第七十七話 Ⅳ
「あ、お義姉様。今皆でこないだブライトンへ遊びに行った時の8ミリフィルムを観ていたところですのよ」
サロンではレオニードとヴェーラ、そしてJr.が先日家族で訪れたブライトンで撮った8ミリフィルムを上映していたようである。カーテンを締め切り、白い壁に砂浜ではしゃぐJr.が大写しになっている。
「母上、遊園地とても楽しかったですね」
Jr.が母親と同じ瞳の色を輝かせる。
「ええ。そうね。楽しかったわね」
「アイスクリーム、美味しかったですね。父上」
「そうだな。たまにはああいったものも、悪くないな」
夫との間に息子を挟むように掛け、息子に愛おしげな眼差しを向け、あどけない話に耳を傾けている夫の横顔を眺める。
彼は、申し分のない良い父親だと思う。
愛情深く、幼い子供や老人、女性に対してレオニードは本当に優しい。
これが彼のまさに本質なのだろう。
再会した息子もあっという間に父親に懐いた。
無邪気に甘えてくる我が子にレオニードも、そして彼の妹のヴェーラも、惜しみのない愛情を注いでくれている。
これでいいのだ。
これで、ここで再び家族として集結し、幸せになるのだ。
だけどー。
アデールはこの幸せに、今の現状に、どこか釈然としていない自分もまた自覚していた。
ロンドン市街にオフィスを構えるレオニードは市街にも住居を持ち、平日はそこに詰めている。
週末に郊外のこの屋敷へ戻り、家族とともに休日を過ごし、またロンドンへと戻って行く。
離婚してから再会するまでの時間を思えば、これだって過ぎた幸せかもしれない。
でも
だけど…。
離れていたから、離れていたからこそ、もっと、毎日、日々一緒にいたい。
ペテルブルクのモイカ宮殿での、短い間だったが、夫と過ごした真の夫婦としての時間の続きがまた再開するものだと、アデールは心のどこかでそう思っていた。
これでは…週末の限られた時間しか一緒にいられないのでは、実質離婚後と、さして変わらないではないか。
そしてそんな自分を、まるで、レオニードと再会した途端に昔のような我儘で独占欲をむき出しにした自分の一面が再び顔をもたげてきたことに、アデール自身も戸惑いを感じていた。
現にー、制御できないこの感情に振り回されて、せっかく良い関係を築いていたヴァシリーサ・ミハイロヴナ夫人に当たり散らして、彼女を困惑させることになってしまった。
成長したはずなのに、成長出来ていない自分、出産子育てそして自立を経て自分の感情をコントロールする術を得たはずなのに、その実感情に振り回されている自分。
ありたい自分とありのままの自分とのギャップに、アデールは苦しめられていた。
そして何よりーー
レオニードがヴァシリーサに引き合わせたという、ユリアという女性の存在。
思えば離婚する少し前から、レオニードは任務で頻繁にドイツを訪れていた。
聞いてもどうせ答えてはくれやしないと、あえてアデールもその任務のことは夫に問いただすことはなかった。
それは夫婦仲が回復した後もそうで、結局アデールは夫が革命前にドイツでどのような任務に就いていたのかつゆほども知ることもなく、離婚に至ったのだった。
今になって、そのドイツの任務の重要なパートナーである人物の一人が若く美しい女性で、しかも亡命後のレオニードたちの身柄を受け入れ、一年ほど共に過ごしていたと知り、アデールの心は千々に乱れていた。
自分が立ち入ることのできない夫のオフィスに出入りできる立場の女性。
ビジネスを展開し、夫と対等に物を見、話せる女性。
そして何よりー
自分の知らない夫の一面を知っている女性。
まだ見ぬユリアという女性の存在が、自分の中で日々不気味にムクムクと大きくなっていくのをアデールははっきりと感じていた。
そんな時だった。
あの騒ぎが起こって、それによりアデールの人生が、またしても思わぬ方向へと急展開していったのは。
〜〜〜〜
「その…だな。我々も、こうして再会したことだし、そなたさえ良ければ、きちんとこの際復縁をせぬか?」
無事クリミアから救出され、自分たちを迎えてくれたレオニードと、当たり前のようにまた一緒に暮らし始め、新しい家族の形が再スタートを切っていたものの、やはり改めてこのようにプロポーズされると、感激もひとしおだった。
「あぁ、レオニード!」
「またここ英国で、夫婦として、そしてJr.の両親として、再スタート…してくれぬか?」
「わたくしで…わたくしで、よろしいのてすか?最早皇帝の、忠節を誓った君主の姪でもない、ただのつまらない女です」
「…別れた時に、伴侶になる女は終生そなただけ と申したであろう?そなたでないとダメなのだ。…それに」
そこまで言うと、少し言葉を切ってレオニードがプッと小さく笑った。
「それに…なんですの? 」
ーー笑っていないで仰って?…イヤな人!
