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第六十五話

​第四章

「貴女様の身の回りのお世話は、このユリアと、それから家政婦のゲルトルートに一切任せてありますので、何でも申し付け下さいませね」

 

アーレンスマイヤ家に到着して、侯爵は老アーレンスマイヤ氏と共に母屋へ入り、そして私は、アーレンスマイヤ姉妹―、当主夫人である長姉と、これから私の世話を一手に引き受けてくれるという末妹のユリア嬢と共に、離れの一棟へ案内された。

 

母屋より幾分小さい離れとはいえ、バスも食堂も備え付けられた、完璧な邸宅として遜色のないものである。

離れのエントランスで、ユリア嬢と同年代ぐらいの小柄な女性が迎えてくれた。パリッとアイロンの効いたブラウスと細身のスカート、そしてブラウスと同じくパリッと糊のきいた白いエプロンが気持ちいい。黒い髪をスッキリとシニヨンにまとめ、薄化粧の下の白い肌にはうっすらとそばかすが透けて見えて、それが却って彼女をチャーミングに見せている。

 

「ようこそ、おいでくださいました」

 

その女性が恭しく私とヴェーラに向かって頭を下げた。

 

「この子はゲルトルートと言います。元々アーレンスマイヤ家の女中頭だった子なのだけど、今は当家を退職して通いのハウスキーパーをしているのを頼み込んで、あなた様方の逗留中のこの離れの家政を一手に引き受けてもらう事になっています。それからこの離れの執事もこの子が兼任致しますので、何かありましたらユリアかこのゲルトルートに何でも申し付け下さいませね」

 

 

「はじめまして。ゲルトルートと申します。何でもお申し付けくださいませ」

 

華奢で小柄で、やや童顔の…こういってはなんだけど、家政婦長や執事としての貫禄は…全く感じられず、頼りなくすらある。優しげないい人そうではあるけれど・・・・。

 

そんな私の表情に、

 

「一見頼りなさそうに見えるけどね、これでもものの良く分かった、聡明な女性だから、万事安心して頼ってくださいね」

とユリアさんが付け足した。

 

 

「お嬢様!」

 

頼りない…と言われたゲルトルートが、ユリアさんに食ってかかる。

 

「ごめんごめん」

 

きっとこのアーレンスマイヤ家が私達の世話を一手に任せるぐらいの女性だから、見た目よりもずっと切れ者で、信頼に足る女性なのだろう。

 

「お部屋にご案内いたします。まずはお手荷物を置いて、それからサロンでお茶のご用意をしてお待ちしております」

 

ゲルトルートに案内されて、私はこれから逗留する自室に通された。

 

高い天井に大きな窓、明るい色調の壁紙とカーペットに天蓋つきのベッドと瀟洒な家具一式が備え付けられた部屋に案内され、旅装をとく。

 

男装はしているものの若い女性の私の事を気遣ってか、花の描かれた絵やドレッサーにも花が飾られている。

 

埃と汗にまみれたシャツを脱いで、男装のために胸にまいた布を少し緩める。

 

「ふぅ…」

 

何だか…緩めた布の分だけ少し楽に呼吸を出来たような気がした。

 

備え付けられた洗面器に水を張り洗顔して、ドレッサーの前で少し乱れた髪に櫛を通し、短い髪を丁寧に撫でつけた。

 

そして別のシャツとズボンとジャケットに着替え、サロンへ向かった。

 

 ------------

 

サロンでは、すでにお茶の準備が整っていた。

 

「さっぱりした顔をしてるね。さあ、どうぞ。かけて」

 

ユリアさんが私の背中にそっと手をやり、私を長椅子へ促した。

 

ロシア皇女であった時には考えられないようなフランクな口調と屈託のない笑顔に、一瞬面食らったけれど、さりとて不思議にちっとも無礼な感じは受けず、なんだか…私の背中に触れた手の優しさと相まって、少しくすぐったい気持ちにすらなった。

 

「ユリアったら。何ですか。大切なお客様に、そんな口調で」

 

長姉の女性、マリア・バルバラさんが、ちょっと困ったような顔でユリアさんを窘めた。

 

「ごめんなさ~い」

 

ユリアさんがクシャっと笑って小さく肩をすくめてみせる。

 

「いえ。…いいです。構いません」

 

「でも…」

 

「いえ。その方が…いいです。そのままで接して頂けたら嬉しい…です」

 

困惑したように私とそれから妹嬢を交互に見渡しているマリア・バルバラさんに、

 

「じゃあ。そうするね。よろしく。改めて、ユリアです。ユリアと呼んでくださいね」

 

綺麗な顔を思い切り破顔して、ユリアさん…いえ、ユリアは私に白い手を差し出した。

 

差し出された手を握り返す。

 

「もう…この子ったら。…改めて、マリア・バルバラ・フォン・アーレンスマイヤと申します」

 

傍らの奔放な妹の態度を少し咎める風に窘めると、傍らのマリア・バルバラさんも恭しく名乗り挨拶をした。

 

 

「初めまして。…」

 

二人の挨拶に、私も続いた…が。

私には、もはや名乗る名前がないという事に、今更ながら気づかされた。

 

挨拶の先の言葉が続かなく押し黙ってしまった私に、気まずい沈黙が漂う。

 

その沈黙を破ったのは、やはりというかユリアだった。

 

「新しいあなたの身分が確定するまでは、あなたのことをフロイラインと呼ぶよ。よろしく、フロイライン」

 

天真爛漫なその物言いに固まったサロンの空気が再び和らいでいく。

 

―― フロイライン・・・・。″お嬢さん“。

 

最早プリンセスでもアナスタシアでもなく、さりとてこの偽造旅券のユスーポフ家の親類の男の子でもない私。

 

ただの「フロイライン」…。かえってこんな亡霊みたいな私にはぴったり、…いや勿体ないぐらいの呼び名かもしれない。亡霊に「お嬢さん」なんて・・・・。

 

やっぱり面白い人だ。

思わずクスクスと笑ってしまった。

 

 

「何が可笑しいの~?」

 

クスクス笑っている私を、そして笑いを必死に噛み殺しているサロンにいる他の人間を見回して、ユリアが少し不満そうに唇を尖らせる。

 

「…お嬢様があまりに不躾なんで、呆れられているのですよ」

 

もう堪えられないとばかりに、肩を揺すって声を押し殺して笑っていたゲルトルートが、そう答えた。

 

「なんで?だって…愛らしいお嬢さんだから…ぴったりな呼び名かなと思ったのに」

 

こんな男みたいななりをした女を、愛らしいだなんて!

本当におかしな人だ。

 

「この呼び方は不快?」

 

表情を僅かに曇らせて、ユリアが私の顔をそっと覗き込んだ。

 

相変わらず止まらない笑いに、私は涙さえにじませながら首を横に振った。

 

「いいえ…。いいえ、寧ろ光栄です。…こんな私に…お嬢さん…なんて。ウフフ…アハハ…」

 

「…そう?ならばよかった。フロイライン、あなた笑い過ぎて涙出てるよ。…これ使って」

 

ユリアさんがハンカチを差し出してくれた。

 

「あ、ありがとうございます…。アハハ…」

 

お腹が痛くなるほど笑いながら、そういえばこんなに腹の底から笑ったのは…いつぶりぐらいだろう と思った。

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