第九十六話 Ⅴ
翌日
俺とユリウスはじっくり話し合って、これからのことを決めた。
自分の身体を過信して絶対無理はしないこと。
音楽祭の出演にはエントリーするが、体調が優れなくなったらすぐに断念すること。(これに関しては、リーザの「もしママの体調が優れなくて舞台を断念せざるをえなかったら、その時は自分が代役として伴奏を務めてあげる」という有難い申し出があった)
出演時間はなるべく短く曲目も一曲のみとすること。
二人で前向きに音楽祭出演に向けて前進して行く上で、ユリウスの体調等で疑問が生じたらその都度専門家に意見を仰ぐこと。
そして
俺はユリウスの出産まで、今まで以上に彼女の身体をいたわり大切にすること!
(ユリウスは「オーバーだな。今のままで十分過ぎるほどだよ」と言ったけど、俺が無理やり付け加えた)
幸いユリウスの体調はすこぶる良好のようだ。
昨日俺を顔面蒼白にさせた長旅の影響も殆どないらしい。
至極スッキリとした顔で朝を迎え、少食ながら食欲も普段通りで、朝食も「美味しい美味しい」と言いながら平らげて、周囲をホッと安堵させた。
冬薔薇のわずかに咲く庭をソワと一緒に歩いたり、ピアノを弾いたり、皆でヨールカの飾り付けをしたり、お茶を飲んだり…特段平時と変わらない穏やかなクリスマス休暇を満喫している。
行きには寄ることが出来なかった海岸も、体調次第ならば遠出をして足を伸ばしてもいいかな…。
気候さえ良ければ車に分乗して、お祖母様も一緒にカンヌまでドライブして海岸でピクニックするのもいいだろう。
そんなことを考えながらつい傍のユリウスの腹に手をやってしまう。
腹に触れられたユリウスがくすぐったそうにその手に自分の手を重ねる。
穏やかな笑顔が教会の聖母像を想わせる。
「昨日の…バカは兎も角…、大嫌いは堪えたぜ…」
「ごめんなさい…。あれは嘘。…言い直してもいい?」
「うん?」
「愛してるよ」
ユリウスが囁いてそっと口づけた。
「俺は…もっと愛してる」
そう言って口づけを返す。
「ねぇ…」
「ん?」
「子供の名前、どうしようか」
「ハハ…。気が早いな。まだ男か女かも分からないじゃないか」
「男か女か分かってから考えるんじゃ、完全に遅すぎるよ」
ユリウスが唇を尖らせて言い返してくる。
ま、男か女か分かるときは、こいつの腹から出てきた時ってことだからな…。確かに遅いかもな。
「男と女と…両方の名前を考えればいいのか?」
「うんまぁ…そうだね。…リーザの時はそうしてたかな。もし男の子だったら…ギュスターヴが、女の子だったらぼくがつけるって予め決めていた」
「へぇ。で、生まれたのが…」
「うん。可愛い女の子で、ぼくはエリーザベトと名付けた。月並みだけど…女の子として生まれたからには、美しく育って欲しいと思って…。隣国の美しい王妃様にあやかって…ね」
「名前の願い通りに育ってよかったな」
俺の言葉に嬉しそうにユリウスが頷いた。
「じゃあ今度もリーザの時に倣うか?男の子だったら…」
「アレクセイが名付けて、女の子だったらぼく?」
「ああ」
その提案に少しユリウスは考えるような素振りを見せ、それから首を横に振った。
「ううん。今回は…男の子でも女の子でも…アレクセイが名前を授けて。…ぼくは一度リーザの時に体験したから。この素晴らしい体験を、絶対アレクセイにも体験して欲しい」
「そか。…サンキュ」
「ねぇ、女の子だったら…どうする?」
「うーん。エウリディケ?…イヤ、クリームヒルト?」
俺の提案にユリウスが微妙な顔をする。
「えー!?…そりゃ、両方とも美女には育ちそうだけど…なんだか幸せとは程遠そうな名前だなぁ」
んー。そんなものだろうか?
「女の子の名前は…保留!産み月になるまでもっとよく考えておいて!…男の子だったら?」
その質問ならば、実はずっと心に、いつかくるかも知れないその時のために決めていた名前があったんだ。
「男の子だったら…ミヒャエル」
「ミヒャエル…。大天使様の名前だね」
「そうだな。それと…俺の父親の名前なんだ。ミハイル…ミハイル・ミハイロフ。…いい かな?」
俺の言葉にユリウスは少し目を瞠ると、お腹に優しく両手を当てて言った。
「すごく…すごくいい名前だと思う。…あなたとぼくと…それからお祖母様と、父様も!あなたの亡きお父様に想いを馳せる人たちにとってその名前は特別な意味と、それから大きな喜びをもたらすと思う」
ユリウスの言葉に、情けないことに俺は…涙が止まらなくなってしまった。
「どうして…泣くの?」
肩を震わせる俺の、頰を伝う涙をユリウスの細い指先がそっとすくい取る。
「どうして…かな?自分でも、よく分からない」
そんな俺の頭を、まるで母親が子供にそうするようにユリウスはそっと抱き寄せた。
「そっか…。分からないけど…泣けてきちゃう時って、あるよね」
ユリウスの柔らかな胸に頭を預ける。じっと彼女の刻む優しい胸の鼓動に身を委ねる。
俺の髪を優しく撫で梳く指の感触が、懐かしく心地よかった。
ーーキャウ…!
「ママ〜!ソワそっち行った〜。捕まえて〜〜」
俺たちのいる四阿の方へやって来て尻尾を振りながらユリウスのスカートに前足を掛けたソワを抱き上げる。
「ハイ」
ユリウスが抱き上げたソワをリーザに手渡す。
フンフン…
ソワが湿った黒い鼻をリーザの頰に擦り付ける。
「くすぐったい!くすぐったいよ。ソワ」
ーーキキー!
その時リーザの腕の中のソワが 、屋敷の外に微かに聞こえた自動車のブレーキ音に、ピクリと反応し、耳をそばだてた。
「あ!」
その様子にユリウスと俺は顔を見合わせる。
「今年も…」
「だな」
「リーザ、行こう」
「え?どこに?」
腕の中で駆け出したくて地面に降りようと身体をよじらせるソワを抱きとめながら聞いて来たリーザに答えた。
「ソワの待ちわびてる人のところさ」