第七十二話Ⅱ
「御機嫌よう」
その二人組に、アデールの方から声をかける。
一瞬の後、婦人がアデールの正体を悟ったようである。「あ」という顔から恭しく腰を折り、「ご機嫌麗しゅう」と礼を示した。
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「オークネフ…執事からね、とても可愛らしい男の子に出会ったと聞きましてね。…ちょうど今からもう20年以上も前ですが、わたくしが孫を引き取った時の…アレクセイ…孫と同じ年頃だったと聞いて。どうしても会ってみたくなってしまって、オークネフにせがんで出会った場所に連れて来て貰ったのですよ」
この老婦人の言う、孫というのは、かつてアデールが合奏したあの少年の弟に当たる人物だ。
少年時から兄の遺志を継ぎ革命運動に関わり、現政権の中枢でレーニンの片腕として活躍しているアレクセイ・ミハイロフ。
「昨年のあの事件で、殆どの貴族やブルジョアジーは…外国へ逃れて行きました。…あなたは国内に留まっていたのですね」
「…ええ」
その婦人、ヴァシリーサ・ミハイロヴァもアデールに同じ質問を返す。
「あなた様も…、ここでお会いすることになるとは思いませんでした。亡命されたものと…」
その問いにアデールも静かに首を横に振る。
「ここには…わたくしの大恩人がおります。彼女を見捨てて自分たちだけ亡命するのは…わたくしの良心に悖ります」
ーーただ…。本当のことを言えば…侍女と息子だけは…何としても国外へ、安全な所へ逃したかったのですが…。
そう言って少し離れた場所で侍女と花を摘んでいる愛息に目をやった。
「旦那様に…ユスーポフ侯爵に、よく似ておいでですね。お子様が生まれていたとは、ついぞ存じませんでした」
「…あの子を授かったのに気づいたのは…夫と別れた直後でした。皮肉なものですね。別れた後に切望して止まなかった子供を授かったのですから。ご存知かと思いますが、当時の夫は…政治的に何かと風当たりが強く、せっかく授かった子供も、妊娠が発覚したら始末を迫られるか…もしくは秘密裡に産んだ後に何処かへ養子に出されるか…最悪闇に葬られかねない状況でしたのですが…どうしてもこの子を諦めたくなくて。その一念でわたくし妊娠を隠して、極秘に出産致しましたの。離婚の際に夫から譲られた領地へ隠遁して」
「まあ!」
アデールが今まで滅多に人に語ることのなかった武勇伝に、ヴァシリーサが黒い瞳を見開き、キラキラさせて続きを促す。
「離縁した時には…領地も財産も何もいらないから、あの人と…夫と一緒にいたかった、と、昼も夜もなく嘆き悲しんでおりましたが、こうなってくると、譲られた領地に…心から感謝致しました。実家の息のかからない領地でわたくしは、あの侍女の弟の医師夫婦に力を借りて、無事あの子を出産することが出来ました」
「そうだったのですか…」
「まぁ…尤も。極秘出産は程なくばれて…伯父夫妻の勘気を買いましたが…。わたくしの出産に協力した医師夫妻は国外追放…でもまぁ、これは今となってみれば災い転じて…ですわね、そしてわたくしも産んだ子を引き渡すよう迫られ…。今度こそ絶体絶命のピンチに立たされたわたくしを救ってくれたのが…あの侍女のネーリと、それからお祖母様…皇太后様だったのです」
「?」
ヴァシリーサの続きを促すような視線に、アデールが続ける。
「ネーリは…これだけは従うことの出来ない皇帝陛下の命に何とか抗うことは出来ないか…と考えて、捨て身の策を練り、そして果敢に実行してくれました。…ネーリは、あの当時この国で皇帝陛下に唯一意見することができる人間、つまり陛下の御生母様であるマリア・フョードロヴナ様の元へ直談判に向かったのです。単身。しかもわたくしに手の内を一切告げずに!「アデール様が生んだお子を手放すことのないよう、代母に、後見になってほしい」と。運もわたくしたちの味方につきましたが、それを聞いた時はあまりの無謀な行動に、言葉もなく膝から崩れ落ちましたわ。本当に幸運なことに、皇太后様は捨て身のネーリの心意気を買って下さって、また、当時皇太后様は皇后陛下の御行状に良い感情を持っていなかったものですから、それで反皇后と見なされていたユスーポフの子供を産んだわたくしに、感情的に肩入れする思いもあったのだと思いますわ。結果わたくしは息子を手離さずに済み、ネーリもまたお咎めなしということで、皇帝陛下夫妻のお怒りの盾になってわたくしたちを守ってくださったのです。だから…」
