第百三話 C/W 息子誕生から洗礼式までの色々なこと
1
あの怒涛の出産の長い1日を経て、俺たち家族に新しい一員が加わった。
長男のミヒャエルだ。
金髪碧眼の見た目は母方の特徴を色濃く引き継いだように見えるこの赤ん坊だが、大柄な体格などはどうやら俺の、ミハイロフ家の血が出ていると、俺のばあさんは言う。
とは言っても赤ん坊の目や髪の色なんて成長するにつれていくらでも変化するし(俺も生まれたばかりの頃はブロンドだったらしいしな)、ガタイの良さも、おっさん始めアーレンスマイヤ家の人々の長身の骨格からすると、あながちミハイロフ家の血だけとも言い切れない。
ま、こいつの周りの親族の人間たちが、「この子の目は髪は体格は我が家の血だ」と言ってくれると言うことは、もうその事が皆に誕生を心待ちにされて生まれてきた子と言う証であるから…何というか、婚外子の俺にとっては、それはすごく胸が熱くなったな。。。
(何たって俺は、初対面のばあさんから最初にかけられた一言が「ミハイロフ家にはない髪の色」…だったもんなぁ)
身体が大きく生まれる時こそ母親を難儀させたミヒャエルだったが、生まれてからはよく眠り、よく乳を飲み、母親以外の人間にも機嫌よく抱かれる、まあ、実に性の良い赤ん坊だった。
難産を乗り切ったユリウスの身体の回復も順調のようだ。
日々育児をしながら、仕事をセーブしてゆるゆると体力の回復に努める。
ミーシャは身体も健康で発育も極めていいらしく、誕生後検診してくれたカタリーナさんにもフリデリーケからも「申し分ありません。お母さんも坊やも、満点です」とお墨付きを貰い、満点を貰った俺とユリウスは、いい大人なのにガキのように喜んだのだった。
言うまでもなくユリウスは経営者だ。
自分の裁量で会社をいくつも動かしている。
だから女の命をかけた大仕事たる出産の後でも、完全に仕事から離れる訳には行かないのが現実だ。
可能な限り業務や権限は役員たちに委譲したようだが、それでもユリウスじゃないと代わりのきかない案件も多々あるようだ。
なので家には頻繁に秘書や役員のアニエス、それから財務関係の顧問を務めるヨシアスらが顔を見せ、ミヒャエルを腕に抱いたユリウスに裁定を仰いでいる。
「せめて出産直後の今だけでも完全に仕事から離れて休んだらどうだ」という俺の提案をユリウスは「今は電話もあるし、皆もウチまで来てくれるし、何ならオフィスだって目と鼻の先なんだから散歩がてらにぼくが顔出しても全然いいし。問題ないよ。だって、マリア・テレジアもクララ・シューマンも出産してすぐ仕事の第一線に戻ったし、それは農家のおかみさんもパン屋のおかみさんも同じだよ」と晴れやかな笑顔と共に一蹴されてしまった。。。
やれやれ、我が嫁さんながら、勇ましいというか頼もしい限りだぜ。
(…ん?マリア・テレジアもクララ・シューマンも…のくだりはどこかで聞いたような。。。まあいいか)
そうは言っても、やはりまだ出産時に使った体力が完全に回復出来ていないのに加え、真夜中でも乳を求めて泣きぐずるミーシャの授乳に追われて慢性的な睡眠不足に陥っているユリウスは結構しんどそうだ。
なのでユリウスじゃなければできない事以外は俺も育児に参加することにした。
アレだな。共産主義的男女平等ってやつだ。
(まあ…色々問題もないことはないが…共産主義だって悪いとこばっかじゃないんだぜ?)
着替え、沐浴、おしめの交換、洗濯…何でも来いだ。
これはすっげ〜いい。
まだ言葉の通じない動物みたいな赤ん坊でも、毎日世話してくれる人の手はちゃんと覚えてくれるものだ。
沐浴させる時、あやす時…抱き上げて触れたミーシャの反応に、いちいち心の柔らかい部分がなんとも言えない震えるような感情が湧き上がる。
(これがリーザも芽生えたという母性ってやつか?)
