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​第六十五話
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待ちに待ったお茶会の週末がやって来た。

この日のために、侯爵はオフィスで使っているというサモワールをわざわざ離れへと持ってきてくれた。

 

ロシア式のお茶に合せて、ゲルトルートがそれに見合ったジャムやシロップと、それからお茶に添える軽食やお菓子、それにテーブルに飾る薔薇を庭から切って用意してくれた。

 

そして―

この日のために、用意してもらったドレスに袖を通す。

今まで何となく男装で過ごしていたけれど、折角のお茶会にアイデンティティのはっきりしない何となくの男装では臨みたくなかった。

久しぶりに袖を通すドレスと絹の靴下が、肌を優しく包む。

自然とエレガントで美しいものだけを見ていた頃の自分の感性が心の奥底から揺り起こされる。

 

「フロイライン。やっぱりあなたドレスのほうがいいよ。袖を通した途端に、顔つきが変わったもの。すごく綺麗」

―こっちむいて。

 

ユリアが私の唇に紅を引いてくれ、髪を整えてくれた。

 

ローウェストの膝丈のドレスは身体を締め付けることなく、装飾もシンプルで着ていて軽く心地がいい。

思い立って鞄の奥底から母親が持たせてくれたイヤリングを取り出す。大きなバロックパールのティアドロップタイプのもので、母の気に入っていたものの一つだった。

 

あ、やっぱりこのドレスによく映える。。。

 

「あ、いいね。それ。じゃあ髪は少し上げようか」

 

イヤリングが生えるよう、耳朶が覗くようにユリアがスタイリングをし直してくれた。

 

「うん!完璧!!すっごく綺麗。ほら、鏡を見てみて」

 

鏡に映った自分は…、この数か月間で知らないうちに大人になり、幾分か面立ちが変わり、そんな自分が装った姿は…、何というか、若かりし日の母に、そしてあの革命を迎える前の、幸せだった頃の姉たちにそっくりで…、私は鏡の中の自分に、少なからず動揺してしまった。

 

「…」

 

鏡をじっと見たまま押し黙った私に、「あれ?どうかした?…何か気に入らないところがあったら直すよ?」と心配そうにユリアが声をかけてくれた。

 

「ううん。そうじゃなくて…。あの…、私が…鏡に映った私が…思いがけず母に…姉たちに似ていて…自分でもびっくりしちゃって・・・・」

 

「そっか。…昔の、あなたのお母様の若かりし頃の、まだ結婚前のアリックス様と呼ばれていた頃のお写真を見たことがあるよ。知的そうで目に強い輝きのある…とても美しい方だと思った。…そうだ。うん。あなた、お母様によく似ているよ」

 

母親ごと手離しに褒められ、なんだかとてもこそばゆい。

でも、とても嬉しかった。

祖国ロシアでは…、「陰気」「感じが悪い」とだれも褒めてくれなかった母を、「美しい」と褒めてくれたことが、とても嬉しかった。

 

「ありがとう。ユリア。…色々苦労があって…だいぶ容色も色あせてしまっていたけれども…でも私も、母は美しい人だと思ってた。母の美しさを褒めてくれて…ありがとう」

 

僅かに声を詰まらせながら、気持ちを伝えた私に「分かるよ」とでもいうように、目で頷きながらユリアがポンポンと肩を優しく抱きしめてくれた。

 

「さ、もうすぐ招かれた人たちがここへやって来るよ。あなたはホステスとしてサロンの最後の点検をして、お客様を迎える準備をして。…私も一旦母屋へ戻って支度をしなきゃ」

 

そういうと「じゃあまた後で」と頬を寄せて、ユリアはこの離れを後にして行った。

 

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指定された時間に、今日の招待客が次々にやって来た。

 

まずは、母屋から当主夫妻と老アーレンスマイヤ氏が。

 

そして、少し経って、オフィスから仕事を早上がりした侯爵とロストフスキーさんが。

(今日のために侯爵とロストフスキーさんは半休を取ってくれていた)

 

