第百二話
産まれた子供は元気な男の子だったので、当初の予定通りミヒャエルと名付けられた。
嬰児特有の澄んだブルーの瞳をくりくりさせ、ふくふくとした頬や小さな手も何とも愛らしい。
久々の赤子の誕生を今か今かと待ち侘びていた夫婦の親族たちー、アーレンスマイヤ家の人々とアレクセイの祖母ヴァシリーサが、ベビーベッドの中の小さな天使を覗き見る。
「父様。この子を、アーレンスマイヤ家初の孫息子を、どうぞ抱いてやって」
ユリウスに手渡された小さな命を、節ばったアルフレートの手がそっと受け取る。
中々に肝の座った子で、初めての祖父の腕の中でもグズったりせず、澄んだ瞳を祖父の方へジッと向けている。
手の中の柔らかく温かな重みに、さしもの厳格なアルフレートも、熱いものが込み上げてくる。
「…」
そんなアルフレートに「あれ?親父様、泣いてるの?」と目ざとくダーヴィトが茶々を入れた。
「…うるさい!泣いてなどおらぬ!…大きな赤子で腕が疲れた!…代われ!」
照れ隠しにぶっきらぼうにそう言い返すと、アルフレートは傍らの長女夫妻、ダーヴィトとマリア・バルバラに赤ん坊を手渡し、決まり悪さを誤魔化すように小さく咳払いをした。
「もう、ダーヴィトったら。…お父様が思わず感涙に咽ぶのも、当然と言えば当然よ。…だって、アーレンスマイヤ家は長らく男子に恵まれなかったから」
ーー子供もわたくしにアネロッテ、そしてユリウスと女の子ばかり。おまけにわたくしたち姉妹の産んだ子供たちも…。
「私とリーザ。女の子二人」
母の言葉の続きをテレーゼが継いで、リーザと顔を見合わせ目くばせを交わす。
「お父様にとっては長年喉から手の出るほど望んだ、待望の男の子なのよ。…そんなにからかわないであげて頂戴な」
マリア・バルバラに軽く睨まれ、参りましたというようにダーヴィトが戯けて肩をすくめて見せた。
そんなマリア・バルバラの言葉に
「男であろうと女であろうと、我が子我が孫は等しく愛おしく可愛いものだ」
と、アルフレートがそこはきっぱりと断言する。
「おじいちゃま…」
アルフレートの言葉にテレーゼとリーザが、「ありがとう。おじいちゃま」「大好きよ」と祖父の首に抱きついて頬にキスをした。
「お待たせいたしました。ヴァシリーサ様、どうぞ」
「おばあ様、どうぞ抱いてやって下さい」
初ひ孫の顔を見に我が家まで足を運んでくれたヴァシリーサに、椅子をすすめると、マリア・バルバラが赤ん坊をそっと手渡した。
「ありがとう…。おやまあ、本当に大きくてずっしりとした赤ん坊だこと!おお、よしよし。ミーシャちゃん、ひいばば様ですよ。…この子をこうして抱いていると我が子を、初孫を抱いた時のことを、昨日のように思い出すねぇ」
「おばあ様、アレクセイのお父上もそれからお兄様も、大きな赤ちゃんだったと仰っていましたものね。…抱き上げたり、それから大きいとお乳もたくさんせがまれて、さぞかし大変だったんじゃないですか?」
ユリウスのその質問にヴァシリーサは遥か昔の記憶を手繰り寄せるようなしばしの沈黙の後、小首を僅かに傾げながら孫嫁の問いに答えた。
「そうですねえ…。或いは…そうだったのかもしれないけど、育児が殊更に大変だったという記憶は…今思い返してもあまりないのですよ。…きっとわたくしの育児は、ミハイロフ家の雇った乳母や養育係の手によって概ね行われていたからでしょうね」
ーーあの頃は、貴族階級の子育てなどこんなもの…と思っておりましたが、今となっては、こんなに可愛いのだから、もっと赤ん坊の時分から手元に置いて手づから育てればよかった…と少し惜しい気持ちもしますがね。…ハイ、赤ん坊をお返ししますよ。
