第七十話
「ア…アレクセイ!?お前、生きていたのかえ、生きていたのかえ!あぁ、良かった。わたくしのアレクセイ…」
1917年夏。
臨時政府に弾圧をかけられ逮捕状が出て以来行方不明となっていたアレクセイが人目を忍んでミハイロフ屋敷へひょっこりと現れた。
「お祖母様。ご心配をおかけ致しました。今日はお祖母様にこれからのことと、それから一つお願いを…」
いつもの老人の変装の目深に被った帽子とつけ髭の間から若々しい鳶色の眼差しを向けたアレクセイに、
「ええ、ええ…。聞きましょう。こんなところで立ち話もなんですから…。なんですか、こんなにやつれてしまって。オークネフ、すぐに何か食事の準備を…」
ヴァシリーサが孫のつけ髭に隠され削げた頰に優しく手を添えると、政敵の捜査網から逃れながらも寝食を惜しんで方々を奔走して回っていだのであろう孫に、何か少しでも振舞ってやろうと、食堂へ案内した。
「これから益々社会は混乱を来たします。すでに暴徒と化した民衆は裕福な貴族や羽振りの良いブルジョアジーの邸宅を襲い、略奪行為が日常となっております。そしてそれを取り締まる警察や軍も機能を失い、事実上無政府状態となっております。落ちぶれたとはいえ民衆がこのミハイロフ屋敷へも追い剥ぎ行為をしに来ないとは限りません。今ならば庶民に身をやつして混乱を避け、このサンクトペテルブルクから脱出することも出来ます。…これ以上この街が危険な状態になる前に、すぐにでも都を離れて下さい。どこか、どこか郊外で身を寄せるところはありませんか?」
孫の突然の避難勧告に、ヴァシリーサがオークネフと顔を見合わせる。
「身を寄せる…と申しましても。当家は1900年の反逆事件で全ての領地を没収されておりますので…」
「どこでもいいんだ。どこか…どこかないのか?ペテルブルクから遠く離れても、何ならばお祖母様の実家の筋の、キエフはどうだ?」
「そう言われましても…」
その時アレクセイとオークネフのやり取りを、押し黙って何か考えるように聞いていたヴァシリーサがおもむろに口を開いた。
「クリミアならば…クリミアのヤルタならば、ミハイロフの所領ではなく、わたくし個人が実家の叔母から譲られた別邸がありますが。そこでもいいかえ?」
「奥様?」
きっと全く預かり知らない話だったのであろう、目を丸くしたオークネフに
「わたくしのことを可愛がって下さっていた叔母が遺産としてわたくしに避暑地の別荘を残してくれていたのです。そのまま実家の縁のものに管理してもらっていたので、ミハイロフ家の台帳にも載っておらず、1900年の折にも没収を免れたのです。…なんだか隠し財産のようで後ろめたかったし…実際ここからは遠く離れているので、わたくしも譲られたものの一度も利用したことはなく、今の今まで記憶の底に埋もれていたのですが」
「そうですか…。遠いな。でも…。お祖母様、そこへすぐに移ることは出来ますか?」
「毎年管理報告書は送られてきますが」
「それを見せてください」
祖母から手渡された書面をアレクセイとオークネフが頭を付き合わせて改める。
「うん…」
アレクセイの短い一言にオークネフも頷いて同意する。
「オークネフ。すぐここに連絡を取って近日中にここへお祖母様と移る準備を。お祖母様、なるたけ地味な目立たない服装で、列車で移動した方がよろしいでしょう。しんどいとは思いますが、どうか耐えて下さい。オークネフも、お祖母様を頼む」
「分かりました。ではわたくしは早速この屋敷を離れる準備に…」
「それから!」
慌ただしくサロンを出て行こうとするオークネフを呼び止める。
「?」
足を止めて振り向いたオークネフとヴァシリーサにアレクセイは背負ってきた袋の中から黒い革ケースを取り出した。
「これを…どうかこれを今一度預かっていて欲しいのです」
「これは…」
「ドミートリィの、父上の、ストラディバリウスです。これをどうか。済まないオークネフ。余計な荷物になってしまうが…」
「何故…?お前が、お前がこのまま持っていれば…」
ヴァシリーサの言葉にアレクセイが無言で首を横に振る。
「僕に逮捕状が出ているのは…お祖母様もご存知でしょう?これは大切な大切な楽器です。高価なだけでなく、父の、ドミートリィの愛器だったかけがえのないものです。だからこそ、信頼して託せる人にこれを保管していてもらいたいのです。それに…先程言ったようにこれは大変高価な楽器です。しかるべきところで処分すれば相当な資産になるはずです。だから…」
「だから…なんなのですか?わたくしに、これを処分して手元不如意な時の生活の足しにしろと?わたくしに…このわたくしに、この大事なかけがえのないヴァイオリンを処分させると…お前は言うのかえ?…断固断ります!この老いぼれに…しかも落魄したとはいえ元侯爵夫人だったこのわたくしに!そのようなことを託すなど、厚かましいにもほどがある!」
「お祖母様…」
アレクセイの頼みを毅然とはねつけたヴァシリーサの強い口調に、アレクセイが下げた頭を上げ、祖母を見つめる。
「生活は逼迫していても、お前にこれからの暮らしを心配してもらわずとも、十分にやって行けます!はぁ…わたくしも…落ちたものだよ。こんなヤクザな稼業に入れ込んだ不肖の孫に心配されるとはねえ」
「な、なんだよ!…人がせっかく心配してやりゃ」
「だから、その心配が…余計なお世話だと言うのです。お貸しなさい。そのヴァイオリンを。これはわたくしが責任持って保管しますので、お前は心を残すところなく、お前の信じた道を邁進なさい。…もう少しで、お前が人生を費やした、そしてドミートリィが命を捧げた宿願が叶うのでしょう?わたくしの立場からすると…お前たちの信念や思想は…正直受け入れがたいものがありますが、ここまできたら悔いなく行けるところまで走り抜きなさい。わたくしは…いつか国が安定してお前がこの楽器を取りに来るまで大事にこれを保管して…待っておりますから」
「…くたばんじゃねぇぞ。ばばあ」
「誰に言っておくれでかい?…その言葉をそのまま返しますよ。この青二才」
アレクセイの憎まれ口を、悠然と返すこの気丈な老婦人に、アレクセイが再び愛器を託す。
「確かに預かりましたよ。オークネフ。何をおいてもこれを一番優先にしておくれ」
「かしこまりました」
ヴァシリーサの手からヴァイオリンがオークネフの手に渡る。
「ぼっちゃま…どうか、どうかご息災で」
「オークネフ。お祖母様を…よろしく頼んだぞ」
老執事に唯一の身内である祖母のこれからのことを託すと、夕闇に紛れ再びアレクセイは騒乱の市内へと消えて行った。