ま、世間一般の強くて厳格な親父像とは…ちと異なるが、俺は今すごく満足だ。
俺の前半生は、祖国に捧げられていた。
俺が生まれた帝政ロシア帝国は、莫大な富と権力を持った皇帝一家を頂点にごく一部の限られた貴族たちと一握りの裕福なブルジョワジーのみが人間として生きているような国だった。
その下にいる多くの国民の人生を踏み台にし、彼らから搾取した富で一握りの人間たちが栄え太っていた歪んだ社会構造と与えられた富と特権にあぐらをかいた貴族達の腐敗も相まってあの国の国力は、20世紀に入る頃には産業革命を迎え機械化民主化が進んだ諸外国に大きな遅れを取っていた。
諸外国を広く見聞する機会に恵まれた俺の親父や、それからドミートリィのような一部の人間がこの状況に焦りを感じて、社会改革に乗り出した。
先見の明のあった彼らの取り組みは、残念ながらまだ時期尚早だった。
彼らの目指したものは途中で踏み躙られて、志半ばに命を散らして行った。
だけど彼らの残した志は、何度迫害され踏みつけられながらも、次の世代へ確実に引き継がれて行った。
国を変えたい。国民全てが人間らしく生きられる世の中を作りたい。
誰一人虫ケラのように踏み躙られることなく誇りを持って生きられる社会を作りたい。
そんな熱い思いは革命の機運という明確な形となり、やがて専制君主社会の分厚い氷を砕き溶かして行った。
そして、俺たちはとうとうあの北の大地に世界にも類を見ない新しい国家を打ち立てた。
あの新しい国は、紛れもなく俺が、俺たちが産み落とした新しい命、我が子ともいうべきものだった。
俺たちの、痛みー
先達や同志の死や自身の体験した亡命や強制労働、様々な産みの苦しみを糧にして、旧社会の人間たちの血で産湯を使い、この世に誕生した嬰児だった。
だがー
俺は、俺たちは子供の育て方を誤ったのかもしれない。
俺の夢見た理想の国とは違った方向に進んでいく「我が子」の暴走を止めようとした俺は、子供から「いらない親」の烙印を押され、抹殺されることとなった。
…まあ、結末はそうならず、持ち前のしぶとさと悪運に助けられ、命と身体以外の全てを奪われた状態で国から放り出されたわけだけど。。。な。
何だか湿っぽい感傷に浸っちまったな。
…つまり何が言いたかったかと言うと、人生をかけた使命と矜持、そして拠り所となるアイデンティティを失った俺は、命を長らえてもただの生きる屍だった。肉体的な生命の尽きるその日まで、ただ余生を長らえていくだけの、そんな日々だった。
いや
だと思っていた。
俺の人生には第二幕が用意されていた。
運命の強い力が、俺を不滅の恋人の元へ引き寄せた。
次の人生に尻込みするチキンな俺の背中を強引に押し出してくれた強い手があった。
そして
再び巡り会った不滅の恋人の手を取り、不滅の恋人は永遠の伴侶となった。
愛する妻とその家族。
青春時代を送った第二の故郷とも言えるバイエルンの美しい街で紡がれてゆくかけがえのない日常での中で、俺は新たなアイデンティティと人生の目的を得た。
そして生まれた俺とユリウスの血を引く新しい命。
一度「しくじった」俺に、運命は、いや違うな、不滅の恋人がもう一度チャンスを与えてくれた。
眩しいぐらいにまっさらな未来の広がっている俺の息子。
俺の、ユリウスの、アーレンスマイヤ家の、そしてお祖母様の喜びと幸せの象徴。
こいつのために父親として俺が出来ることなんてたかが知れちゃいるが、自分が望まれて生まれた存在なんだ、自分の存在が、たくさんの人を喜ばせ幸せにしたんだという、そのことだけは自覚して成長して行って欲しいと思ってる。
多くは望まない。ただ幸せに、そして自分が幸せであるのと同様に、他人の幸せや人生も尊重できる人間であってくれればそれでいい。
だから俺は、そのことを常に確認するためにも、こうして日々育児に手を出しているのかもしれないなあ。
(まあ、これは後付けの理由だけどな。本当のところはただただ可愛いからつい手が出てしまうってとこだが)
おっと!