侯爵はいつもの男装ではなくドレスアップした私に、ちょっと驚いていたようだった。

 

目を瞠っている侯爵をユリアの肘が軽く小突いた。

 

「ドレスアップした女性を目の前に、何黙って突っ立ってるの!」と。

 

その肘に弾かれるように、侯爵が相好を僅かに崩し、

 

「綺麗だ。よく似合っている。…お母君と、皇后さまによく似ていらして…驚いた。今日はお招きありがとう」

 

と言って、少し屈むと私の両肩を抱いて頬を寄せた。

 

葉巻とコロンの―、侯爵の香りに一瞬包まれる。

 

わたしの胸の鼓動が、侯爵に聞こえてしまってやしないだろうか…。

頬を寄せられ、ドギマギと身を固くした私を、侯爵はへんな娘だと思わないだろうか。

 

その時間にしたら一瞬の出来事に、私の心臓はその後もずっとドキドキしどうしで、なんとか戸惑いを抑えるのにとても苦心してしまった。

 

最後にやって来たのは、ユリアと同じ顔だという、彼女の母親と娘だった。

 

二人連れだってやって来た祖母と娘に、ユリアが二人と私の間に立って紹介してくれた。

 

「母さん、リーザ。こちら、フロイライン」

 

「はじめまして。ユリアの母のレナーテです」

「ユリアの娘のエリーザベトです。リーザと呼ばれてます」

 

陽の光を受けて透けるように輝く金の髪といい、整った顔立ちに白い肌といい、何といっても宝石のような碧の瞳といい、ユリアが言った通り本当にこの三人はまるで奇跡のようにそっくりだった。

 

「はじめまして…」

 

「ね?本当に三人同じ顔でしょう?」

 

二人並んだところにユリアが加わる。

 

「ほほ…。私の母、ユリアの祖母に当たる女性も、同じ顔だったわね」

 

「最強だな。その遺伝子は」

 

美女が三人並んだその壮観な様子に侯爵が呟き、彫像のような整った顔を僅かに綻ばせた老アーレンスマイヤ氏を現当主のダーヴィトさんが「この三人が一緒にいる時の親父様の嬉しそうな顔ときたら」と茶化し、茶化されたアーレンスマイヤ氏が「年長者を…親をからかうものではない!」と気まずそうに咳払いをする。

 

「いやだわ。私達、なんだか見世物みたいね」

―ホホ…

そんな男性陣に女性陣の笑いがサロンを包む。

 

和やかでアットホームな空気が、あっという間に皆を包み込み、寡黙で厳めしいイメージの強かった侯爵や、無表情で今一つ考えていることが分からないロストフスキー大尉までが、屈託のない笑顔を浮かべているのに、驚いた。

そしてそれは、勿論私も同じで・・・・。いつの間にかこの場の空気に包まれるように、ロシアのあの革命の事も国に残してきた家族の懸念も一時忘れ、心から笑いながらこの時間を楽しんでいたのだった。

 

 

昼下がりに始まったお茶会は、サンドウィッチやミートパイ、季節の果物を使ったケーキや色の美しいマカロンが載った三段のアフタヌーンティースタンドに、クロッテッドクリームとジャムが供されたスコーン、アミューズにチョコレートと、ボリューム満点の英国式だった。(早めの時間にスタートするなら昼食を兼ねた重めの英国式が良いだろうと、ゲルトルートが全て手配をしてくれた)

 

執事を勤めるゲルトルートがおのおののティーカップに紅茶をついで回る。

 

「今日の朝は紅茶だけで正解だった」

 

「ママは小食だからね」

 

「わたくしたち母屋も今日は昼食はパスしたわ」

 

「うん。美味いよ」

 

「…何だかこんな贅沢をしている我々の分まで働いてくれているシフさんたちに申し訳ない気持ちになってきます…」

 

「たまにはよかろう。遠慮するな、ロストフスキー」

 

「はあ…」

 

「あはは…」

 

他愛のない会話を挟みながら、ゆっくりとお茶の時間が過ぎていった。

 

 ------------

 

