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第六十七話

初めて会った時とあまりに印象が違っていたので、最初はこの目の前の彼女が、あの彼女だとは分からなかった―

 

マイエル・シフがレーゲンスブルグで再会したヴェーラ・ユスーポヴァに抱いた感想だった。

 

 

 

合弁会社の社主の一人である元ロシア帝国侯爵レオニード・ユスーポフが、妹を伴って出勤して来た。

 

「なんだってオフィスを見たいなどと…。シフを屋敷へ派遣させるというのに」

 

「いいじゃありませんか。わたくしだって…お兄様の立ち上げた会社を見てみたいのです。それに…フフ。通勤というものも一度経験してみたかったのですわ」

 

そう言ってくるりと兄の方を振り向き茶目っ気たっぷりな笑顔を見せる。

 

そんな妹に

「…お前にそんな酔狂な一面があるとはな」

 

とレオニードがため息と共にぼやいた。

 

「まぁ!ひどい仰いよう。でも邪魔にならないよう会社を見せて頂いたらすぐに帰りますわ」

 

「勝手にしろ。…ユリウスに言ってあるから社を案内してもらえ」

 

「ありがとうございます」

 

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「おはようございます」

 

オフィスに入ると社員一同が仕事の手を止め立ち上がりレオニードに挨拶をした。

 

「おはよう」

 

 

社長室へ入って行ったレオニードを追ってヴェーラもそれに続く。

 

「Доброе утро(おはようございます)」

 

社長室では既にロストフスキーが勤務に入っていた。

 

デスクから立ち上がると素早くレオニードの鞄と上着、帽子を受け取る。

 

「今日の予定は?」

 

「10時より移転業務の件でシフとミーティングです。それからこちらに残す現地子会社のシフの後任の顧問税理士の人選を…」

 

「うむ。そうだったな」

 

ロストフスキーが予めデスクに並べて置いた新聞各紙に目を通しながら彼の報告に耳を傾ける。

ロストフスキーも今日の予定と今後の検討事項をレオニードに報告しながら、サモワールで沸かした紅茶を注ぎ、レオニードと、それから応接スペースに掛けたヴェーラの前にそつなく供する。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう…」

 

― コンコン

 

「失礼します」

 

書類を手にしたユリウスが社長室へやって来た。

 

「今日のミーティングの資料、用意しておきますので」

 

会議テーブルに手早くミーティングの資料を並べて退出しようとしたユリウスにレオニードが声をかける。

 

「ユリウス」

 

「はい?」

 

「すまぬが、ヴェーラにオフィスを案内してやってくれ」

 

「分かりました。行こう、ヴェーラ。オフィスを案内するよ」

 

「ええ。ありがとう」

 

二人が連れだって社長室を後にした。

 

 -----------

 

「さっきの部屋が社長室。レオニードの部屋だね。レオニードは出勤すると大抵あそこの部屋にいる。秘書を務めるロストフスキーさんもね」

 

― で、ここがぼくらのオフィス。

 

「シフさん!」

 

ユリウスがシフに声をかける。

 

「彼女、ヴェーラ・ユスーポヴァ嬢。レオニードの妹さん。ヴェーラ、こちらがシフさん、この会社のマネージャー。この会社を立ち上げた時にレオニードがロシアからヘッドハンティングして連れてきてくれたんだ」

 

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「シフさん、こちらヴェーラ。レオニードの妹さん」

 

ユリウスに紹介されたその女性が、ずっと以前ー、もう革命が起こるかれこれ10年以上前に故国の社主の屋敷に招かれた折に、たった一度だけ顔を合わせた筈のその女性と同一人物だと、不覚にもシフは全く認識出来なかった。

 

「初めまして」

 

その言葉から挨拶しようとしたシフを、ヴェーラは朗らかな笑顔で遮った。

 

「あら、いやだ。…初めまして ではありませんわ。わたくしたち」

 

その言葉に、シフは一瞬ののちに言葉にならない「あっ!」という声を上げた。

 

「ホホ…。思い出してくださいました?」

 

あの時

渡独する前に一度だけ招かれて訪れた侯爵家の屋敷で、侯爵の傍らに控えめに侍していた理知的な面差しの―!
ああ、言われてみれば確かに!!だが人はこんなに印象が変わるものなのか?