…感傷に浸ってるうちに、ミーシャがむずかり始めたぜ。
「ンギャアア〜」
「どうした〜。…どらどら。ちょっと失礼しますよ」
とりあえずむずかる息子を抱き上げおしめを確認する。
「濡れてるな…。どりゃ。あ〜、そんなに泣くな。すぐ気持ちよくしてやるから」
息子をベッドに下ろすと、ベッドサイドのライトを点け、俺は傍の小さなラタンのチェストから真新しいお襁褓を取り出した。
「お〜。毎回いい飲みっぷりなだけあって沢山出たなあ。よしよし気持ち悪かったろ。…ホレ、サラッサラの新品にしてやったぞ。ん?気持ちいいかあ。そうか〜」
小声でくっちゃべりながら息子のお襁褓を手早く取り替える。
手際ももうお手のものだ。
湿ったおむつにむずかってたミーシャがご機嫌になって手足をばたつかせて見せる。
「よしよし。ご機嫌だな。…マーマは今ぐっすりだからな。次のぱいぱいの時間までもうちょっと眠らせてやろうな」
育児に疲労困憊のユリウスの寝息を傍に聞きながら小声でミーシャに言い聞かせて額にキスをしケットを掛けてやる。
殆ど長泣をしないミーシャは、すぐにすやすやと寝息を立て始めた。
「フアァ」
…今何時だ?
ベッドサイドの時計で時間を確認する。
「おお…もう1時か…さすがにねみぃわ」
ライトを消してベッドに潜り込む。
その気配でユリウスが目覚めてしまったようだ。
「ん…アレクセイ…今何時?あ…ミーシャ…」
上体を起こし眠い目を擦ながらもまだ半分朦朧としているユリウスに、
「大丈夫だ。よく眠ってるから、もうちょっと寝てろ」
と身体を起こしかけたユリウスをもう一度寝かせて寝具を引き上げる。
寝具の中のユリウスがそっと俺の方へ身体を擦り寄せてきた。
ミーシャと同じ、甘いいい匂いがする。
「アレクセイ…ありがとね…」
俺の胸に顔を擦り寄せながらユリウスが囁いた。
返事の代わりに俺は、再び眠りに落ちていくユリウスの髪を、彼女が眠るまで何度も撫で続けた。
2
ミーシャが生まれてまもなく1ヶ月に差し掛かる頃、俺とユリウスは息子の洗礼について話し合った。
「やっぱりこの地域の社会の一員として成長していくのならば…洗礼はした方がいいとぼくは思う」
ユリウスは、洗礼を受けていない。だけど信仰は厚い。
生まれた環境が環境だったなら、熱心なカトリック教徒だったのだろう。
一方俺は一度主義信条から自ら信仰を棄てている。
生まれた時は正教で洗礼を受け(ロシア正教は認知されていないいわゆる私生児の信仰にも割に鷹揚だ)、マルクスに共鳴してからはその信仰を棄てた。
亡命してドイツ人クラウス・ゾンマーシュミットとしてゼバスに在学していた時に組織がクラウス・ゾンマーシュミット少年の洗礼証明書もぬかりなく偽造してくれているので、表向き俺は現在もカトリック教徒ということになってるけどな。。。
…信仰心厚いユリウスが洗礼を受けられなかったのに対して、そうでない俺が偽造とはいえ書類上はれっきとしたカトリック教徒でござーいというのは…正直決まりが悪いし、何だかユリウスに申し訳ない気持ちにすらなる。
「あなたさえ良ければ…ミーシャを教区のカトリック教会で洗礼を授けて頂こうと思ってるんだ。やっぱりこの街で成長して生きていく上で、教会のコミュニケーションって大事だと思うんだ。だから、リーザも離婚してこっちに戻ってきた時に、婚家のカルヴァン派からカトリックに改宗させたんだ。今通っている女学校もカトリック系だしね。…わざわざ洗礼を受けないことで被る不利や軋轢を進んで受け入れることもないと思って。事実ぼくは洗礼を受けていなかったから、何度も縁談が白紙になっちゃったしね」
そう言ってユリウスはちょっと肩をすくめて見せた。
「…そりゃ、バイエルンの男たちは、惜しい大魚をみすみす逃したな。しかも金色に輝く、それは美しい魚だ」
ユリウスの金の髪を指に絡める。