英国式のしっかりとしたアフタヌーンティが済むと、今度は小テーブルの周りに集まり、侯爵がわざわざオフィスから持ってきてくれたサモワールで、ロシア式の紅茶を楽しむ。

 

「これがロシア式の湯沸かし器なのね」

 

「立派なもんだな」

 

「ぼくはオフィスでたまにこれで淹れたお茶を頂くよ。レオニードから淹れ方も教わったんだ」

 

「なかなかいい塩梅で淹れるのだ。私が自分で淹れたものよりもよほど美味い」

 

「あなた…お仕事中のレオニードさんの邪魔になってるのではないの?」

 

「酷いなぁ。姉様。ぼくだって仕事だよ。じゃまになってなんて…ないよね?レオニード」

 

「え?あ、ああ。勿論」

 

「侯爵もこの金髪の天使には逆らえず…か」

 

とダーヴィトさんが、ニヤニヤ笑いながら意味深な言葉を侯爵にかけていた。

(侯爵は聞こえないふりを決め込んでいたけど)

 

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Ach,wie so bald verhallet der Reigen,
Wandelt sich Frühling in Winterzeit!

 

離れのサロンに、少し物悲しいメロディのハーモニーが響き渡る。

歌っているのはこの屋敷の美しい姉妹、ソプラノを妹のユリアが、そしてアルトを姉のマリア・バルバラさんが担当し、流麗なピアノで伴奏しているのはユリアの一人娘、リーザことエリーザベトだった。

 

歌い終わった二人と、伴奏をつとめたリーザに惜しみのない拍手が贈られる。

 

「素敵な歌だった。お二人とも綺麗な声。これは何という歌?」

 

「ありがとう。これはね、メンデルスゾーンの「秋の歌」というんだ」

「ユリアの透き通った高音とマリアのしっとりとした低音が何とも合っていていいんだよな。さすが姉妹の重唱は呼吸の合い方が絶妙というか…」

 

「そうね。やっぱり血の繋がりなのかしら。初めて合わせた時も歌も伴奏も息がぴったりで」

―ね?

マリア・バルバラさんとユリア、そしてリーザが顔を見合わせ合って頷いた。

 

「じゃあ、伴侶との呼吸はどうだろう?夫の沽券にかけても、ぜひともよしなに頼むよ。マリア」

 

「さあ、どうかしら…。フフ」

 

立ち上がったダーヴィト氏がマリア・バルバラさんの耳元で軽口を囁きながら、チェロの用意にかかる。

 

耳元で囁かれたマリア・バルバラさんは今度はギターを手に取り、椅子にかけた。

 

当主夫婦の演奏したのは、ギターとヴァイオリンによる、バッハのG線上のアリアだった。

ゆったりと歌うダーヴィトさんのヴァイオリンの旋律に、ホロリとした情感のあるマリアさんのギターが伴奏を添える。

今日のゆったりとした昼下がりにぴったりの美しい曲に、やはり演奏後の二人に惜しみのない拍手が贈られた。

 

「アーレンスマイヤ家はこうやっていつもご家族で合奏されているのですか?」

 

「いつもというわけではないのだけど。実際わたくしは少女時代に少しピアノをかじって…以来音楽とは少し離れていたのだけれど、大人になってピアノ以外の楽器で音楽を再開したクチだから」

 

「僕とマリアの馴れ初めも、実は音楽だったんだ」

 

ダーヴィトさんとマリア・バルバラさんが目を見合わせて微笑み合う。

 

「へえ。それ、聞きたいな…。馴れ初め」

 

「お、いい食いつきだ。嬉しいねぇ。よく聞いておくれだ。僕たちはね…」

 

「ダーヴィトは元々ユリアの知り合いでね。ユリアの16の誕生日のお祝いに呼ばれてメンデルスゾーンのトリオを披露してくれた、その時のチェロ奏者が、彼だったのよ」

 

「その誕生祝のお茶会の席で、ひょんなことから僕とマリアは意気投合して、マリアは僕からチェロを習う事になったんだ」

 

