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第六十六話

​¶ 第二章 ¶

ーーここは…?

深い眠りについていたヴェーラが目を覚ます。

ズキズキと鈍く痛む頭を軽く押さえ、周りを見渡す。

天蓋付きの柔らかなベッド。

肌触りの良い夜着に包まれた自分が、苦難の旅の果てに漸く目指したアーレンスマイヤ家に辿り着いたことを思い出す。

ーーあ…。

案内されたこの離れで、お湯を振舞ってもらい旅の汚れを洗い流して、それから…。

ーーコンコン…。

「はい。どうぞ」

「失礼致します」

新しい水差しを持って、黒髪の小柄な使用人の女性が部屋へ入ってきた。

やや童顔で可愛らしい印象であるが、キビキビとした動作は見ていて気持ちがいい。歳は自分と大体同じくらいだろうか。確か、名前はゲルトルート 。この離れの家政を一手に引き受けていると紹介された…。

「疲れはだいぶ取れましたか?体調はいかがですか?」

「ええ…おかげさまで。私…どのぐらい…」

「三日、三日の間、よーく眠ってらっしゃいました。お嬢様とフロイライン、あ、プリンセスアナスタシアもとても貴女のことを心配してらしたので」

ーーコンコン…。

言ったそばからノックの音の後にこの屋敷の末の令嬢である、ユリア・フォン・アーレンスマイヤが入ってきた。

「お加減はいかがですか?…改めて初めまして。ユリアです。この離れのお世話を任されているので、なんでも私かゲルトルートに申し付けてくださいね」

目の覚めるような美しい金髪をゆるやかなアップヘアにまとめた輝くような美女である。
歳は…やはり自分と同じか…若しくは少し下だろうか。

「フロイライン…あ、今はそう呼んでいるのだけど、プリンセスアナスタシアも、あなたのことをとても心配していたよ。…どう?食堂に降りて来られる?それともまだこちらに食事を運びましょうか?」

「…大丈夫です。行けます」

ゆっくりとベッドから立ち上がったヴェーラに、ガウンを羽織らせる。

「身支度を手伝いましょうか?」

「ええ、ありがとう。…でも一人で大丈夫ですわ」

「そう。このお部屋にあるものは自由に使って下さいね。クロゼットにドレスが入っています。マリア・バルバラ姉様のドレスだけど。あなた背格好がマリア・バルバラ姉様に近いからぼくのドレスよりも合うかなと思って。午後に外商がドレスを持ってくるからそれまで申し訳ないけどそのドレスを着ていて貰えますか?」

「そんな…。そんなことまでして頂くなんて…」

至れり尽くせりの待遇に戸惑うヴェーラに

「請求書は全部こちらへ回してくれ。妹とそれからフロイラインに似合うものをいくらでも見繕ってやってくれ と、レオニードからお墨付きを貰ってるからね。楽しみだなぁ。あなたやフロイラインみたいな美人のドレスを見立てるなんて…。じゃあ、身支度が済んだら食堂に来てね。待っているから」

歌うようにそう言うと、ユリウスはヴェーラの部屋をひとまず後にして行った。

皇帝一家の財産を預かって来た因縁の深いこの旧家の美しい令嬢。
そしてー
兄をレオニード と呼ぶ彼女。

同年代の女性が兄を名前で呼ぶのを、ヴェーラは元妻であったアデール以外に知らなかった。
異国ドイツでの、兄をとりまく世界と、自分の知らない兄の一面。

それらに幾分かの戸惑いも感じなくはなかったが、ヴェーラはこの異国での兄を、あるいは本来彼が持っていた気質であったのかもしれない彼の纏っている優しい空気を、好ましいと思ったのだった。

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洗面を済ませ、ドレッサーの前にかける。
落ち窪んだ目の下にまだうっすらとクマは残っているものの、よく寝て心身を休めた為か、顔色は驚くほど良くなっている。

薄く白粉を叩き、この数ヶ月の苦労で削げてしまった頰に少し明るめの紅を掃き、口紅を丁寧に引く。男装するために短く切ってしまった髪を丁寧に梳り、以前は切下げにしていた前髪を軽く上げて額を出してみる。心なしか表情が少し明るく生き生きしてきたように思える。

 

「…少しは見られるようになったかしら」

鏡に映った姿に、ヴェーラは小さく微笑んで見せた。

クロゼットのドレスはオレンジと茶のジャガード模様のストンとした今風のシックなワンピースドレスだった。
コルセットを締める必要がないので、他人の手を借りず、一人でも容易に着ることが出来る。

スカートからあらわになったふくらはぎに、一瞬心許なさを感じたが、姿見に映すと我ながらスカートの裾から覗くスラリとした足のラインが、美しい。
やや骨っぽく長身で、義姉だったアデールや幼馴染の公爵家の姉妹たちー、アントニーナやアナスタシアらに比べると女性らしい柔らかさに欠ける身体つきが娘時代はコンプレックスだったが、直線的なラインの、スカート丈の短いこの簡素な新しいスタイルのドレスは、自分の直線的な身体つきに殊の外良く合っていると思った。甘さのないドレスのシャープなシルエットは、ショートヘアにも良く似合う。

鏡に映った全く新しい自分に、ヴェーラは大きく頷いてみせた。

何も持たずに身一つで祖国を出てたどり着いた今の軽さを、ヴェーラは初めて心地よい と感じた。

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食堂に入ると、今はフロイラインと呼ばれているらしいプリンセスアナスタシアが既に着席していた。

もうここでの暮らしにすっかり慣れたようで、落ち着いた穏やかな表情をしている。肩の少し上で綺麗にセットされた栗色の髪と、少女らしい白くふっくらとした頰を朝の光が柔らかく照らしている。

ヴェーラを認めたプリンセスアナスタシアが声をかける。

「おはようございます。もうお身体は大丈夫ですか?」

革命で国を追われたとはいえ、有難くもプリンセスから直々に自分の身体を労わる言葉をかけて頂き、ヴェーラが畏まってこうべを垂れる。

「勿体無くも有り難きお言葉を賜り、恐縮至極に存じます」

「お顔をあげて下さい。…わたくしはもう、プリンセスでは有りませんので。…ですから、あなたの主君でもないのですから…」

「でも…」

そうは言われても…と、戸惑いながらテーブルの傍に侍しているユリウスに視線を向ける。

「今ここにいるのは、プリンセスアナスタシアではなくて、フロイライン。ただの16歳の女の子だよ。…そりゃこれから…どうなるかは分からない。ことによれば再び王党派が盛り返して彼女は再びプリンセスアナスタシアを名乗ることもあるやもしれない。…でも、少なくとも今はただのフロイライン。だよね?」

少し戸惑ったヴェーラの視線を受けたユリウスが、そう答えてにっこりとプリンセスアナスタシアに同意を求めた。

プリンセスアナスタシアもまた、ユリウスの言葉に笑顔で大きく頷いてみせる。

「このお屋敷の方たちは皆さんとても親切で良くして下さいますが、同じロシア人のあなたが、…同じ言葉で物を考え、同じ信仰を持っているあなたがそばにいてくれて、これほど安心することはありません。これから仲良くして頂けますか?」

愛らしい声で語られるこの少女の真摯で健気な言葉に、「ええ。ええ。もちろんですわ。わたくしたち、きっと互いを支え合って、…仲良くやっていけると思いますわ」とヴェーラは声を詰まらせながら答えたのだった。

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