「え〜?ぼくは魚?まあいいや。でね、あなたの意向を聞きたい。やっぱり洗礼…宗教の信仰は否定的?どうしてもあなたの主義に反するなら、洗礼は見送ろうと思ってる」
「うん。いいぜ。授けてもらおう。洗礼。俺はお前の意見に異論はないよ」
「え。いいの。」
俺があっさり賛同したことが、ユリウスは意外だったようだ。
まるで鳩が豆鉄砲食ったみたいに碧い目をパチクリしている。
「何て顔してんだよ」
「だって」
「お前の言うことは尤もだと思うし。それに俺が信仰を持たないのはあくまで俺自身の信条だ。それに子供を合わせようとは思わないな。それは俺のエゴだ。…親の俺に信仰もないのに洗礼を授けてもらうのは、ちょっと後ろめたい気もあるが…それでもよければ俺はミーシャがカトリック教徒であることに異論はないぜ」
ーーそれに、成長してミーシャが信仰を棄てたいと思ったなら、その時は自分の意思で信仰を手放せばいいってだけの話だ。
そう言ってニッと笑った俺に、「棄てるの前提っていうのも何だかなあ。…でも、ぼくもそれでいいと思う。この先信仰を持ち続けるかは…ミーシャが自分で決められるようになったら、決めればいいと思う」と、ユリウスもまあ、俺の考えに同意してくれた。
洗礼は受けるという方向で決まったので、日取りは、ミーシャが生後1ヶ月を過ぎた月の中の日曜ぐらいがいいだろうということになった。
教区の神父さんへ挨拶に行ったり、代父母を頼んだり(これはリーザの時と同様ダーヴィト夫妻が快く引き受けてくれた)、祝い菓子のドラジェやあいさつのカードを発注したりと、式当日に向けて色々動き出す。
式の後のお祝いは、アーレンスマイヤ家が屋敷で催してくれると言ってくれたので、ありがたく好意に甘えることにした。
アーレンスマイヤ本家の嫡子というわけでもないし、俺たち夫婦の希望もあって(何たってこないだ俺ら夫婦の挙式を済ませたばかりだしな)、祝いは身内だけでささやかに行うことにした。
式の後の祝いの打ち合わせも兼ねて、息子を連れてアーレンスマイヤ家を訪れた。
赤ん坊の力は偉大だ。
「勤務中でございますれば」とばかりにキリリと引き締まった顔をした使用人たちが、ミーシャを一眼見るなり皆一瞬で相好を崩す。
「まぁあ、可愛らしい」
「立派なお坊っちゃまで」
屋敷に入るなり、至る所で、ユリアお嬢様の赤ん坊誕生の報に屋敷への来訪を今か今かと待ち焦がれていた使用人たちの人垣に取り囲まれてしまった。
実家の使用人たちから口々に息子を称賛されたユリウスは、とても誇らしげだ。
目をキラキラさせて祝福の言葉を受け、執事や古参の女中などはユリウスから「抱いてやって」と手渡されたミーシャを恭しく受け取ると、感激で目の縁を僅かに赤らめていた。
サロンでひ孫を待ち構えていたおばあ様に、挨拶もそこそこにミーシャを手渡す。
俺がガキの頃からしたら想像もつかない、蕩けるような笑顔でばあさんが腕の中のミーシャをあやし始めた。
ユリウスと話し合って決めたことをアーレンスマイヤ家の人たちに伝えた。
「ミヒャエルに洗礼を授けて頂こうと思っています。つきましては来月の中頃の日曜日に教区の教会で、洗礼式を執り行って頂こうと思っております」
「そうか。うむ。あい分かった。ではそのように心算しておこう」
「ダーヴィトとマリア・バルバラ姉様には、リーザの時と同様、代父と代母になって頂きたいのですが」
「ああ、勿論だ。光栄だな。マリア」
「ええ」
「ありがとうございます」
「洗礼の祝いは、リーザと同様、ここで開くとよい。招待客はどのぐらいを考えている?執事に言って色々進めていくがよい」
「えーとね。父様。…そのことなのだけど、出来ればお祝いは身内だけで、ごくささやかに祝いたいと思ってて…」
「ほう。アーレンスマイヤ家の、久々に生まれた男児であるが…」
