第六十五章
プロローグ
1917年3月―。
私の世界は一変した。
1917年2月。ペトログラードで起きた食糧配給の改善を求めるデモ行進は、長期化した戦争に生活を逼迫されたフラストレーションと王侯貴族をはじめとする支配者層に対する積年の不満が頂点に達した人々の間で忽ち拡大し、程なくペトログラードからモスクワ、そして他の都市へと広がって行った。
後に言う、二月革命の始まりだった。
革命の火の手は労働者のみならず、軍隊にも波及し、各地の連隊で反乱が相次いだ。もはや収拾が困難と見たドゥーマ(国会)の議長ロジャンコは、政権を掌握することを決意し、臨時委員会を結成し、父ニコライから政権を奪った。
月が変わり3月になっても暴動は一向に収束を見せず、ついにユリウス暦の3月2日(3月15日)、父ニコライ二世は退位させられ、莫大な富と比類なき栄光を誇った300年にも及ぶロマノフ王朝は終焉を迎え、私達はただの一市民となった。
そして、そこから―
私の長い長い流浪の日々が始まったのだった。
父ニコライから密命を受け、私を保護し国を出た、後の養父レオニード・ユスーポフ侯爵と共に―。
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1917年 ユリウス暦3月6日。冬宮殿
「子供のうちの一人を―、ここから逃して外国へ亡命させよう」
「あなた―!!」
父と母が声を低くして話している。
低く押し殺した声の父のその一言に母が小さく息を呑んだ。
「では…では…。アレクセイを。皇太子を・・・・」
「…いや、ダメだ。皇太子は、これからの困難を伴う流浪の旅に耐えられぬ。…残念だが、アレクセイを逃がす事は不可能だ」
「では…!一体誰を…」
「アナスタシア、おいで」
愛犬を腕に抱き、少し離れた場所で父と母が険しい顔つきで声を押し殺し話し合っているのを眺めていた私を父が手招きした。
― わた…し?
「アナスタシアならば性格も快活で明るいから…きっとたどり着いた先の…我々の親族の人間たちにも愛され、可愛がってもらえるだろう。それに…一番若いあの子ならば、男装しても何とか少年で通る。あの子に男装させて…ユスーポフ侯に身柄を託すのだ。…この孔雀石の箱に密書を認めて…」
そして私を抱きしめ両頬にキスをすると、父は淡々と、これからの私のとるべき行動を言い含め、そして用意された従僕の服に袖を通し(私たち姉妹は全員この年の1月に罹ったはしかのせいで、髪を短く刈っていた。だから服を変えただけで私は充分男の子で通った)、慌ただしく母と姉たちの手で形見の宝石を下着に縫い付けられ、愛犬を姉たちに託し家族と別れを告げると、父の密書が仕込まれた孔雀石の箱と共に冬宮殿を後にした。
これが―、私と家族―、父と母と姉たちと弟― との今生の別れとなった。
私は父の忠実な臣下の一人であるユスーポフ侯の元へ連れていかれた。
父の密書と共に―。
広大なユスーポフ邸に連れてこられた男装の私の姿と、それから託された孔雀石の箱に、ユスーポフ侯が有事を悟り、僅かに目を瞠った。
ユスーポフ侯はその箱を手にそのまま書斎へと消え、私は寝室に案内され、久しぶりに落ち着いた静寂の中で眠りについた。
翌朝、ユスーポフ侯から、私の身柄を保護したこと、そして私を国外へ亡命させること、ついては私を侯爵の親類の一人として出国させるつもりであること。急ぎ旅券を偽造させるので、それが整い次第出立するという事が告げられた。
私は、侯爵のその説明を、まるで私じゃない他人の話のようにぼうっと聞いていた。
そんな私の曖昧な相槌と虚ろな表情に、侯はその厳めしい黒い瞳に、やや憐れむような色を浮かべると、私の手を取り、「自分の命にかけても国外のあなたのご親族の元へ送り届けるから安心してほしい。それまでは誠に僭越ながら自分を保護者と思って指示に従って欲しい」と噛んで含め、手に取った私の甲にそっと口づけた。
私の手の甲に口づけた侯爵の唇は温かく、私はその温かさに自分が生きていること―、父に、母に、そして運命に生かされた事―、そしてこれからも生き続けなくてはならない事を明確に自覚したのだった。
彼の唇の温かさが、恐怖と苦難と家族との離別に心を閉ざしかけていた私を、不意に現実に引き戻した。
数日のうちに亡命の支度は整い、私は、侯爵と、そして侯爵の忠実な従者のロストフスキー大尉と共に、ペトログラードを離れ、長い長い流転の旅に出た。
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道行きは、予想していたフィンランド経由ではなく、ペトログラードから南下し、ヤルタへ出て、そこから船でイスタンブールへ渡るという行程だった。
ヤルタまでの行程で、ユスーポフ家の領地に分散して保管していた侯爵家伝来の宝石、美術工芸品と言った品々を回収し、最終的にはそれらを国外へ持ち出す都合からも、陸路よりも多く荷を積める船の方が都合が良かったのだろう。
領地の館に収集されていたそれらの美術品を二人が淡々と仕分けし、荷にしてゆく。
その様子をぼうっと眺めていた私に侯爵は、「霞を食って生きていくわけにもいくまい。これらの品々は、これからの私たちの当面の生きる糧になるのだから…」と自嘲気味に小さく笑って見せた。
そんな侯爵に私は…ただ無言で首を横に振ることしか出来なかった。
家族と別れて侯爵に保護されてから、私はいつしか全然喋らなくなっていたことに、今更ながら気づいた。
剽軽物で明るいアナスタシア と家族からも周りからも言われていた私が、一日何もしゃべらずに(この侯爵と従者がとりわけ寡黙な質ということもある)、ただ言われたままに侯爵に従って流転の旅を続ける。
一日中することもなくずっと口を閉ざしていると、嫌でも思考が内向的になっていく。
日がな一日色々なことを考える。
両親の事、姉と弟のこと。
それから…自分のこと。
あの家族との別れの翌日に、一家は冬宮殿からツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿に身柄を移されたと知った。
父と母は…元気でいるのだろうか?
アレクセイは…具合はどうだろう?
姉たちは?
逃亡した私の代わりに…誰か私に似た…哀れな娘が替え玉となったのだろうか?
その娘は…私の替え玉となったために、アナスタシアとして…殺されてしまうのだろうか?
―― …いやだ。まだ…殺されると決まったわけでもないのに。…縁起でもない。
心の中でむくむくと膨らんでゆく不吉な黒い想像を私は、自らに言い聞かせるように小声で打ち消した。