も、概ね順調なようだな。アンナ嬢は今自立に向けて将来の途を色々検討中だそうだ。自分もお前やマリアやアニエスのように、自らの足で立って人生を堅実に歩いて行きたいと言っているそうだ」
「そう…。フロイライン…ううん、アンナが、また顔を上げて前を見て、新しい人生の一歩を力強く踏み出そうとしていて…本当に良かった。いつか…また、彼女に会いたいな。一人の女性としてたくましく生きている、…フラウ・アンナ・ユスーポヴァに」