「それもそうだけど。…でもこの子はアーレンスマイヤ家の嫡流ではないし。分は弁えておきたい。周りに対しても、それからこの子のためにも。それにこないだぼくらの結婚式に皆さんご参列くださったばかりなのに、祝い事に招待すればまた物入りになるし、このご時世…ね」
ドイツは現在、先の戦争や革命がもたらした社会の混乱で底の見えない不景気に喘いでた。
それはアーレンスマイヤ家と親密な付き合いのある家も例外ではなく。。。。
戦前、いや、今世紀に入って社会の変化(有り体に言えば近代化というべきか)から取り残されジリジリと地盤が沈下し続けていた所に、戦争と敗戦、そして革命による輪をかけた社会の激変だ。死に体で体面をどうにか保っている旧家も少なくない。
たとえ嫡男ではなくとも、アーレンスマイヤ家に連なる者の洗礼の祝いとなれば、それなりに物入りになって、屋敷を預かる執事たちの頭痛の種を作ることになる。
「お付き合いのある方々には、折を見て報告することにするよ」
「そうか。では祝いは身内だけで行うとしよう。フリードリヒとゾフィには話したのか?」
「叔父様は、お式に参列して下さるって。…叔母様は今ホラ…」
「だったな。あいつは今アフリカ…か」
このおっさんの妹でユリウスの叔母に当たるゾフィさんは、ユリウスと丁度前後して末の息子の嫁の出産が重なり、俺たちの式の直後息子夫婦が現在暮らしているという アフリカへ発ったらしい。
(末息子は建築技師なのだそうだ)
「今はどこだったか。ケープタウンか?」
「いや…そこで請け負っていた仕事は多分終わってる。…今はローデシア…だったっけな。コンゴだったっけ…」
なんと、その末息子の嫁というのが、あのキッペンベルク一族のモーリッツのお目付役だった従姉の女性なのだという。名はマルトだと言われて、ゼバスの演奏会にも度々キッペンベルク夫人に付き従って顔を見せていた、モーリッツにどこか面差しの似た、だけど聡明そうな眼差しをした女性のことを思い出した。ユリウスとは割合歳が近く、この保守的な街で育ったわりにリベラルな視点と感性を持っていた彼女は、ユリウスが認知されてアーレンスマイヤ家に来た時から、様々な偏見や先入観抜きにフランクに接してくれていた数少ない同世代の女性の一人だったらしく、やがて彼女が技師の現夫と結婚して世界中を飛び回るようになってからも頻繁に手紙をやり取りしている仲らしい。
「こないだもらった手紙で、もうすぐ出産と書いてあったから、もしかしたらもう産まれているかもね」
「そうだな。…では誕生の知らせが来たら、アフリカに祝いの品を贈るとするか。それはそうと、お前達は祝いの品は何がよい?」
「お祝いもして頂くし、気持ちだけで充分だよ。…ただリーザの時と同じように、庭に記念樹を植えさせてもらってもよい?」
「相変わらず欲がないな。では記念樹は、庭師と相談して植える木を手配してもらうとよい」
「ありがとう、父様」
「洗礼の記念樹なんてあったのか。でもいいもんだな」
記念樹か。初耳だったな。
「でしょう?リーザの時は、ライラックを植えた。初夏に木いっぱいに咲く花がとても可憐で綺麗だったから。そうだ、あとでリーザの記念樹を見ながらお茶にしよう。おばあさま、今年の花はもう終わってしまったけれど、すくすくと育ったリーザのライラックの木をご覧になってください」
「まあ、それは楽しみですね」
ミーシャをあやしながらおばあ様がにっこり微笑んだ。
授乳でユリウスが一旦場を外したタイミングで、おばあ様がそっと俺の袖を引っ張って耳打ちした。
「なんだよ」
「アレクセイ。ときに…ミーシャの洗礼式のガウンは…もう用意したかぇ?」
「へ?」
「へ、じゃありませんよ。ガウンです!」
「ガウン?…あぁ。…ガウンね」
俺は大人になってからは交流のある同志たちもまあ…少なくともタテマエ上は信仰を棄ててたから、子供が産まれても洗礼とは無縁だったし、一瞬ピンと来なかったぜ。
