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intermezzo ~災いをもたらす者~

「そう言えば、このギャッベ…」

先程までソワが寝そべっていたそのギャッベは、革命前からミハイロフ屋敷でお祖母様が愛用していたものだった。

「ふふ…。懐かしいでしょう?ソワもいたくこのギャッベを気に入っていたようでしたね」

お祖母様が懐かしそうに窓辺に置かれたギャッベに目をやった。

そのギャッベは、ペルシャとの国境近くの山岳民族が織ったものだという。やや小振りの素朴な模様のウール織で、記憶している限り俺が引き取られた時には既にミハイロフ屋敷のサロンの窓辺に敷かれていた。

「これ、屋敷から持ってきていたのですね」

「ええ。これはね、貴方のお祖父様、私の夫がペルシャとの国境近くを視察に訪れた時にね、お土産に買ってきて下さったのですよ。…あの頃はもっと色も鮮やかで、それは美しかったのですが。レーヴシュカがね、ことの外このギャッベを気に入って…だからあの子のためにこうして幾年も、お日様の当たる窓辺に置いていたら…すっかり色も褪せてしまいました」

いつもこの敷物とセットのように寝そべっていたレフと名付けられたボルゾイ犬を思い出す。
俺がミハイロフ屋敷で暮らしていた頃には既に老年を迎えていて、遊ぼうと誘う俺にいつも煩わしそうに耳だけピクリと動かしていたっけ。

「シベリアから戻って来て…屋敷へ伺った時には…あいつもう、いませんでしたね」

レフがいなくなってもありし日のまま、窓辺の一番日当たりの良い場所に敷かれていたギャッベが、なんだか少し寂しく思えたっけ。

「ホホ…。そりゃそうですよ。あの子はお前が国外へ脱出した…1901年のあの時には既にかなりのおじいさん犬でしたもの。あれからね、少しして、あの子も天に召されてしまってねぇ」
ーーあの屋敷そのものが一気に…まるで死んだようになってしまいました。

お祖母様の回想に、傍のリザも当時を思い出したのか、目の縁を赤くしてスンと小さく鼻を鳴らした。

「そう…でしたか」

「ええ。でもね…何だかあの場所から片付ける気になれなくて、もうあの敷物の上で寛ぐあの子はいないのに…ずっと同じ場所に置いていてねぇ。どうしてかしらねえ。で、お前が革命の直前にやって来て、わたくしにペテルブルクから避難するように勧めたでしょう?その時に…これもつい持って来てしまって。変よねえ。確かにこれは…レーヴシュカとそれからプレゼントしてくれたお前のお祖父様の大切な思い出の品だけども…。他に大事なものはたくさんあったはずなのに…。気がついたらクルクルと巻いて荷物にしのばせていて。でも結局…あの屋敷へ戻ることはなかったから…これが数少ないお祖父様と、それからあの子の形見の品になってしまった…」

そう語ったお祖母様の横顔に、なんとも申し訳ない気持ちになる。

「…申し訳ありません」

 

俺の謝罪の言葉にお祖母様が小さく微笑む。


「何を謝ることがありますか。…お前の言う通り都から疎開したお陰で、今わたくしはここでひ孫の誕生を待つ幸福にあやかっているのですよ。お前の判断は正しかった。謝ることなどないのですよ。…どうせ天へ召される時は身一つなのですから。数多の宝物も有り余るほどの財産も、それからかけがえのない思い出の品も、何も、誰も、天へ携えて行くことは叶わないのです。そう!あれは早めの老いじたくだったと考えれば、スッキリしたものですよ」

「老いじたく…ですか」

「そうです。おかげさまで、わたくしの身辺はスッキリしたものですよ。いっそ気持ちがせいせいします」

「ハハ…。やっぱ…敵わないや。…いや、ホント。スッキリついでに長生きして下さい」

「勿論」

二人でミハイロフ家の思い出を刻んだギャッベを眺める。

「そうそう!」

お祖母様がふと何かを思い出したようだ。

「お前は、レーヴシュカに嫌われている…と思っていたようですが…わたくしはそうは思っていませんでしたよ」

「へぇ…そうですか。ガキの頃、相手にしてくれないレフにしつこく構っていたら…お祖母様にこっぴどくお灸を据えられましたがね」

「あら、そうでしたっけ?やんちゃ盛りの男の子の遊びの相手をするには、あの子は歳をとりすぎていましたからね。…でもあと5歳も若ければ…きっとお前と庭を駆け回っていましたよ。あの子の走る姿はそれは優雅で美しかった…」

「へぇ。俺はあの敷物に寝そべっている姿しか覚えてませんね」

「まぁ…あの頃はそうでしょう。…あの子はね、本当に気位の高い子で、嫌いな人間はそもそもそばに寄せつけないのですよ。ムシの好かない人間が来ると、フイとどこかへ行って姿すら見せない。…だけどね…」

お祖母様の眼差しが、窓の外の空の彼方を見つめる。

「だけど?」

「一度だけあの子が…あからさまに敵意を剥き出しにして、ひどく攻撃的な態度をとった人間がいたのですよ。後にも先にも、あの子の生涯でただの一度だけです」

「へぇ、余程気に障ったか…。そいつ、レフに何か危害でも加えたんですか?てか、一体誰ですか?その…えらくレフに忌み嫌われた奴は」

俺の質問にお祖母様は、暖炉の上に飾られた写真の中の一枚に視線を移して答えた。

「ユーリー。ユーリー・プレシコフですよ。…あの子が生涯ただ一度だけ激しく吠えて、敵意を剥き出しにした人間は。動物というのは…ひどく勘が鋭いと言いますからねぇ。きっとあの子には…彼がドミートリィに…ミハイロフ家に災いをなす人間だと、分かっていたのでしょうね」

©2018sukeki4

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