ヴァシリーサから赤ん坊を受け取ったアレクセイが、神妙な顔でユリウスと顔を見合わせる。
「あ、でも…確かに思い出してみれば、リーザの時は、ぼくもおばあ様と同じでした。…もっと手元に置いておきたいのに、「雇った乳母の仕事を奪うものではない。それに君は当主夫人としてやるべきことがあるだろう」って。そう言われれば…その通りだから、後ろ髪を引かれる思いでリーザを乳母の手に任せたことも多かったなぁ」
前夫との間に授かった長女の初めての育児の思い出をユリウスもしみじみと回顧する。
そんな母親の言葉に、何か思うところがあったのかリーザがフンと小さく鼻で笑う。
「これ、リーザ。…はしたないわよ」
と、すかさずレナーテが孫娘の険のある仕草を優しくたしなめた。
「ごめんなさーい。でもだって…どの口で「当主夫人としてやるべきこと」なんて言えたんだろうと思って」
唇を尖らせてちょっとバツが悪そうにそう言ったリーザに、そこにいた大人たち一同が思わず目を瞠り、そしてその一瞬後にドッと笑い出した。
「アハハ。リーザは…中々手厳しいね」
「ホホ…あぁ、可笑しい。リーザの舌鋒には敵いませんねぇ」
「俺もリーザにダメ出しされないように頑張んないとなぁ」
「ダメ出しなんてしませんってば!第一アレクセイは超子煩悩パパっぷり全開じゃない。…もはやリーザがダメ出しする余地なんて全くないよ」
「お、嬉しいこと言ってくれんじゃねえか。おい、倅よう。パーパはお姉ちゃまからどうやら及第点をもらえたようだぜ」
アレクセイが戯けて腕の中の息子に話しかる。
「この子は…ちゃんと父親をやれていますか?」
ヴァシリーサの質問にユリウスが「はい。見ての通り。とても子煩悩な最高の父親です。アレクセイは」とユリウスが太鼓判を押す。
「おばあ様も父様も姉様も…これを聞いたらもしかしたらびっくりされるかもしれないけど…、アレクセイはミーシャが夜泣きをすると真夜中でも泣き止むまであやしてくれたり…それ以外にもおむつを取り替えたりお風呂に入れてくれたり。。今回は乳母も雇っていなくて、正直ちょっと一人でちゃんとやっていけるか不安もあったけど、それを打ち明けたらアレクセイが「なんで一人なんだ?…俺がいるだろう?」って言ってくれて。それで実際お乳をやること以外は何でもやってくれて。。。ぼく、すっごく肉体的にもそれから精神的にも楽になって。アレクセイには感謝の気持ちでいっぱいだよ」
「やめてくれよ。確かにミーシャの母親はお前だけど、それと同時に俺はミーシャの父親なんだぜ?そりゃさすがに授乳は…どうやったって俺には無理だけど、それ以外だったら別に父親にだって代わりは十分きくんだ。幸い俺はまだ体力もあるし、何日も眠らせてもらえないようなえっぐい尋問も経験してんだ。それに比べたら…ミーシャの夜泣きで夜通しあやしてるぐらい、屁のかっぱってもんだぜ」
妻からの感謝の言葉に、アレクセイは事もなげに胸を張る。
「おお!流石に…筋金入りの闘士は違うな。で、夫婦仲良く目の下にクマ作ってんのか」
「ぬかせ」
「でもあなたが存外元気で、思ったほどやつれてもいなくて、ホッとしていたのよ。…なにせわたくしはテレーゼを産んだ後産後の肥立ちが悪くて…体力が戻るまでしばらく時間を要したから」
「そう言えばそうだったね。姉様、しばらくとても大儀そうだった。…そうだね。今のぼくは姉様がテレーゼを産んだのと同じぐらいの年だものね」
「決して若くない歳の出産の苦労は…わたくしが身をもって知っていたから、ましてやあなた当面は乳母や子守も雇う予定はないと聞いて…。ちょっと気にはしていたのよ」