大昔ガキの頃に、親類だかの子供の洗礼式に参列したのを思い出す。
水盤にザブンでギャン泣きの記憶と共に、赤ん坊が身につけていた白いレースのドレスがなんとなく記憶に蘇って来た。
「白い晴れ着みたいなやつですよね。まだ用意してませんよ」
「レナーテさんが用意しているということは?おばあちゃまの手作りという場合も多いですからね」
「さあ…。それもないと思いますが。ウチは俺ら親の宗教的な事情も事情だから、洗礼を受けると決めたのもついこないだだったし。特に用意している感じはなかったような」
「そうですか…」
「なんだよ。何なんだよ!言いたいことがあるんならハッキリ言ってくれよ」
遠回しに俺に質問しては一人満足げに頷いたり、どこかもじもじしているばあさんに思わず焦れてせっついてしまう。
「あのですね。もしまだ洗礼式のドレスを用意していないのならば、是非ね、これを使ってくれたらと思ってね…」
おばあさまがそう言って見せてくれたのは、小さな、だけどそれは美しい子供用の洗礼のガウンだった。
「これ…」
「お前の父親が産まれたときに、お祖父様が作らせたものでね。ミハイルも、それからドミートリィも袖を通したものなのですよ。もう何十年も経っているから、だいぶ古びてはいるのですが、ちゃんと風も通して綻びも補修して…」
「なぁに?それ!」
そこへ授乳を終えたユリウスが戻ってきた。
さすがは女 というか、ばあさんの手にしていた美しいレースワークに目ざとく反応する。
「あ、ユリウス」
「綺麗!これ、どうされたんですか?…え、もしかして」
青い瞳をまん丸に見開いて、俺とばあさんを交互に見る。
そんなユリウスにおばあ様は大きく頷いて見せた。
「ええ。あなた達の赤ちゃんの晴れ着に…と思って、ね。だいぶ古いものですが」
「…嬉しい!嬉しい!!ありがとうおばあ様」
ミーシャを片手で抱いたまま、もう一方の手でユリウスがばあさんに抱きついた。
「使って貰えて本当によかった。一応持っては来たものの、使ってもらえるか期待半分…と言ったところだったのですよ」
「そんな…。リーザに着せたガウンは元の婚家に伝わるものだったから…離婚したときにあちらに残してきたので。急ぎ用意しようとは思ってたんです。でもこんな見事なガウンで洗礼式に臨めるなんて…考えてもいなかった!」
「なんでもな、俺の父親と兄貴も着たものらしいぜ。だいぶ年代物だな」
「そうなんだ!」
「残念ながら、この子は、アレクセイは7つになる前にミハイロフ家に引き取ったものだから、このガウンとは縁が無かったのですがね」
「ま、でも、こうして一代俺を飛ばして、俺の息子が着ることになったからいいんじゃないですか?」
「何だか…感慨無量だな。…アレクセイのお父様とお兄様…ミハイロフ侯爵家の人たちが身を包んだ由緒あるガウンに、この子も身を包むなんて。全然意識したことはなかったけど…この子にも確実にミハイロフ侯爵家の血が流れているんだね…」
「侯爵家…ね。俺だって意識した事なんて殆どないぜ。なんたって俺は、ミハイロフ家の面汚しだからな…」
「おやまあ、寂しいことを言ってくれますね。貴族という身分制度は、確かにお前の信条とは相容れないものかもしれませんが…それでも、お前のお父様も、お爺さまも、それからドミートリィも、皆伝統を、ミハイロフ侯爵家という家名を背負うことに、誇りを持っていた…と思いますよ。その立場であることを好むと好まないとは別に、ですがね」
「…そうですね。お爺さまや父さんのことは分かりませんが、兄貴は、ドミートリィは貴族のこうあるべきという理想の姿を具現していたと今でも思っています。…祖国の民を思って社会を変えようと革命に身を投じて…結果その身を散らせたことも含めて。俺は…ドミートリィみたいになりたかった。俺の先には…死んでしまっても尚ずっとドミートリィが歩いていて、道を示してくれていた」
