第七十二話Ⅰ
1918年ー
アデールたち、アデールと愛息レオニード、そしてネーリは、幽閉されていたクリミア、ヤルタで春の訪れを迎えていた。
幽閉の身となると、最早海外に預けた資産なども絵に描いた餅で、幽閉先に何とか取りまとめて持ち出すことのできた貴重品、持ち運べる宝飾品や毛皮、金や銀の食器類などだけが、頼みの綱の財産となり、心もとない生活を送っていたのだった。
「ごめんなさいね。レオニード。今年はパスハのお祝いも出来なくて…」
「今は皆が辛いときなのです。パスハなど祝えなくても僕は気にしません」
済まなそうに謝る母親に幼いながら凛とした声でレオニードが答える。
その利発な受け答えが、母の立場としては却って不憫でもあり、この大人を心配させまいと気丈に振る舞う健気な息子のまだまだ幼い細い肩を抱きしめる。
「あぁ、レオニード…」
「パスハを祝うために…母上の首飾りをこれ以上手離すのは、もうやめてください」
「うっうっ…若様…姫様」
その様子を傍らで見ていたネーリが感極まって盛大な嗚咽を立てる。
「何ですか…ネーリ。…子供の前でそんなに泣いたりして」
そう言うアデールも声を詰まらせ、目頭をそっとハンカチで押さえている。
「だって…だっで…。やはり、これでよがっだのですよ。母と幼い子供が生き別れるなんて…よくはありません!グスン」
皇帝が退位した昨年の早春頃に、実はアデールはネーリに亡命を勧めていた。
フィンランドの弟夫妻の元へ身を寄せてはどうだろうか。まだ何とか国外へ出られる今のうちにレオニードも一緒に連れてロシアを出て欲しい と。
主人のその提案をネーリは言下にはねつけた。
「姫様が行かないのならば自分だけが亡命などあり得ない」と。
そして
「いくら姫様の頼みでもそれだけは受け入れ難い」と。
そしてまだ幼い息子も決然と母に言った。
「母を残して自分だけ安全な場所へ逃げることなど出来ない」
と。
そして
「幼くとも大事なことは自分で考え決断できる」と。
こうしてこの家族は揃ってこの激動の時代を祖国で受け止めることとなったのだった。
試練は早々にやって来た。
1917年秋、臨時内閣が倒れ、ケレンスキーが失脚し、ボリシェヴィキが政権を握ると、旧世界の人間たちー、旧皇帝一家を頂点とする皇族、貴族、ブルジョワジーへの方針がガラリと変わり、弾圧がきつくなった。
皇帝一家はトボリスクからエカテリンブルクのイパチェフ館へ移され、皇族たちも次々とボリシェヴィキに収監され、クリミアのヤルタに幽閉された。
その中にはかつてアデールたちの窮地を救ってくれた大恩人の皇太后マリア・フョードロヴナ様も含まれており、アデールは自分一人がこの偉大な祖母に最後まで付き従い、生涯の大半を自分のために尽くしてくれた腹心の侍女に愛息を託し、彼女の弟夫婦のいるフィンランドへ亡命するよう再度の勧告をしたのだった。
(この忠実な侍女の実弟とその妻である医師夫妻は、数年前アデールの極秘出産に携わったことで皇帝夫妻、殊に皇后の勘気を被り、国外退去を命じられ、妻の実家である自治領フィンランドへ移住していのだった)
しかしこの気骨の通った侍女も、そして別れた父親と容貌だけでなく一本気な気質も受け継いだ幼い息子も、やはり頑としてアデールの勧めを聞き入れず、結局もはやこれからの運命は生きるも死ぬも一連托生と肚を括り、三人離れることなくクリミア、ヤルタの地で新政権の縛に甘んじる日々を過ごしていたのだった。
とは言え、都から離れたヤルタはやはり雰囲気としてはどこか呑気なもので、当時は幽閉といっても監視体制は幾分か緩いものだった。
監視をしているボリシェヴィキの下っ端党員へ袖の下如何で、幾分かの自由も得ることも可能だった。
アデールはそもそも夫と別れてから実家の庇護から自立し、自力で子を産み育て領地経営をし、己の才覚で生き抜いて来た女だった。
このような事態になり、なすすべもなく右往左往している生活能力に欠ける皇族の親戚達やかつての大貴族らとは違い、何とか持ち出して来た虎の子の宝飾品や調度品、毛皮、ドレスなどを元手に、監視のボリシェヴィキの下っ端党員を手懐け、街の市場や商店にお忍びで出向き、食べ物や薪、下着や靴下や石鹸といった日用品、それから新聞といった情報を入手し、皇太后様を助けながら何とか日々を生き抜いていた。
〜〜〜〜
「…若様、あきらめましょう。無理ですよ」
「でも…」
ネーリの顔を見上げたレオニードの顔が泣きべそ顔に歪む。
二人が見上げているのは一本の木の生い茂った枝だった。
葉を繁らせた枝から切れてぶらんと垂れ下がった糸が見える。
それは糸が切れて引っかかっている凧の糸だった。
普段は聞き分けの極めて良いレオニードだったが、おもちゃなど何一つないこのクリミアで、手先の器用な皇族の親戚の一人が手近にあるもので拵えてくれた凧が余程嬉しかったのだろう。
