第七十二話Ⅲ
「穏やかですねぇ…」
「そうですね…」
不思議な縁に導かれヤルタのこの地に邂逅して以来、アデールとヴァシリーサは時折レオニードの遊び場所で会っては時を過ごすようになっていた。
かたや身内が新政権の中心人物の一人であるとはいえ、社会の混乱を逃れての疎開の身、そしてかたや権力の座から追い落とされた旧皇族の一人として新政権から囚われの身の、決して穏やかではない状況といえばそうであるが、それでも厳しい冬が終わり、春の到来は、明日を知れない不安な日常をひととき忘れ去れてくれるものであった。
木の間から漏れる春の陽光を身体いっぱいに浴び、木漏れ日に向かって手を伸ばす。
「来年の今頃は…わたくしたちどうしているのでしょうね…」
「…そうですね。レオニードはもう少し大きくなって…あなた方は、そんなレオニードの成長を、こうして目を細めて見守っているでしょうね」
「…あなたは?」
「わたくしは…もう来年の話をする歳ではございませんもの…」
「そんな…。そうですわ!きっとあなたは…お孫さんがモスクワから迎えに来て…もうここにはいないかもしれませんわね」
この年の三月に、首都がサンクトペテルブルクからモスクワへ移り、政治機構もまた新都モスクワへ移動していたのだった。
「ペテルブルクに戻るのは…もう叶わないのでしょうかね。…本来ならば殺されていてもおかしくない立場のわたくしが、今ここでこのように日々を過ごしていけていること自体が…幸運であることはわかってはいるのですが…」
ヴァシリーサが俯きがちにポツリと漏らした。
「モスクワで、お孫さんと暮らせばよいではありませんか?」
「住み慣れないモスクワの喧騒に…わたくし馴染むことが出来ますかしら…ね」
泣き笑いのような顔で、ヴァシリーサがそう言ってアデールに微笑んだ。
「こんなお婆さんが来年の話をするなんて…おかしいわね。わたくしなんかのことよりも…あなたたちは、あなたとレオニードは…来年はどうしているかしらね。またここで元気に…」
そこまで言ったヴァシリーサが、アデールの整った顔に落ちた憂いに、ふと言葉を止める。
瞳に思いつめた色を浮かべ、じっと遊んでいるレオニードを見つめていたアデールがポツリと漏らした。
「…あの子は…来年には、8つになります。8つといえば…わたくしの弟や従兄弟や…幼馴染の貴族たちは、親が選りすぐった家庭教師について、どこに出しても恥ずかしくないような教養やマナーを身につけ始める頃です。…いいえ、むしろもう遅いぐらい。…あの子は良い子です。まっすぐで優しくて、勇気もある。…頭も悪くありませんわ。だけど…このままこの片田舎で何の教育も受けずに成長していくことを考えると…親として…」
堰を切ったように心のうちに巣食っていた思いの丈を吐き出すと、キュッと唇を噛んでアデールは俯いた。
「アデールさん…」
「…なんで…なんで、親として、もっと何か…なんとか出来たのではないかという思いが…どんどん込み上げてきて…。ネーリに頼まずとも、では他のつてを頼ってレオニードを託せなかったのか、夫は…何故国外へ出る前に…少しでもあの子のことを考えて、一緒に連れて行ってくれても良かったのではないか…。何故、なんで…と、その思いにとらわれる始めるとわたくし…」
俯いたアデールの肩が微かに震えていた。
そんなアデールの肩をヴァシリーサが優しく抱き寄せる。
「…あなたの葛藤と焦りは、よく分かります。わたくしが、息子の遺児…アレクセイを引き取ったのは、あの子が7つの時でした。貴族の…上流階級の暮らしとは無縁の環境で、伸び伸びと育っていたために、初めて対面した時のあの子は…よく言えば子供らしい男の子、まぁ、ザックリ言うととんでもないゴン太でしたね。面立ちこそ…息子や上の孫…ドミートリィによく似ているものの、その利かん気そうな面構えに、わたくしはこれからのあの子の躾の前途多難に頭を抱えたものでした。…実際あの子ときたらまあ、予想通りの酷いヤンチャ坊主で、行儀も言葉遣いもまるでなっていないわ、女の子に乱暴はするわ…挙げ句の果てに家出をして街で保護されるわ…。翻弄されっぱなしで毎日がきりきり舞いでしたよ。そんなあの子を見て、「あぁ、この子に貴族らしいマナーと自覚が身につく日は、果たして訪れるのだろうか?ここへ引き取らずに母親と暮らしていたあの土地で暮らしていた方があの子にとっては幸せだったのではないか」と何度も葛藤しましたよ。あの子が14の時に、あの事件が起こり、あの子にも指名手配がかかり、国を追われ…あの子との生活は突然終わりを告げました。…だから正直申しまして、あれからあの子に紳士としての嗜みが身についたのかは…わたくしには分かりません。だけど…あの子は紳士として、いいえ、人間として最も大切で本質的なものを、きちんと身につけていたようです。わたくしが喧しく躾けなくとも…先達の背中を見て、あの子はあの子なりの自分の人生の意義と信念をみいだし、そしてをそれを貫いたのだと、わたくしは今は思っております」
「…そう言えば、彼はこの三月の講和会議のメンバーとして…」
先だってドイツとの間で締結した講和会議の件に触れる。
「ホホ…。成果については…随分厳しく叩かれておりましたがね。確かに親の施す教育は大切です。それこそが…子供の今後の人生を左右することも多いでしょう。だけどね、アデールさん。それだけじゃないのですよ。一番大切なことは、その子供本人が自発的に何からどんな事を学び取るか…だと思うのです。ご存知の通り、わたくしが親代わりに手塩にかけて育てた上の孫は…社会主義思想に共鳴し…最期は反逆者として処刑されました。アレクセイにしても…年端のいかないうちから亡命を経験し、後にはシベリア流刑も経験しています。さらに言えば…息子も、社会の改革を志し…結局志半ばで不審死を遂げています。みーんな!そう!ただの一人も、わたくしが育てたように、わたくしが敷いたレールを辿りませんでしたわ。…わたくしの不徳の致すところ…と言えばそれまでですが、子供なんて、人なんて、結局どのように教育したところで詰まる所はなるようにしかならないということです!だから…くよくよするのはおよしなさい。…見てごらんなさい。あんなに健康で、素直で、可愛くて、親思いで…。それで十分ではありませんか?あまり自分を…ままならぬ人生を責めるものではありませんよ」
そう言ってヴァシリーサは、これからの不安に押しつぶされそうになりうなだれたこの傍の歳の離れた友人の心が落ち着くまで、肩を抱き髪を撫で続けた。