第六十九話 Ⅰ
「それでね。今度ダンスパーティーをする事になったの。フロイラインの要望を汲んでね」
「へぇ。そうなの」
ヴェーラは兄の会社のマネージャーであるシフの助けを借りて、レオニードが故国から持ち出したユスーポフ家の資産の目録作成に着手していた。
その際に先日のテニスの話が話題に上る。
「あの子も、それからボスも負けず嫌いだからなあ。そりゃ盛り上がったでしょう」
「うふふ…。ええ、そりゃもう。兄があんなに感情を丸出しにして、ムキになっているのを、わたくし初めて見たわ。それから…あんなに狼狽えてるロストフスキーもね」
「ハハ…。あなたは初めて見たかもしれませんが、こちらではしょっちゅうですよ。ボスとユリウスがヒートアップして、そこに仲裁に入ったロストフスキーさんが「うるさい!」ととばっちり喰らうのは。まあ、故国では侯爵としての体面もあったでしょうからね。色々感情を抑えていたところもあったのでしょう。…結構あの人感情豊かで熱いひとですよ」
「ええ。それはわたくしもよーく知ってますわ。…兄は決して氷なんかじゃない」
「そうですね。それは…僕が言わずもがなだ」
「兄やロストフスキーがあんなに生き生きと感情を露わにして日々を過ごしているのを見るにつけ、こんなことをいうのは不謹慎かもしれませんが、ああ、生きてあの国を逃れて、ここへきて良かったのだ…と実感します」
「不謹慎ではありませんよ。生きたい、生きよう、と意思が働くのは生物としての本能です。災厄から逃げる能力は、生物としての強さですよ」
「そうかしら…。そう言って頂けると…少しは慰められますわ。…でも生物としてなんとか死地を逃れたから、今度は人間としてこれからどう生きていくべきか…そろそろきちんとわたしくしたちも向き合わなければ」
「まぁまぁ。だから今あなたはこれからを生きるための大きな動力源となる資産をこうして、仕分けしてリストアップしているのではないですか。…これも次のステップへ進む大切な準備ですよ。じっくりとぬかりなく…腰を据えてやっていきましょう」
「…そうね。ありがとう。あなたには、通常業務の時間外にこうしてアーレンスマイヤ屋敷に足を運んで下さって…本当に感謝に堪えません」
「それは気にしないで下さい。きちんとこれはこれでボスから報酬を頂いてますし、それに僕は独りものだから時間はまるごと24時間自分のために使えるのです。お気になさることは一切ありません」
「そう言えば、あなた、この目録作成以外にも、アニエスとフロイラインの家庭教師もしているのですって?」
「ええ、まあ。フロイラインは外部の人間と接触するのNGなのでしょう?だけど…勉強は続けたほうがいい。絶対に。彼女が学業を続けるために僕が役にたてるのならば、可能な限り骨をおりますよ」
「…それは、信条?あなたの」
「それって、どれ?」
「学業を続けた方がいいということ」
「ああ。…そうかもしれないね。僕はご存知の通り、ユダヤ人だから。僕らユダヤ人は何年もかけてコツコツと積み上げて蓄えてきた財産や実績を今日身ぐるみ剥がれてしまう理不尽を歴史上何度も体験してきた。…だからこそ、身につけた学問や技能知識は何者にも奪うことが出来ないという事を見に染みて知っているのかもしれないね。フロイラインも暴力的で理不尽な大きな力で命以外の全てを奪われる経験をしてきた。だからこそ、これから学問と知識を身につける大切さを知ってほしいと思う」
「そう…。フロイラインは幸せね。こうして道を示してくれる師につけて」
「そんな大層なものじゃないよ。僕にだってそうやって進むべき道を示したくれた諸先輩がいた。だから今僕はその時与えられたものを次の世代に返しているだけだ」
「そうなのね。フロイラインとアニエスが羨ましいわ。そうやって女性も新しい時代にふさわしい考えと知識と技能を身につけて、広い世界へ飛び出して行けるのだもの」
「君だって飛び出して行けばいいじゃないの。…何も尻込みすることはないと思うよ」
「…わたくしが?」
「ああ」
意外なことを提示されたというような顔で見つめてくるヴェーラにシフが大きく頷く。
「何て顔してんだよ。そんなに変なこと言ったかい?…実際ここの、レーゲンスブルグの女性たちは皆中々勇ましいものだぜ?この家の、アーレンスマイヤ姉妹を始め、大病院を経営しているカタリーナさん、それからキッペンベルク商会の奥様方、大のつく方も若のつく方も中々のやり手だし、あと…そう!あのイザーク・ヴァイスハイトの妹嬢も、優秀な学力で奨学金を勝ち取って学び、手に職をつけてウィーンでバリバリ働いているようだし」
「…そうなの」
「だからかな。この街の女性は絶好のモデルケースが身近にあるせいか、中々意識が進んでるよ。自立志向も高くて若い女性も皆勤勉で意欲的だ。僕らの会社に勤めている女性社員も皆優秀だよ。アニエスも、税理士と会計士を目指して今猛勉強中だし、その姿に刺激されてフロイラインもだいぶ意識改革を促されたようだね。取り組みが俄然変わってきた」
「…なんだかわたくし…すごい出遅れた感が。焦るわ」
「焦ることなんてないさ。今与えられた仕事に向き合ってしっかり片付けて行けば、自ずと次の道が拓けてくるんじゃない?近視眼的になるのも良くないが、足元が疎かになるのも危険だよ」
「そうかしら」
「そうさ」
「あなたと話していると…あなたの話を聞いていると…モヤモヤとした先の見えない霧がパッと晴れて、行くべき道がクリアになって来る気がする」
「少しでもあなたの不安や迷いを解消できたのならばよかった。こんな他愛ない話で気持ちが前向きになるのなら、いつでもお役に立ちますよ」
「本当に?」
「ええ」
「…では、おしゃべりでははなくて…ダンスだったら、どうかしら?」
「え?!」
「先程言ったでしょう?フロイラインがテニスに勝利した報酬で、ダンスパーティーが開かれると。女性に対して、男性が足りないから…。明日兄からあなたとドルジェフさんに招待状を渡す予定だったのだけど…」
ーーあなたには今日わたくしが会うから…と。
そう言ってヴェーラが招待状をシフに手渡した。
「…シフさんはダンスは…?」
「士官学校仕込みのボスたちほどではないけれど、踊れるよ。光栄だな。お招きありがとう とフロイラインに伝えて下さい。喜んで参加いたします」
「よかった」
…私はもうずっとダンスなんて踊っていなかったから、これからステップをさらっておかなきゃ。
ヴェーラが少女のように微笑んだ。