俺の言葉におばあ様が大きくうなずく。
「お前は立派な、そして典型的なミハイロフ家の男だと…わたくしは思いますよ。情熱を持って自分の理想を貫いて行く。そういうロマンチストな所が、ミハイロフ家の男の最大の魅力なのですから。ねえ?ユリウス」
ばあさんに振られたユリウスが、今日一番の輝くような満面の笑みで大きく頷いた。
「ハイ!まさにその通りです。おばあ様」
…だはは。なんか照れるぜ。
3
ミヒャエルの洗礼を祝った最後に、皆で記念樹の植樹をした。
まだ小さなー、まるでミーシャのように小さなオークの若木を、屋敷の庭園の一角に植えつけた。
庭師の指導を仰ぎながら、皆で少しずつ土をかけ、最後にミヒャエルの名前と今日の日付が刻まれた真鍮のプレートを掛けた。
リーザとテレーザが手作りしてくれたという、小鳥や花や星を象った小さなオーナメントを細い枝に吊るして、最後にお決まりの記念写真で〆た。
(勿論カメラはダーヴィトの愛機のライカで、撮影は執事だ。もはやカメラこそダーヴィト所有だが、奴よりも遥かに執事の方が撮影に精通していると言っても良いだろう)
ミーシャを中心に家族全員の納まった記念写真は、きっととてもいい思い出になるだろう。
何枚も撮ったうちのいくつかは焼き増しして、出産の祝いも兼ねて今日の祝いを送ってくれたユスーポフ夫妻や、ユリウスの元上司だったという今はロンドンに移転した例の合弁会社の社員たち(やはり心づくしの長男誕生の祝いの品をもらった)、そしてユリウス出産の直前に後ろ髪を引かれる思いでスイスへと戻って行ったアンナに、内祝いと共に送ろうとユリウスと決めた。
勿論おばあ様にも今日の写真を沢山持って帰ってもらうつもりだ。
ミハイロフ侯爵家に伝わるガウンに身を包んだ俺の息子に、きっとオークネフもリザも喜んでくれるに違いない。
4
記念すべき息子の洗礼式が終わり、息子が記念すべき日に贈られた祝いの品々をユリウスと二人で整理して行く。
祝い品を整理し、ちょっと洒落た装丁の帳面に、贈り物の品々と贈り主の名前をユリウスが書きとめる。
「イザークとフリデリーケから、板絵」
「デザインは?」
「うーん…聖体と、鳩…かな?」
「ハイ。イザークとフリデリーケ…聖体と…鳩…ね」
俺が品を検め口頭でユリウスに伝え、それをユリウスが記録していく。
傍のベビーベッドでは作業に勤しむ俺ら両親にはお構いなしと言った体で、ミーシャがグッスリだ。
(こういう所が妙に肝が据わってるというか、神経質じゃないというか。。。ま、育てやすいっちゃ育てやすいんで助かってるけど)
「次。ユスーポフ夫妻。銀食器」
「ハイ。ユスーポフ夫妻から…銀食器…と」
「アンナから、仕掛け時計」
「ハイ、アンナで…仕掛け時計」
「ダーヴィトとマリア・バルバラさんから…聖書」
「ダーヴィトとマリア・バルバラ姉様…聖書…と」
「それから…フリードリヒさんからは…馬の鞍?…えらい変わった祝い品だな」
真新しい皮の匂いがツンと立ち上る子供用の鞍を手に取り繁々と眺める。
革も細工も最高級品だ。
「うん。何かね…アーレンスマイヤ家の伝統みたいで。男の子が産まれたら、誕生の祝いに近しい親族が鞍を贈るのだって。まあ、とは言っても、うちは久しく男子の誕生がなかったから、父様もいつも贈る側一方で、子供じゃなくて孫だけど…贈られたのはあのお歳になって初めてだったと思う。父様も…それから贈った叔父様も何だかとても嬉しそうだったな」
軍人を多く出している家系ならではの矜持の感じられる、いい伝統だなと思った。
最近は乗馬もすっかりご無沙汰だが、うん、ミーシャが馬に乗れる歳になるまでに、乗馬の勘を取り戻しておいた方がいいな。
それで…
「なあ」
「ねえ」
ーープッ!