どうにも諦め難い という顔で傍の親同然の侍女を涙目で見上げる。
「あぁ、困ったなあ。…仕方ない」
目に入れても痛くないこの息子同然の主人の御曹司に涙目で懇願されてはネーリも無下には到底出来なかった。
覚悟を決めてネーリが靴を脱ぎ木の根元に揃えた。
「若様、人が来ないよう見張っていて下さいましね」
ネーリが幹に手を回し、そこへ足を掛けようとしたその時、
「ネーリ!」
少し離れたところに近づいてくる人影を認めたレオニードが、ネーリのスカートを軽く引っ張って指をさした。
「一体どうされたのですか?」
その人物も、少し先の木の下にいる二人を認め、声をかけて近寄って来た。
こんなご時世に、まだ執事を伴って保養に来ている人間もいるものなのか。
二人の方へ近づいて来た人物は、初老の身なりの良い上品な人物で、その身なりから、おそらくどこかの屋敷の執事であることが推測できた。
ネーリとレオニードを認めたあちらも、困った様子の二人に近付いて来た。
「どうされましたか?」
木に登らんと靴を脱ぎ両手を幹に掛けていたネーリと、その傍のレオニードに声をかける。
「いえ、あの…」
はしたない姿を見られたばかりか、思いがけず幽閉されている人間以外の人物と接触してしまい、ネーリは困惑しながら口ごもる。
そんな二人と木の枝からぶら下がっている糸を見てその老執事はおおよそのことを察したのだろう。
「少し待っていなさい」
と言い置くと、一旦来た道を引き返して行った。
数刻して再びやって来た老執事は、肩から梯子を掛けていた。
「すぐに取ってあげよう」
「でも…あの」
心配そうにその様子を見やるネーリとレオニードに、
「なぁに、年寄りだって心配することないですよ。こう見えても慣れているのです」
と言うと、梯子をスルスルと登って行き、やがて目当てのものを手にして地上へ降り立った。
「ほら、坊やの大事なこれ」
再び大事な玩具が手の中に戻ってきたレオニードが顔いっぱいに笑みを浮かべる。
「ありがとう。おじちゃん」
「風がある時は良く揚がるのだよな。だけど凧を揚げるには、もう少し風の弱い時の方がいいかもしれないな」
あどけない幼子に、その老紳士も顔を綻ばせて小さな黒い頭を撫でて答えた。
「もしよろしければ、壊れた凧を修理して差し上げましょうか?屋敷がすぐ近くなのです」
有難い申し出を、「お心遣いだけ有難く…」とネーリが固辞する。
「そうですか。…お二人は親子…ですかな?」
「いいえ。ネーリは、侍女です。僕はあそこに、母とネーリと、それから…皇太后様達と一緒に暮らしています」
そう言ってレオニードが幽閉されている邸を指差し、老執事の質問に無邪気に答えた。
「若様!」
ーー幽閉中の、皇族か。
子供の無邪気な返答と、それに対して慌てた様子の傍の侍女に、その老執事ー、ミハイロフ家執事オークネフが二人の素性を悟った。
「あの…」
困惑した面持ちで自分を見ている侍女に、「心配することない」と目で語る。
「では私は、屋敷へ戻りましょうかね。じゃあな。坊や」
梯子を肩から担いで再びオークネフが来た道を引き返して行った。
ふと思い立ったように振り返り、
「この辺は、あまり地元の人間も通らないので、外遊びをする時はやはりこの辺で遊ぶのがよいでしょう。あ、私共は、私と主人はあそこの屋敷に滞在しております。また何か縁がありましたら、どうぞよしなに」
そう言うと、一礼してその指差した屋敷へと戻って行った。
〜〜〜〜
「それで、その執事らしき男性とは?」
「ええ。接触はそれだけでした。…恐らくレオニード様のおっしゃられた事からわたくしたちの境遇を察したのでしょう。…特段名前も聞かず、あちらも名乗らず…ただ滞在先の屋敷だけを指差して…そこで別れました」
「…そう。何はともあれ、大事にならずに良かったけど…、ネーリ」
「はい…。わたくしがついていながら、申し訳ありませんでした。これからはもっと気をつけます」
「悪い人ではないのでしょうけれど、用心には用心を重ねた方が良いですからね」
幽閉の身であるネーリとレオニードが、思いがけず外部の人間と接触したことに、アデールは懸念していた。
兎にも角にも見張りのボリシェヴィキに落ち度を与えないよう、目立たぬよう息を潜めながら暮らすのが今の暮らしの中では安全に生き残る術である。何事も李下に冠を正さず である。たとえ悪い人ではなくても、なるべく外部の人間と接触しないに越したことはない。
〜〜〜〜
数日後ー
アデールはレオニードとネーリについてその場所へ行くことにした。
悪い人ではなさそうだった、とネーリは言っていたが、このご時世と今の自分たちの立場を鑑みて正体を探るー、というわけではないけれど、相手の素性を知っておいたほうかいい。