「そうなの。わたくしは元々…この人の生徒だったというわけ。娘時代にやっていたピアノは…正直あまり面白いとは思わなかったのだけど、思いがけず大人になってから始めたチェロはとても楽しくて」

 

「そ。筋はわりによかったんだな。で、最近はチェロだけではなく僕のヴァイオリンやチェロに合せたいから…とギターを習い始めて。それもあっという間に習得してしまった」

 

「それは…あなたと合奏したいという目標があったからよ。」

 

「姉様、ぼくが頼まれてダーヴィトの伴奏するといっつもご機嫌斜めになるんだもの」

 

「なってませんたら!もう!嫌な子ね」

 

「ふぅん。そうだったの?…そりゃ光栄の至りだな」

 

「知りません!」

 

茶化されたマリア・バルバラさんが頬を赤く染めている。

 

聡明で落ち着いた大人の女性…というイメージがあったけれど、ふぅん、こんな可愛い顔も見せるんだ…。でも、悪くない。こういうところにこの年下の当主はコロッと参ってしまったのかもしれないな…などと、このちょっと人を食ったような飄々とした当主と、生真面目でクールに見えるそのくせ、案外可愛いところのあるその夫人のやり取りを見ながらそんな事を思っていた。

 

「あの~、お二人さん。そろそろ…いいですか?」

 

楽譜を手にしたリーザが伯父伯母夫妻と母親の間に割って入る。

 

「あ、ゴメンゴメン。君らも今日のために一曲用意していたのだったね。どうぞどうぞ」

 

ダーヴィトさんがまだ赤い顔をしてむくれているマリア・バルバラさんの肩を抱いてソファに座ると、リーザとユリアをピアノの方へ促した。

 

「じゃあ、僭越ながらぼくとリーザでトリを務めさせていただきます」

 

二人が披露したのはドヴュッシーの四手のピアノデュオだった。ユリアがプリモをつとめリーザがセコンドをつとめる。

 

二人とも…とてもうまい。

それにさすがの親子で息もぴったりだった。

 

思えば家族でピアノを弾くなんてこと…なかったなあ。…兄妹も沢山いて、私よりピアノの上手な姉もいたし、母はアレクセイの看病で手いっぱいで、それどころじゃなかったけど・・・・。ピアノ、嫌いじゃなかったのに、遠慮しないで一度ぐらい母と…姉とこうして連弾をすればよかった…と、楽しそうにピアノを弾いている親子の綺麗な横顔を見ながら、私は少し切ない気持ちになった。

 

瀟洒なドビュッシーの小曲を弾き終えた二人にも盛大な拍手が贈られた。

 

「素敵な曲。…それに、親子で連弾、素晴らしいなと思った。…リーザが羨ましい」

 

私の一言でサロンが一気にしんみりとしてしまった。

 

やはりというか…この空気を一変させたのも、ユリアだった。

 

ユリアは俯いた私をギュッと抱きしめて頭を優しく撫でてくれた。

 

そしてそのあとに彼女の口から発せられたとんでもない提案は、侯爵を絶句させ、まさに今の今迄サロンに垂れこめたしんみりした空気を、払拭どころか吹き飛ばすものだった。

 

「ならば、レオニードと連弾したら?だって保護者がわりなのでしょう?ならば、お父さんってことで。…レオニードも貴族の御曹司なのだから、ヴァイオリンでもピアノでも、何らかの楽器の心得ぐらいあるでしょう?なんならば、ぼくがつきっきりで特訓してあげようか?」

 

ユリアのとんでも発言に、侯爵がこれ以上ない程目を剥く。

 

「は?…は~~~~~?!おま…、何言っているのだ!私が…ピ、ピアノ?気は確かか!?」

 

「うん。もちろん」

 

いつもクールな侯爵の、本気で呆気にとられたような顔と、反応を思いがけず目の当たりにし、本当に今日のお茶会が行われたことに、「ああ、よかったなぁ」と心から私は思ったのだった。

 

1917年の春以来、こんな楽しい一日は、初めてだった。

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