 

かつての、自分が以前に会った時の彼女は、優雅なロングドレスに、長い黒髪を背中に垂らしたいかにも貴族の令嬢と言った出で立ちだった。慎ましやかに目を伏せ、言葉少なく名乗った声は本人の気質を良く表した思慮深げで落ち着いた声音だったが、それはロシアの鈍色の曇り空と相まって、少し陰鬱な響きにも感じた。

 

何よりも彼女の、美しく整っているがふと見せるどこか思いつめたような瞳の色と表情がシフの印象に何よりも強く残っていた。

 

当時のロシア、そしてユスーポフ家は色々懸念事項も多かったから、まだうら若い娘とてこのような晴れない表情になるのは致し方ないものなのか…とシフはその時彼女の思いつめたどこか暗い影を宿した面差しに僧納得づけたのだった。

 

対して今の彼女は、ロングドレスを今風の身体に沿った細身のシルエットのドレスに、そして以前は背中に流れていた長い髪は軽快なショートヘアになり、そのためなのか昔とは比べ物にならないぐらい溌剌とした明るい印象を受けた。

モスグリーンのシンプルなベルベットのドレスから伸びるしなやかな膝下のラインが美しい。

 

垢抜けて洗練され、何よりも理知的な面立ちはそのままに、明るさと華やぎが加わった彼女は今が盛りとばかりに咲き誇る花のようだった。

 

何よりもあの頃纏っていた思いつめていたような陰鬱さが、禊を落としたように消えて無くなっている。

 

「わたくし、そんなに変わりまして?」

 

「これは…とんだ失礼を。ええ。とても…。確かに顔立ちは同じだが…はて、自分が以前出会ったのは、もう一人妹御がいらしたか…それとも、ボスの姉上だったのか?と、混乱しましたよ」

 

「まあ!!姉?わたくしが?兄の?」

​シフのその言葉にヴェーラの声がワントーン上がる。

「これでもわたくし、ユリアと歳はそう変わらなくてよ。いやだわ。あの頃のわたくし、そんなに老けて見えまして?」

 

黒い瞳を瞠ってシフを軽く睨みつける。

 

「ええ。…あ、失礼!決して老けていたなどと。…えっとですね。つまり…そう!今のあなたの方がよほど、若く見える ということです。溌剌として快活で」

 

「…それって、やはり当時のわたくしはだいぶ老けていた ということではございません?…でも、ええ。そうかもしれませんわ。わたくしあの頃…酷く浮かない顔をしていたかもしれませんわ。…一度きりの娘ざかりの一番いい頃をあんな浮かない顔をして過ごしていたなんて…今思うと勿体ないことをしましたわ」

 

ヴェーラがあの頃の自分を振り返る。

デモやテロの横行していた社会不安に加え、義理の姉との不和。そして初めての恋の末路…。

 

「まあ、いいではないですか。…私はね、自慢じゃないが一度見た人の顔というのはまず忘れないのですよ。いくら髪や服装を変えてもね。…それがあなたに関しては全く、分からなかった。以前会ったあなたと、今のあなたが同一人物であると、これっぽっちも繋がらなかった」

ーーおかげで私はこんな魅力的な婦人を前に二度も「初めまして」などと言う無粋な真似をしてしまった。

 

そう言ってシフは大げさに肩をすくめてみせた。

 

「ふふ…。わたくし、家とか、侯爵令嬢とか、先祖の栄典とか…それから…色々なもの、背負ってきたもの全部、きっと故国に置いてきたのですわ。だから案外あなたが今日会ったヴェーラ・ユスーポヴァという人間は、あなたがかつて会ったヴェーラ・ユスーポヴァと、同じであって同じではないのかもしれませんわね」

 

「そうですか。ではやはり初めまして だ。今後ともよろしくお願いします。フラウ ヴェーラ・ユスーポヴァ」

 

差し出された握手の手を握り返す。

 

「こちらこそ宜しくお願い致します。兄から、あなたに協力して貰ってユスーポフ家の資産目録を作成するよう命じられましたので。頼りにしています」

 

「お任せ下さい」

 

握手を交わしている二人に、シフの秘書であるドルジェフが割って入った。

 

「マイエル!ミーティング五分前だ!社長室へ急げ」

 

その声にシフが壁の時計に目をやった。

 

「おお、そんな時間か!すぐ行くと伝えてくれ。…やれやれ、この会社は、ボス始め、秘書のロストフスキーさん、そしてドルジェフと、元軍人が多いせいか、やたら時間にうるさい。…「ミーティングの時間」ではなくて「ミーティングの五分前」ですよ?」

ーーならば、いっそのことミーティングの時間そのものを五分前に定めればいいんだ!

 

ブツブツ言いながらシフはミーティングへ向かうためにデスクの上の自分の手帳やら万年筆やらを取りまとめて抱え

 

「じゃあユリア。まぁ大して見るところもないがヴェーラ嬢に社内を案内してやってくれ。ヴェーラさん、ではあなたの任された仕事に関しましては、また後日、アーレンスマイヤ屋敷へ伺うことにしますので」

ーーではごゆっくり!

 

とユリウスとヴェーラに言い置くと、自分は慌ただしくオフィスを後にして行った。

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