さりとて安易にこの村の人間に聞いたりするとそこから当局にどんな形であげ足を取られるか分からない。
色々な可能性を考えて、アデールはその場所にいつものように凧をあげに行くというレオニードとネーリについて行くことに決めた。
たとえ先日出会ったその執事の男に会えなくとも、彼が滞在しているという別荘から素性が分かるかもしれない。
いつもはネーリと二人なのに、今日は母親が付いて来てくれると分かり、レオニードは大喜びである。
「母上、今日は凧もきっとよくあがるでしょう。凧揚げはとても楽しいのですよ。母上にもあげさせてあげます」
「まぁ、ありがとう。レオニード」
「それから…今は綺麗な花が沢山咲いているのです。僕母上に摘んで差し上げます」
「まぁ、嬉しい。ありがとう。レオニード」
アデールを連れて二人がいつもの場所を訪れた。
それは林の中に少しだけ開けた草原で、瀟洒な別荘が並ぶ高台を見上げることが出来る。
「ネーリ、その男性が指した別荘は…どれ?」
「あれでございます」
小声で主人から聞かれたネーリがそれらの瀟洒な建物郡のうちの一つを指した。
「姫様…お分かりになりますか?」
ネーリの問いにアデールは首を横に振った。
革命前はしょっちゅう避暑にこの地を訪れていたアデールであったが、その邸は管理はされていたものの、ついぞそこに滞在する人間に遭遇したことはなかったのだった。
「そう…ですか」
「ただ…いつもきちんと管理されてはいたので…持ち主はいたはずだわ。…少なくとも昨年の革命まではね」
ボリシェヴィキが政権をとって以来、自分たちと同じような生活をしていた貴族、ブルジョアジーなどの旧支配者層の人間は、大方が海外へ亡命したか、捕らえられたか、或いは殺されたかのいずれかであった。今もなおこのようにヤルタに訪れることの出来る人間はほんの僅かである。
或いは、かつての支配者層から奪い取った別荘に訪れたあの革命の勝ち組か。
「…ネーリ」
「はい、何でしょう?」
「お前が会った…その執事らしき男性は…、どんな感じだった?つまりその…わたくしたちと、わたくしたちが今まで身近に接していたような種類の人間だったか…それとも」
持って回ったようなアデールの言い回しの意図を、ネーリは正確に汲み取った。
「ええ。…身のこなしや言葉は…間違いなくわたくしたちが昔から親しんでいた人間のものでございました。あの革命の勝ち組となった人間の中にも、わずかではございますが、わたくしたちと同じ階層だった人間もいると聞いております。きっとそういう現政権の幹部となった旧貴族の人間に仕えているのではないでしょうか」
「そう…」
確かに―。
旧支配である貴族やブルジョアジー出身の勝ち組は、僅かながらもいるにはいた。
秘密警察を率いて自分たちのような旧貴族を弾圧しているジェルジンスキー、女性ながらに閣僚となったコロンタイ、そして1900年の反逆事件で兄が処刑されている名門ミハイロフ元侯爵家の次男で現政権の中枢にいるアレクセイ・ミハイロフーー。
ミハイロフー
ふと、幼い頃の他愛のない出来事を思い出す。
当主だった父侯爵と、当時は皇后だったマリア・フョードロヴナ様の女官を勤めたこともあったという祖母に連れられ宮廷に伺候し、御前演奏の栄誉を賜った黒髪の利発そうな少年。
幼いながらに天才と称されたその貴公子のヴァイオリンに、余興としてピアノを合わせるように言われて、アデールは簡単な曲を彼と合奏したのだった。
才能と技能の差は月とスッポンというぐらい明らかなことは、幼いアデールにも充分理解出来、お粗末な自分のピアノが何とも気恥ずかしく気が進まなかったことを今でも鮮明に覚えている。
そして―。
そんな自分にも優しく合わせてくれたその少年貴族の幼いながらに紳士的な振る舞いも。
その何年か後に、その時の少年が青年になり、革命運動に身を投じ捕らえられて処刑された時には、あの時の優雅な幼い貴公子と中々結びつかず、少なからずショックを受けたものだった。
「…様、姫様」
ネーリの呼ぶ声に、ハッと取り留めもない回想から現実に引き戻された。
「おじさーん」
レオニードが向こうからやって来る男性に両手を振りながらピョコピョコと跳ねている。
「あの方です…。今日は主人の方…でしょうか?ご婦人連れですね」
小声でネーリが耳打ちした。
近づいて来るその二人の姿に、アデールの記憶のスイッチが、カチリと何かに反応した。
「あ!」
当時よりもかなり歳を重ね、老境に差し掛かっているが…!
往時の、まだ皇后陛下だった頃のマリア・フョードロヴナ様と楽しそうに談笑していた黒髪の上品な婦人の面影がピタリと重なる。
その婦人は遥か昔、アデールが一度だけピアノを伴奏したあの少年の祖母に違いなかった。