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第六十六話

秋のある日、一人の客人がアーレンスマイヤ家を訪れた。

「突然の訪問、すみません。ここに…ユスーポフという人間が滞在しているはずなのですが」

その客人は、ごくありふれた毛織物のスーツの上にコートを羽織り、手にボストンバックを提げた旅装をしていた。

一人の男性 とも 女性 とも言えなかったのは、正直この目の前の訪問者が、男性のか女性なのかがイマイチ判然としなかったからだった。

確かに紳士服を身につけ短い髪の、標準的な男性の出で立ちではあるが、全体的な線の細さや髭のないつるりとした肌の質感、そして何よりも先程発した声は男性というには明らかに違和感を感じるものがあった。

目の前のその人間はひどく緊張しているようで、応対に出た執事の事を息をのんで見つめている。

「中へどうぞ。お入りくださいませ」

執事がその不思議な風貌の客人を屋敷内へと通した。

程なくしてアーレンスマイヤ家から連絡を受けたレオニードが息をせき切って屋敷へと戻ってきた。

「その客人は…、ヴェーラ、ヴェーラ・ユスーポヴァと名乗ったのだな?」

サロンで客人を待たせ、戻ってきたレオニードと最初に応対した執事、それからユリウスの三人で声を潜めてことの経緯を確認する。

「ええ。その通りでございます。でも侯爵様からは30ぐらいのご婦人と、それから20歳ぐらいの青年の二人連れ とお伺いしていたもので、ヴェーラ・ユスーポヴァとは名乗られましたものの…その…」

「その方はお一人で、しかも男装していたんだ。で、執事はぼくに判断を仰いだ。そしてぼくはあなたに…」

「そうか…。分かった。会おう」

レオニードがサロンへと向かった。

サロンへ入ってきたレオニードの姿に、その人物は弾かれたように腰を浮かす。

「…」

感慨で言葉にならないようだった。
ロシア語で小さく呟いてるその客人にレオニードはつかつかと大股で近づき、彼、いや、彼女を強く抱きしめた。

「ヴェーラ…。よく来た。…よく生きて…ここへ辿り着いた」

やはりその客人は…、ユスーポフ家の長女で、レオニード・ユスーポフ侯爵の妹御、ヴェーラ・ユスーポヴァだった。

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気力だけが彼女を支えていたのだろう。
酷く顔色が悪く、厚手の生地のスーツの上からでも痩せ細っているのがわかる。
短くした髪のために露わになった削げた頰の線と、静脈の浮き出た首筋が痛々しい。

着の身着のままでひたすらにこの地を目指してきたのだろう、預かったコートと、彼女の着ているスーツからは埃の匂いと、わずかな汗のすえたような匂いがしていた。

酷くやつれ、くたびれたなりをしているものの、それでもスッと伸ばした首筋や膝の上で重ねた指先の美しさは、彼女の育ってきた環境を想像させるに十分なものだった。

「こんな格好で訪問する御無礼をお許しください」

言葉少なに詫びるヴェーラに、マリア・バルバラとユリウスが、「いいえ。お気になさらないで。大変だったのですもの。仕方がないわ」と心から労う。

「お前がそのなりでここにたどり着いたということは…」

「ええ。お兄様の御察しの通りですわ。…リュドミールはお兄様がこの国を出て少しのち…屋敷を出奔して…ボリシェヴィキの門を叩きましたわ」
ーー 出国するときに、政権を握ったボリシェヴィキの党員として駅で旅券を確認していたあの子に、偶然会いましたの。

「あの…馬鹿が!あれほど姉を守るよう言って聞かせたものを…!!」

「いえ、いいのです。お兄様…。彼を責めないであげて。若いあの子の瞳には…わたくしたちとは違う何かが映っていたのでしょう。それに…国境を超える列車に乗る駅でも、あの子はわたくしのことを見逃してくれましたわ。あんなことをして後で同志から咎められなければよかったのだけど」

「当たり前だ!」

苛立たしげにレオニードが吐き捨てた。

「…お兄様、もう怒りを鎮めて下さいませ。わたくしは、兎にも角にもこうして、無事このレーゲンスブルグ に着いて、お兄様に再会できたのだから…。お兄様が念のために用意してくれた男装の旅券、やっぱり役に立ちましたわ」

静かに微笑んだ妹の短く切られた髪に、痛ましげにレオニードの手が伸びた。

「そんな顔、なさらないで。こうしてみるとわたくし、結構お兄様に似てませんこと?…少なくともリュドミールよりはよほどお兄様の弟に見えましてよ」

兄に気遣わせまいとおどけてみせたヴェーラに、

「やはり…一緒に国を出るべきだった。屋敷の始末など…」

と苦々しげに苦渋の思いを吐き出したレオニードの唇を、ヴェーラの痩せた指がそっと塞いだ。

静かな黒い瞳が「それは違う」と兄の言いかけた言葉を否定する。

「本当に済まなかった…」

革命の最中屋敷の始末を済ませた後に、政権を握ったボリシェヴィキによる貴族やブルジョワジーへの迫害を潜り抜け過酷な亡命の旅を経て、ようやく自分の元に辿り着いた妹の白い手をレオニードは大きな両手で包み込んだ。
すっかり痩せて筋ばった妹のその手の細さに、改めて自分への不甲斐なさがレオニードを苛む。

