第八十六話 Ⅴ
ドアにカギはかかっていなかった。
部屋に入るとユリウスがドレッサーのスツールから腰を浮かせた。
壁に取り付けられた間接照明と、窓からレースのカーテン越しに挿す半月の光以外に光源のない薄暗い部屋の中で彼女の波うつ金の髪が自ら発光するように全身を浮かび上がらせていた。
少し戸惑いがちに視線を泳がせたあいつの正面に立ち髪をかき上げ耳元で囁く。
「ユリウス…」
俺に触れられ耳元で囁かれたあいつが小さくピクリと身体を震わせる。
緊張と戸惑いで固くなっているユリウスを抱き寄せ髪を撫で梳きながら囁いた耳に口づける。
俺の唇はユリウスの耳から下へと降りていき、首筋、そして鎖骨へと辿ってゆく。
「あ…」
唇が滑らかなデコルテに到達し、俺はユリウスのガウンと夜着の紐を解く。
ユリウスの足元に夜着がスルリと落ちて、しなやかな白い身体が半月の光を浴びて薄闇に浮かび上がる。
「綺麗だ…」
はにかんでわずかに身体をよじらせたユリウスを抱き上げベッドに下す。
ギシ…
ベッドに横たわるユリウスに馬乗りになり、着いた膝と手の重みでスプリングが微かに軋む。
軋んだ音に呼応するように徐々に荒くなっていった呼吸は、俺の呼吸だったのか…それとも、俺に組み伏せられたユリウスの呼吸だったのか…。
「アレクセイ…」
半分吐息で囁いたユリウスの唇を俺の唇で塞ぐ。
シーツに広がる黄金の奔流のような髪を、細い顎を、白く綺麗な胸のふくらみを、なだらかなカーブを描いてくびれた腰を、小さいが柔らかな尻とそこから伸びるしなやかな太ももを、指で、そして唇で愛撫しながら身体を重ねる。
夜の冷気で少しひんやりしていたユリウスの肌が、みるみる上気して仄かに熱を帯びてくる。
息をすることも忘れそうになるぐらいの濃密な二人の世界に、俺たちは絡み合い一つになって溶けて行った。
~~~~
「ん…」
―― あ…夜明けだ。
曙光を顔に感じ、目を開く。
いつの間にかまどろんでいたみたい。
空に昨日ぼくたちを夜通し照らしていた月が白んで未明の空に浮かんでいる。
すぐ隣で、アレクセイの深い寝息と温もりを感じる。
満たされた…安らかな夜明け―
二人肌を合わせ一つになった喜びと昂りをずっと噛みしめたくて…眠りにつくのが勿体ないような気がして…ずっと起きていたつもりだったのだけど。
二人してずっと愛を交わした余韻に浸っていたくて…ずっと彼の胸に抱かれて夜の時間を過ごしていた。
言葉はいらない…
アレクセイは僕の身体を抱き寄せ、髪を撫でながら。
ぼくはアレクセイの胸に抱かれて、時折彼の身体中に残る傷跡を指でそっとなぞりながら…。
夜の気配に二人身を委ね、肌を合わせながらぼくらは初めての夜を過ごしていた。
スー…スー…
フフ…。
そんな濃密な愛の一夜を共にしたアレクセイも、今は夢の中だ。
―― これは…二人の間の必然だった…。
昨夜の濃密な時間を改めて振り返る。
思えば…初めて唇を重ねた少女のあの時も、そう思ったのだっけ。
ぼくの唇は、身体は、魂は全てあなたのもの。
そしてあなたの唇も、身体も…それから魂も、全てぼくのもの。
こうして巡り会ったのは、奇跡でも何でもない、必然で定めだったのだと、ぼくは傍らのアレクセイの安らかな寝顔を見ながら確信していた。
好き。アレクセイ…
~~~~
ドレッサーの前で身支度を整える。
胸元に無数につけられた昨日の愛の行為の後が目に飛び込んできて、ぼくは一瞬息を呑んだ。
アレクセイがつけた愛の印。
ぼくの肌に咲かせた紅い花。
彼の熱い唇の感触。
そっとその後を指で触れる。
昨日の感覚が鮮明に全身に蘇り、ぼくの身体の芯がギュッとなる。
ブルリと震える身体を鎮めるように自分の両肩を抱きしめ長い息をつく。
ボウタイのついた襟の高いブラウスを選び、紅い愛の印を封印する。
いつものように髪を結い上げる。
「あ…」
ちょうど…耳の後ろのあたり。
結った髪と襟の間につけられた紅い花…。
その紅い花を思わず手で押さえる。
手の下でその紅い花が昨日の記憶を留めているかのように熱を帯びて行く。
「やだ…ぼく真っ赤…」
少し迷った末、髪を解き、少女の頃のようなダウンスタイルにした。
首筋の紅い花をぼくの髪が覆う。
前髪とサイドの髪を少し取って編んで後ろでまとめた。
「フフ…。なんだかリーザみたい」
鏡の中の自分が、今同じヘアスタイルをしている娘の面影とどこか重なった。
身支度を終え部屋を出ると、ちょうどアレクセイも部屋を出て来たところだった。
「おはよ…」
「おう…」
一夜を過ごし、二人で夜明けを迎えたのに…こうしてまた顔を合わせると…何だか照れ臭いや。
二人で食堂へ向かう。
「その頭、なんだか既視感あるな」
アレクセイが背中に流れるぼくの髪を一房取り、指に絡めた。
「変?」
「いや。…可愛い」
絡めた髪に口づける。
「ありがとう。…でもね髪を下しているのは…言っとくけど君のせいなんだからね?」
ぼくの言葉の意味をアレクセイはいまいち理解していないようで、キョトンとした顔をしていたけどね。