「ありがとう。姉様。でも、アレクセイと母さんと、それからリーザも色々手を貸してくれて…家族総出でなんとかやっている日々だよ」
「リーザもね、抱っこしてあやしたり…時にはおしめだって取り替えてあげるんだから!」
「おかげですっごくママも楽をさせてもらってる。…ありがとうね。リーザ」
「やだ、やめてよ〜。赤ちゃんに触れたのって初めてだったけど…初めてミーシャと対面して…その時にミーシャの小さな手がリーザの指をギュッと掴んだ瞬間、「世の中に、こんなに可愛く愛おしい存在があったなんて!」って、もう全身がキューーーンとなったんだよね。もうこの子のためならなんでも出来る!みたいな」
蕩けそうな表情で、リーザが齢の離れた異父弟への愛情を語る。
「アハハ。すっかり母性スイッチ入っちゃったね」
「実際…何でもやってくれてるもんなぁ。ションベンひっかけられてもめげずに」
「え?」
アレクセイの暴露に祖父や伯母たちがギョッとなるも、リーザ本人はすましたものである。
「だって赤ちゃんなんだから仕方ないじゃない。ねぇ?ミーシャ坊や」
ーー姉様が抱っこしてあげる。おいで。
そう言ってリーザがアレクセイから慣れた様子で弟を受け取り懐に抱き直す。
「ねえ、リーザ。私にも抱っこさせて」
「もちろん。…いいよね?ママ」
ユリウスが大きくうなずき、リーザがそろそろと従姉に弟を手渡した。
「うん。…そうそう、そんな感じ」
「お、重〜い。でも柔らかくていい匂い!」
初めて赤ん坊を抱いたテレーゼが腕の中の柔らかな温もりに小さく悲鳴をあげる。
「んん…。あぁ…」
やがておとなしく大人たちの手から手を渡っていたミーシャが、小さくむずかり始めた。
「え、ヤダ!どうしよう!リーザどうしたらいい?」
腕の中でむずかり始めた赤ん坊に、テレーゼが従妹に助け舟を求める。
「あらあら…。うん、貸して」
テレーゼから弟を受け取るとリーザは慣れた様子であやし、お尻のあたりを確かめると、「おしめじゃないってことは…。ハイ!ママお願いします」と母親に赤ん坊を手渡した。
「お腹すいたね。よしよし、おっぱい飲もうね。リーザ、おじいさまたちをおもてなしして差し上げて」
「うん。おじいちゃま、おじ様、デッキにお茶とおばあちゃまお手製のお菓子を用意するので、こちらへいらして」
とリーザが授乳する母親のために、男性陣をデッキに案内して行った。
「さあ、お待たせしました。ミーシャちゃん」
ドレスをはだけたユリウスの白い胸元に、待ってましたとばかりにミーシャが吸い付く。
「まああ。いい飲みっぷりですね。あなたもお乳の出が良くて何より」
孫嫁の授乳する姿に思わずヴァシリーサが目を細める。
「そうなんです。ぼくガリ体型な割にはお乳の量が多くて。おかげでつつがなくこの子のミルクタンクとしての役割を果たすことが出来てます…。そのおかげでちょっとやつれちゃったけど…。でも逆に乳母を雇っていた上の子の時は、母乳が余っちゃって、お乳は張って痛いし、余った母乳を絞って捨てるのも忍びなくて切なかったし…。今の育児がぼくにとってはベストなのかも」
「リーザの時は…「張ったお乳が痛い」「お乳が出るのに飲ませてあげられないのが辛い」と言っちゃあ、メソメソしていたものね。でも婚家の人たちの手前泣いて目を腫らすわけにもいかないし、でもそんなこの子も哀れだし、あの時のあなたの涙は、母さんもちょっと堪えたわね」
「その節はご心配おかけしました。なんか感情も抑えられなくて。出産の後愕然としたんだよね。「自分がお腹を痛めて産んだ子供をすぐ取り上げられて、満足にお乳もあげることが出来ないなんて!」って」
