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​第七十一話

「マリアさん、事情は分かるけれども…このままではテレーゼがあまりに可哀想だわ。クリスマスぐらいは…どうにかそちらへ帰ることは出来ないの?」

電話口の向こうの、義母の言葉に、思わずマリア・バルバラが言葉をなくして押し黙ってしまった。

1917年春

レオニード・ユスーポフ侯爵に連れられて極秘裏に国外へ亡命したロマノフ家の第四皇女アナスタシアの身柄を預かるにあたり、秘密の保持と、万が一にも幼い娘に危険が及ばぬよう(事実その当時には、ロシアからの新旧勢力の諜報筋の人間がアーレンスマイヤ屋敷のみならず、蟄居中のアネロッテの屋敷の周囲でも活発に活動している形跡がまま見られた)、テレーゼを夫の実家のミュンヘンのラッセン家へ預けていたのだった。

年の割に大人びていて物のわかる聡い娘だったので、詳しい事情を話せずとも家の大事を悟り、親の意を汲んでミュンヘンの祖父母の元へ預けられたテレーゼだったが、なだけに、だからこそ親の前では決して見せなかった淋しさや孤独が積もりに積もっていたのだろう、秋を過ぎたあたりから、ひどく塞ぎ込むようになってしまった。

「テレーゼ、可愛いテレーゼ。爺と動物園に行かんかね?象も白熊もいて、それは楽しいぞ?」

祖父の誘いにも、

「おばあちゃまと冬のコートを買いに行きましょう?」

祖母の誘いにも、

「ううん。いい…」

と力なく首を横に振り、部屋にこもってしまう始末である。

〜〜〜〜

「そちらに会いに行くと、いつも元気そうにしていたから…、つい」

「あれはね、あの子なりに心配かけまいと必死にやせ我慢してるの。だってまだ10かそこらの子供なのよ?あなたが帰ったあと…部屋にこもっていつも泣いているわ。それに…まだあの子は気づいていないようだけど…」

朝の身支度を手伝っている女中からの報告をマリア・バルバラに伝える。

髪を結うために艶やかな黒髪を梳いていた時に発見した小さな白い地肌…。

「な!」

その事実にマリア・バルバラが言葉を失う。

「あの子の心はもう孤独と寂しさを受け止めきれずにいるの。身体が、「淋しい。お父さんとお母さんと一緒にいたい」って悲鳴を上げているの。…ねぇ、ユリアのお嬢さんも、ちゃんと事情を言って聞かせて、その外国の要人の方と接しているのでしょう?…テレーゼは聡い子だわ。あの子だって…ちゃんと事情を説明して言って聞かせれば分かる子よ。ねぇ、もう間も無く…あの子を預かって一年になるわ。このまま、いつまでこのような状態が続くのかも、なぜ自分がここに預けられているのかも分からないままでいるのは、あの子にとってあまりに酷だわ。…ダーヴィトと、それから、お父様ともう一度よく話し合って、あの子のこと、今一度考え直してあげて貰えないかしら」

「…そう…ですね。すぐに…夫と、それから父と話し合って…いえ、そんな悠長な事は言ってられません。わたくし、今からすぐにそちらへ伺います!」

「え?マリアさん?…もう最終列車!」

「自動車で伺います」

ーーチン!

電話を切るや否や、マリア・バルバラは外套を手に、車寄せに向かって走って行った。

〜〜〜〜

「テレーゼ!」

深夜近くのラッセン家の玄関ホールにマリア・バルバラの声が響き渡る。

「…ママ?」

二階の奥から、ガウンを羽織った夜着姿の娘が現れた。

突如目の前に現れた母親の姿に状況が理解できずに茫然と佇む娘に駆け寄り、マリア・バルバラがか細い身体を抱きしめた。

「テレーゼ!…ああ、テレーゼ!!ごめんなさい。淋しい想いをさせて…本当にごめんなさい!」

夢にまで見た母親の温かい懐に包まれたテレーゼが「ママ…どうして?わたし…大丈…」といつもの強がりを言いかけて言葉を詰まらせる。

「…!」

声にならない娘の言葉を「何?どうしたの?」と屈んで耳を傾けたマリア・バルバラに

「会いたかった!淋しかった!ママ!!ママ!!!」
ーーわあぁん…!!