「囚われた皇太后様を残して、国を去ることは出来なかった…と」
ヴァシリーサの言葉にアデールがコクリと頷いた。
「ところであなたは…何故?ここに…?」
今度はアデールがヴァシリーサに尋ねた。
「身内に新政府側の人間のいる貴族でも…この国を離れた人は多いですわ…」
かつての婚家だったユスーポフ家も、末の弟がボリシェヴィキに走り、元夫のレオニードとその妹は、昨年この国を出たと風の噂で聞いていた。
その事実を思い起こすたびに、アデールの心を言葉にできない割り切るなさとやるせなさが苛んでゆく。
「…もう、老い先短い身ですわ。今更外国にまで逃れてまで命を永らえようとも…。先程、わたくし昔幼い孫を引き取った…と申しましたでしょう?」
「…アレクセイ…ミハイロフ、ですわね」
「…あなた方、いえ、わたくしたち貴族だった人間にとっては、不愉快な名前かもしれませんが…、今あの子が、この国で生きているのです。堂々と。誰憚ることなく自分の名を名乗って。わたくしとあの子は…出会ってから一緒に暮らすことが出来たのは、ほんの10年にも満たない短い時間でした。…そりゃあ今だって…、一緒に暮らすことは叶いませんが…、この国にいさえすれば、またいつか会える時も来ましょう。わたくしが外国へ亡命したら…それは叶わなくなります」
ーーただね、ペテルブルクの屋敷にい続けるのは、あまりに危険だから、どこか田舎へ疎開しろと…孫から言われましてね。ここへ暫く居を移していたわけです」
そう言ってヴァシリーサが微笑んだ。
「…あの別荘が、ミハイロフ家所有のものだとは存じませんでしたわ。…革命前からよくここへは滞在しておりましたが、あそこはいつも人の気配がなかったもので」
「…正確にいうとミハイロフ家所有ではなく、わたくし個人の財産だったのです。…ミハイロフ家は1900年の…ドミートリィの事件で爵位と領地を全て没収されておりますのでね。…言い訳がましくて心苦しいのですが、名義がミハイロフ家となっていなかったので、あの時に財産の目録から漏れていて没収されずにいたのです。わたくしもずっとここの存在は忘れていて、昨年アレクセイに疎開を勧められて、その時に思い出して…」
「そうでしたか…。…ドミートリィ・ミハイロフ侯爵のことは、よく覚えております。あの時は…伯父の無茶振りの余興とはいえ、わたくしの下手なピアノにも嫌な顔一つせず親切に合わせてくださって…」
「ホホ…。ピアノはともかく、本当に愛らしいお姫様で、…ドミートリィ並ぶとよくお似合いで」
「祖母は…わたくしをミハイロフ家に妻わせても良い…とお考えになっていたようですね。有力貴族の子息のいずれか…、結局はユスーポフ侯爵家へ嫁ぎましたが」
「そうですわね。わたくしもあの時は そんな夢も見ましたわ」
ヴァシリーサの瞳が懐かしそうに遠くを見つめた。
「その数年後、ドミートリィはあんな事件を起こしてミハイロフ家は断絶。そしてその数年後の今は…」
「社会そのものが革命でひっくり返り…あの時あなたの孫を処刑した側のわたくしたちが…ここでとらわれの身となっている…」
ヴァシリーサの言葉の続きをアデールが継ぎ、ため息交じりの笑いを漏らした。
「…なんだか、皮肉なんだか何なのだか…」
「そうですわね。わたくしたち、こんな呑気に世話話に興じてますが」
ーー母上、これ。
近くの草むらでネーリと花を摘んでいたレオニードが二人の元に駆け寄ってきた。
「はい。…お綺麗です」
ネーリに習ったのだろう。摘んだ花でこさえた花冠を母親の頭に被せる。
「まぁ、ありがとう。レオニード」
「それからマダムにも」
もう一つ手にかけていた花冠を今度はヴァシリーサの頭に被せた。
「まぁ、お優しいこと…。ウチのドラ孫とは…大違い!ありがとう。…ええと…」
「レオニード。レオニードと言います」
元気よくレオニードが名乗った。
「お父様と同じお名前なのね。…ありがとう。レオニード」
レオニードの幼い肩を抱きしめると、ヴァシリーサは柔らかな頰にキスをした。
こうして
奇妙な縁に導かれ、アデールたちとヴァシリーサ・ミハイロヴァのささやかな交流が始まったのだった。