「でもあなたは…いつまでもメソメソしてないで粘り強く周囲を説得して、出来うる限りリーザを手元に置いて慈しんでいたわよね」
「だって〜。ぼくがメソメソしている間にも、リーザはどんどん大きくなっていってしまうもの!「ぐずぐずしてなんかいられない!」って。娘をなるべく手元で育てたい…というのは何としても譲れなかったからね!」
「リーザは…幸せだこと」
「ええ。本当に。たっぷり愛情をかけられた育ったからこそ、今あのように弟に深い愛情を傾けているのかもしれませんね」
「でも、それにしても羨ましいわ。あなたのその豊かなお乳の出が。…さっきも言ったけど、わたくしはテレーゼの出産後、ちょっと体調を崩したでしょう?血も足りなくて、そのせいだったのかしら。お乳もあまり出なくてね。…あなたには不要な乳母だったかも知れないけれども、わたくしは、豊かなお乳でわたくしの代わりにテレーゼのお腹を満たしてくれた乳母の存在に本当に感謝したものだったわ」
「そうだったの。確かゾフィ叔母様のツテで来られた方だったよね」
「ええ。わたくしが産後の肥立ちが悪いと知った叔母様が、ただちに信頼できる筋から乳母の女性を遣わせてくれてね。豊かなお乳で他人の子供のお腹まで満たしている彼女に比べて、我が子のお乳さえ満足に与えることが出来ない自分が情けなかったけど…、落ち込んでいるわたくしに、「子供を育てるのは…何も母親の乳だけじゃあないさ。その証拠に君も、それから僕だって赤の他人の、乳母の乳で立派に育ってるじゃあないか。第一乳をやることが育児だと言われたら、我々男どもは実に立つ瀬がないよ」ってダーヴィトに慰められてね」
「ふふ…。相変わらず変な理屈というか…ダーヴィトらしいね。でも姉様、その時の乳母の方に今でも恩給を出し続けているのでしょう?」
「ええ。赤ん坊の頃からテレーゼが病気らしい病気一つせず大きくなれたのも、生まれて間もない頃からお乳を与えてくれた彼女のおかげですもの。彼女の働きはそれだけのことに値するわ」
「良い乳母を厚遇してあげると、その後の下の子供の出産時や…それから時が経って子供や嫁が出産した時にも当時の乳兄弟が乳母として来てくれますものね」
「ええ、本当に。テレーゼの時の乳母の方も…実は叔母様の息子…わたくしにとっては従兄に当たりますわね…の乳兄弟のお嫁さんだったのですよ」
出産と育児を経験した女同士の気の置けないお喋りに興じているうちに、満腹したのかミーシャのお乳の吸いが弱くなってきた。
「ん?満足しましたか?じゃあねんねしましょうね〜」
お腹を満足させた様子の愛息にゲップをさせると、ユリウスはミーシャをベッドに寝かせた。
そのタイミングで「じゃあわたくしたちもそろそろお暇いたしましょうか」と来訪者たちが赤ん坊を起こさないようそっといとまを告げた。
「今日は久々に皆に会っておしゃべり出来て、とても楽しかった。…どうぞまたお待ちしてますので、いつでもいらして下さいね。ぼくも…もう少し身体を休めたら、あの子を連れてアーレンスマイヤ家に伺います」
「存分に大仕事の後の身体を労りなさい。何か困った事があったら遠慮なく言うのだぞ」
「待っているわ。うちの屋敷の使用人たちも、実はあなたの赤ちゃんに会いたくて皆ウズウズしているのよ」
「もうしばらく祖母をよろしくお願い致します」
そう言って丁重に頭を下げた愛娘の夫に、アルフレートが
「我が親友のお母上をもてなすのは、人生の晩年期に達した私の望外の喜びであるぞ。案ずるな」
と請け合った。
最後に各々別れのキスと抱擁を交わし合って、ユリウスたちは実家の家族とヴァシリーサを送り出した。
その晩ー