同時に声を掛け合って思わず笑ってしまった。
「何?アレクセイ」
「お前こそ何だよ。先言えよ」
俺に促されてユリウスがじゃあ、というように瞳を輝かせた。
「あのね、ミーシャが幾分か大きくなって、馬に乗る練習を始める前にね、ぼくもヴァイオラに乗って勘を取り戻しておきたいなあと思って。勿論ちゃんと専門家がきっちりついて馬の扱い方や乗り方を教えてくれるんだけど、色々なこと…乗るのは勿論、可愛がったり、手入れをしたり、馬の接し方をぼくもこの子に教えてあげたいなあ…なんて。だからね、なんとか時間を作って一緒に馬に…」
「俺も、まさに同じことを言おうとしてたんだよ!俺もさ、馬、ミーシャと一緒に乗馬を楽しめたらいいなと思ってさ。で、俺もまあ久しく馬には乗ってないから、ちょっとアーレンスマイヤ家の馬を拝借して勘を取り戻しておきたいな…って言おうとしたんだ」
「ふふ。同じこと考えてたんだね。ぼくたち」
「夫婦似たもん同士ってヤツだな」
「もう少し大きくなったら父様が、ミーシャのためにポニーをお迎えして下さるって」
「へえ。そりゃ楽しみだな。俺もな、7つの誕生日におばあ様から仔馬を贈られたんだ」
「そう言えば昔話してくれたよね。…マルコー…だっけ?」
「おお!よく覚えてんな」
「毛色は?」
「芦毛だな」
「そっか〜。じゃあ姉様のアテナと同じだね。あの子は若駒の頃は鹿毛だったのだって。不思議だよね〜。芦毛って。茶色かった頃のアテナなんて想像もつかない」
「俺のマルコーも、仔馬の時はお前の愛馬みたいな青毛だったな」
「そうなんだ。でもまだ想像がつかない…かな。。」
「何がだ?」
「ミーシャが、赤ちゃんのミーシャが大きくなって子供になって…馬に乗ってる姿が…ね。あなたにそっくりの、きかん坊な目をした男の子になったらいいな。髪は、あなたのようなサラサラの亜麻色になるかもしれない」
「俺はお前みたいな天使のブロンドもいいと思うぞ。まだ、毛は殆ど生えてないけどな」
二人でベビーベッドを覗き込み、息子の淡い金髪の頭をそっと撫でた。
頭を撫でられたミーシャの鼻がヒクヒクと動く。
「ふふ…可愛い。よく眠ってるね」
「だな。いつもだったら空腹でグズり出す頃なのに」
二人してミーシャを眺める。
こうしていると、改めて、ああ、俺は恋焦がれたユリウスと結婚して、ユリウスとの子を授かって父親になって…、家族が出来たんだなあと幸せを再確認し、胸がいっぱいになってくる。
想像もしなかった未来が、今俺の現実になっている。
その喜びを、言葉にしてユリウスに伝えた。
言葉になって相手に届けた感謝と愛の気持ちが、自然と俺とユリウスの身体の距離を近づける。
心のままにユリウスを求めた俺を、ユリウスは受け入れてくれた。
柔らかくて、滑らかで、そして頭の芯が蕩けるようないい匂いのする俺の妻の身体。
俺とユリウスは、久々に抱き合って口づけを交わしながら、ベッドに崩れ落ちて一つになっていった。
「ねえ…」
俺の胸に身体を委ねたユリウスが少し甘えた声で俺に話しかける。
「ん?」
ユリウスの髪を指に絡めながら彼女の言葉に耳を傾ける。
「あのね、初めて会って、恋人になった時も…あの頃もあなたはぼくを抱きたいって…思ってた?」
…ンなの、あたりめーだろ。。。
「思ってたよ。お前を…俺以外の男の手に触れさせるなんて、考えただけでどうしようもなく心が乱れて…その後、どうしようもなく悲しくなったよ」
あの時の胸の痛みを思い出しながら…あの時の胸の痛みの分も、ユリウスを慈しむ。
胸の中にしっかりと抱きしめ、両手で滑らかな頬を包み込み、金の頭に頬ずりして、全身でユリウスを愛おしむ。
俺の胸の中でユリウスがつぶやく。
「ぼくも…同じだったよ。自分の使命は…十分理解してたけど、…本当は…お嫁になんて行きたくない。本当は、好きな人以外の妻になんて…なりたくない。…いつかその日が来るのが…怖い。そう思ってた」
「そうか…」
…本当に、俺たちが出会って、一度は別々の道を歩んで、こうして再会するまでにお互い色々なことがあって、でも、それぞれ真剣に自分の人生を歩んで来たんだよな。。。
「アレクセイ…どうしたの?悲しいの?」
ユリウスの細い指先が俺の瞼に触れる。
知らず知らず、涙が頬を伝っていた。
「あれ…。何だろう?悲しい?…じゃないな。これは、嬉しい…かな。どちらかと言うと」
その涙が、悲しみなのか、嬉しさなのか…実のところ俺にもよく分からなかった。
そんな俺の瞼に、ユリウスの柔らかな唇を感じた。
彼女の温かな唇が俺の涙を拭い取っていく。
「アレクセイの悲しみも、喜びも…こうしてぼくが一緒に味わっていく。これから…ずっと、ずーっと。おじいちゃんおばあちゃんになっても、ね」
歌うようなユリウスの囁き声で、瞼に温かな彼女の吐息を感じた。
安らかな幸せと充足感に包まれて、俺たちは生まれたままの姿で固く抱き合って、しばしの微睡に落ちたんだ。
(やがてすぐ、ミーシャに起こされる羽目になったけどな)