レオニードの顔を怪訝そうに見上げそう言ったアデールに、レオニードがその続きを告げた。
「自覚はしていないようだが、…そばで見ていると、そなたはなかなか面白い女だぞ?よくよく観察していると全く退屈せぬ」
そう言うと、レオニードは仰け反って笑い出した。
「ま…まぁ!か、観察なんて、イヤな方!もう!もう!!」
ーーハハ…!すまぬ。でも、本当のことだからな。時にそなたは幼いJr.よりも、予測のつかぬ行動や言動をとるゆえ…。
ーーもう!いつまで笑っていらっしゃるの!イヤな人!!
ーーすまぬ…。ハハ…ハハハ!
喉仏を見せて仰け反りながら笑っているレオニードと、そんなレオニードに真っ赤になって憤慨しながら逞しい胸板を白い拳で叩いている、そんな微笑ましいやりとりを、少し離れた場所でー、アンナ、プリンセス・アナスタシアがジッと見つめていた。
〜〜〜〜〜〜
あの女が憎い。
義父が、従姉のアデールに復縁のプロポーズをしているのを、偶然目にしてしまった。
昔から私はあの従姉が大嫌いだった。
高慢で贅沢で我儘で派手好きで浅はかで、自分の美しさと地位をこの世の唯一の価値基準にして…他人の心のことなど何一つ思いやることのできない女。
皇后でありながら国民からも誰からも愛されず、それでも必死にあの国で、宮廷で、頑張っていらしたお母様のことを、いつも悪しざまに言って、あのイヤな取り巻きたちとお母様のことを揶揄して、笑っていた。
その心無い言葉を、嘲笑を耳にするたび、私は姉たちと涙を流していた。
革命が起こり、母たちは殺され、ただ一人生き残った私は、新しい身分と名前を得て、彼女の元夫だったレオニード・ユスーポフ侯爵の義理の娘となった。
淡い想いを抱いていた侯爵が、父親になってしまったのは、ちょっと切なかったけれど、でも侯爵に娘として愛されながらこれからの人生を穏やかに生きるのも悪くない…とそう思い始めていた矢先だった。
春になってジョージ5世陛下がマリア・フョードロヴナ様のために差し向けた軍艦マールバラで、祖母と共にクリミアに幽閉されていたあの女も救出されてロシアから出国した。
父はわざわざ寄港先のイスタンブールまであの女を迎えに出向き、あの嫌なアデールが英国のこの静かで心地よい屋敷にやって来た。
別れたのに、まるで妻のような顔をして。
皇帝であった父を出し抜くようにして出産した、侯爵との間に出来た子供を連れて。
皇帝の姪であるアデールの極秘出産は、当時ラスプーチン神父様の庇護者だった母を激怒させた。
産んだ子供の父親である侯爵は…ラスプーチン神父様の宿敵だったから。
母の怒りとアデールを罵る言葉は、今でも耳の奥にこびりついて離れない。
1917年にロシアを出てから風の噂で、アデールが他の皇族たちとクリミアのヤルタに幽閉されていたと聞いた。
良かれと思い離婚して皇族に戻したことが仇となり、幽閉の憂き目にあった元妻と子のことを、義父は何とか救出出来ないものかと各方面に働きかけていたが、正直私はどうでもいいことだった。
運がなかったのね、アデール。
でもそれは、皇族に連なる、ロマノフの名を冠する人間は皆同じこと。
私のお母様やお父様や…姉たちや弟のように。
世論を恐れ仲の良かった従兄弟である父とその家族さえ、救い出すことができずに手をこまねいていたあの臆病なほどに慎重なジョージ陛下は、また手をこまねいているうちに、手遅れとなり、結局義父も別れた妻子のことを諦めざるを得ないでしょう。
そして
私たちは、今まで通りだ。
アデールたち国に残された皇族は、ヤルタで囚われの時間を送り、命からがらあの国を逃れた私たちは、ここ英国の静かな街で余生を過ごす。
だけど運命は思いがけない形で私の予想を裏切った。
母后であるアレクサンドラ様にせっつかれて叔母に当たるマリア・フョードロヴナ様を救出する為にジョージ五世陛下が差し向けた軍艦に、アデールも又息子と共に救出され、この英国へやって来たのだ。
幸せで舞い上がったような彼女の顔を見た瞬間、私の中で経験したこともない猛烈な嵐のような憎悪が吹き荒れた。
ーーなぜ?この女が私と父の穏やかな家にズカズカとやって来るの?
ーーなぜ?この女は殺されずに今ここでのうのうと生きているの?
ーーなぜ?私の家族は手をこまねいて見殺したのに、…そして唯一生き残って国を逃れて来た私の存在を抹殺したくせに、この女のことはお助けになられたの?
ーーなぜ?なぜ?なぜ??
何個もの何故という理不尽が、私の中の猛烈な憎悪を呼び覚ました。