ーー妹だけではない…。私という人間は!忠誠を誓った陛下も、そのご一家も、それから…かけがえのない家族、モスクワで暗殺者の刃に斃れた父上、別れた妻、それから血を分けたただ一人の息子も、私は守りぬくことが出来なかった!私は…こんなにも無力だ。

「お兄様…、わたくしに、ユスーポフ侯爵家の人間としての最期の大仕事を任せて下さったことに、心から感謝いたします。だってわたくしは…最後の最後に、やっとユスーポフ家の役に立てたのですもの。こんな大任を、わたくしに託して下さって、本当にありがとうございます。侯爵家であるユスーポフ家は、これで終焉を迎えましたが、300年に亘る歴史の幕引きをさせて貰ったこと、それを成し遂げたことは、わたくしの生涯の誇りであり、それと同時に、これからの人生の自信となりましたわ」
ーー だからお兄様は…わたくしに謝罪する必要など、何一つないのですよ。ありがとうございます…。わたくしに侯爵家令嬢としての務めを全うさせてくれて…。

穏やかにそう語るヴェーラの声が、おのれの無力さに歯噛みし悔恨に悶えるレオニードの心に優しく柔らかく染み渡って行った。

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「失礼致します。お湯の準備とお部屋の準備が整いましてございます」

頃合いを見てゲルトルートが母屋に知らせに来た。

「あ、ああ。済まぬ。ヴェーラ、彼女はゲルトルートという。これからお前の逗留する離れの家政一般と執事も務めてくれている女性だ」

「ゲルトルート・プランクと申します。誠心誠意お仕え致しますので、以後宜しくお願い申し上げます」

ゲルトルートが恭しくヴェーラに挨拶をする。

「ヴェーラ・ユスーポヴァです。こちらこそ、これからお世話になります」

長旅と心労からくる極度の疲労で少しよろけたヴェーラの身体をサッとゲルトルートが支える。

「大丈夫ですか?ゆっくり、ゆっくり参りましょう。…ベッドも作りましたからね。まずは存分にお休みになって長旅の疲れを癒して下さいまし」

ゲルトルートに支えられて、ようやく辿り着いたアーレンスマイヤ家の離れで、ヴェーラはその後三日の間懇々と眠り続けたのだった。


 

 ~エピローグ~

「どうであったか…?」

離れでヴェーラに手を貸して休むのを見届けたユリウスが母屋へ戻ってきた。

「眠ってる…。彼女酷く身体も消耗していて…、きっと気力だけで支えていたのだね。バスタブで溺れてしまうと危ないから…時折お話をしながら彼女の入浴をお手伝いしたよ。お湯に浸かりながら…ここにたどり着くまでのことを、ポツリポツリと話してくれたよ。…弟さんが出奔して、一人で国境を越えなければならないことになったために男装して男物のパスポートで国を出たこと。たった一人の旅で荷物を取られないように車中でも殆ど睡眠を取っていなかったこと。
自分のように男装して国境を越えようとした女性の中には不幸にも女性であることがばれて物陰に連れていかれ理不尽な乱暴をされた上に、その場で連行されて行ったのを何度も見たこと。そのために怖くて着替えることも出来なかったこと…。彼女の辿ってきた想像を絶するような亡命の旅に…言葉が出なかった」

「…そうか…」

じっと窓の外を見つめながらユリウスの話に耳を傾けていたレオニードが、まるでガラス窓に映る自分を責めるかのように、ガラスに額を叩きつけた。うなだれた肩と背中が小刻みに震えている。

「レオニード…」

「私は、無力だ…。呆れるほど無能な人間だ。「ツァールスコエ・セローにその人あり」「親衛隊きっての切れ者」などと言われ、軍人としての自分の能力に思い上がっていたその実…大事な人間を…誰一人守れてはいない」

呻くようにそう言ったレオニードの背中にユリウスの手が伸びる。

「違うよ…レオニード。あなたは無力じゃないよ。…ぼくね、思うんだ。人は…自分の授けられた人生の中で必ず闘わなきゃならない時があるんだ。…そしてそれは…どんな人でも、自分で向き合わなくてはならなくて、どんな強い人でも、代わりに闘ってあげることは出来ないんだ。だから、ヴェーラはヴェーラの闘いに決着をつけたんだよ。そして見事勝利を収めた。レオニードがすることは…彼女の力になれなかったと彼女に対して後ろめたく感じることではなく、よくやったと彼女の闘いを称えて誇ってあげることだと…ぼくは思うよ」

「…そうか」

「そうだよ」

「…やはりお前は、大した女だ。私はお前から…いつも教えられて、気づかされるばかりだな…」

「お褒めに預かり光栄です。で、どうせまた「女にしておくには惜しい」とか言うんでしょ?…言っとくけどそれ、女性に対する賞賛の言葉としては微妙だからね!」

「…そうか」

「そうだよ!朴念仁リョーニャ」

「すまぬ…」

フフ…ハハハ…。

いつのまにか二人の間の重苦しい空気は取り払われていた。笑いながらユリウスはレオニードの逞しい背中を軽く肘で小突く。

「ぼく行くね。おやすみなさい。また明日」

「ああ。ユリウス…」

「ん?」

「ありがとう」

レオニードのその一言に、ユリウスは穏やかな笑みで答えると、サロンを後にした。

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