と、これまで溜めに溜めていた感情がとうとう爆発した。

大声を上げて泣きじゃくりながら母親にむしゃぶりついてきた、娘の震える小さな背中を「ごめんね…ごめんね…」と、マリア・バルバラはいつまでも撫で続けていた。

〜〜〜〜

「さあ、ママももう休むから、あなたももう休みなさい」

寝室の支度が整ったと女中が報せに来たのを機に、娘に寝室へ戻るよう促すが、テレーゼは首をフルフルと横に振りながら、母親のドレスの裾をキュッと握りしめた。

「テレーゼ…」

母親と少しも離れまいとキュッとドレスを握りしめた娘の白い拳に愛おしさといじらしさがこみ上げてくる。

「分かったわ。今日は…一緒に休みましょう。ベッド…ちょっと狭いけど、いいかしら?」

母親のその素敵な提案に、テレーゼの顔が輝く。

片時も離れまいと母親の身体にしがみついた娘の肩を抱いて、マリア・バルバラは寝室へと下がって行った。

その日、母親の温かい懐と匂いに包まれて、久方ぶりにテレーゼは涙を流さずに眠りについたのだった。

〜〜〜〜

翌朝ーー

「今日はママとクリスマスマーケットに行くの!」

昨日とはまるで別人のように溌剌とした声でそう告げたテレーゼに、

「なんだなんだ!爺があれほど誘ったのに「ううん。いい…」なんてつれない返事してたのは、どこのどいつだ?」

大袈裟におどけてラッセン氏が孫娘の両頬を両手で挟んで押しつぶす。

「ごめんなさい〜。おじいちゃま。だって…」

「ホホ…。元気になって、あなたの笑顔が見られて本当に良かった。行ってらっしゃい。お母様と。今までの分も存分に甘えてらっしゃいな」

「おばあちゃま…ありがとう。心配かけて…ごめんなさい」

「いいのよ。子供はもっと…わがまま言ってもいいのよ。さ、楽しんでらっしゃいな」

ーー行ってらっしゃい。

昨日までの気鬱が嘘のように溌剌さを取り戻した孫娘とキスを交わし、出かけていく二人を祖父母が見送った。

〜〜〜〜

ーーマリア、君がミュンヘンへ行った後に、親父様と話し合ったよ。あの子をこの屋敷へ戻すのに…不安がないわけではないが、なぁに、リーザだって無事に過ごしているんだし、なんと言ってもあの子は賢い子だ。僕たちが危険をよーく言って含めれば、軽率な行動は取らないだろう。…テレーゼを信じて、あの子を家に戻してやろう。あの子だって…このアーレンスマイヤ家の一員なんだ。僕らも…肚を決めよう。

その日の夜、ダーヴィトから電話がかかって来た。

「ええ。そうね。わたくしも…あなたと同じことを言おうと思っていたところよ。異論はないわ。明朝、テレーゼと一緒にレーゲンスブルク へ帰ります」

〜〜〜〜
「テレーゼ!ああ、会いたかったよ。僕のプリンセス!!」

翌日、一番の列車でダーヴィトが二人を迎えにわざわざミュンヘンまで訪れた。
(しかもわざわざ講義を休講までして)

「パパ」

玄関ホールで父と娘が固く抱きしめ合う。

「…パパの匂い。コロンと…タバコの…」

抱きしめられた父親の懐の中でテレーゼが大きく深呼吸をする。

「ん〜〜。テレーゼ、僕の可憐な白い小鳩!」

そう言ったダーヴィトに頬ずりしされたテレーゼが甘い悲鳴をあげた。

「パパ、お髭が痛いよ」

〜〜〜〜

「父上、母上、理由も聞かずに長いこと娘を預かって、大事にしてくれて、本当にありがとうございました。危険から遠ざけるためとはいえ、今回はあまりにもあの子の気持ちを軽く捉えすぎていた…あの子の強さに甘えていたことに、僕ら大人一同心から反省しました。僕たちも、きちんと話し合って覚悟を決めました」

「うん…。そうか。ならばいい。また手助けが必要な時はいつでも言って来なさい」

「良かったわねえ、テレーゼ。お家に帰れて。…でもたまにはミュンヘンにも遊びに来てね。そうだ!今度はリーザも一緒にね」

「はい!今度はリーザも一緒に伺います。おじいちゃま、おばあちゃま、その時は、リーザも一緒に、動物園に連れて行って!」

「おお。それは楽しみだ。暖かくなったらリーザとおいで。待ってるよ」

ーーありがとう、おじいちゃま、おばあちゃま。…大好きよ。

最後は涙涙で祖父母と抱き合いキスを交わし別れを告げると、テレーゼは数ヶ月ぶりにレーゲンスブルク へと帰って行った。

〜〜〜〜

「初めまして。あの…」

「テレーゼ、こちらはフロイラインとヴェーラさん。ロシアから来た大切なお客様たちよ。…ロシアで大変な出来事があったことは、あなたも知っているわよね?」

母親に離れの住人に引き合わされる。

母親の言葉にコクリとテレーゼが頷いた。

「ヴェーラさんはね、侯爵の、レオニードさんの妹さんでいらっしゃるのよ。フロイライン、ヴェーラ。改めて紹介します。わたくしの娘のテレーゼです」

母親に引き合わされたテレーゼが、いつもの聡明そうな笑顔で応えた。

「ダーヴィトとマリア・バルバラの娘の、テレーゼと申します。初めまして。そして遅くなりましたが、ようこそ我が家へ。どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」

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