「ねえ、母さんが…赤ん坊の頃のぼくを育てていた時はどんなだった?」
授乳を終え、母娘二人で寛いでいた時に不意にユリウスが問いかけてきた。
「え。…私?」
昼間ひとしきり女性陣の間で話題になった自身の授乳時の話にレナーテが一切口を挟んで来なかったことに、何か思うところがあったのか、それとも姉や夫の祖母の話を聞いて、自分が赤ん坊の頃のことを単純に知りたくなったのか、ユリウスの質問に、果たして自分の過去の話を赤裸々に語り聞かせてもいいものか、レナーテは少し戸惑った。
自分たちの貧しかった過去から、往時の話が今日の二人のような決して恵まれたものではなかったことは察しがついているだろうけれど、それでも娘に聞かるべき話なのか迷うレナーテに、
「…ごめん。話したくなかったら…無理に話してくれなくていい」
とユリウスが母を気遣いポツリと前言を撤回した。
そんな娘に
「もしかしたら…聞いたらちょっと不快な気分になってしまうかも知れないけど…それでも、いい?」
としたレナーテが前置きする。
その言葉にユリウスがコクリと頷いて、「ありがとう。…聞かせて。母さんが、どうやってたった一人でぼくを守り…育ててくれたのか」と、母親に続きを促した。
1888年。フランクフルト。
レナーテは途方に暮れていた。
父のない子供を産み落として3ヶ月。
頼るあてのない不安から、ヤーンという胡散臭い男の差し出した手を取り、彼の口車に乗って生まれた子供ー。自分と同じ金髪碧眼の赤ん坊にしてはびっくりするほど顔立ちの整った美しい女の子だったのだがー、その子供の性別を偽って男児として出生を届け、私生児の母親というだけではなく、詐欺の片棒まで担ぐハメになってしまった自分。
更にヤーンの持ってきたいかがわしい酌婦の職を断ったら、機嫌を損ねたのか、フイと姿を消し、もうひと月ほど連絡が取れない。
「一時金だ。お前さんと、その子供には…これからこのツケを何倍にして回収させてもらうからな」と下卑た笑いと共に渡された金もとうに底をつき、かと言って乳飲み子を抱えている身では、中々働き口も見つからず、万策つき、こうして路地裏の粗末なアパートの一室で最早母娘共に乾涸びるのを待つばかりの身だった。
食べるものもなく栄養が不足して痩せ細ったレナーテの、殆ど出ないお乳を含んだ赤ん坊、ユリウスという男名を付けた娘は、昨日までは空腹で火がついたように泣いていたが、その声もとうとう力尽きたのか今日になって段々と弱々しくなって来た。
出ないお乳を含んだまま、泣きながら眠りについた我が子の白い頬についた涙の跡をそっと指で撫でる。
ーーごめんなさいね。…母さんと一緒に、逝こうか。天国へは迎えて貰えないけど…二人なら、寂しくないよね。
心の中で眠る我が子に語りかけると、レナーテはユリウスを抱いたまま当てもなく夜更けの街へと彷徨い出て行った。
当てもなく街を彷徨い歩き、レナーテの足はいつしか街外れの、最も治安の悪い一角へとたどり着いていた。
路地に寝っ転がった酔っ払いや売春婦、それからシンティ(ロマ族)たちの姿も多く見える。
死のうと思ってアパートを出たものの、後一歩の勇気が出せず、その場所へ無意識に足を運んだのは、もしかしたらシンティの多くいるその地域に子供を置いて行ったら、彼らがこの子を拾って育ててくれるかも知れない…そんな淡い期待も、レナーテにあったのかもしれない。
ーージプシーたちが捨て子を育てる話は…よく聞く話だもの。このまま死を待つだけだったら…いっそ私のユリウスも…。
思い詰めたレナーテが決心して最後の別れ…と今一度腕の我が子をギュッと抱きしめたその時、眠っていたユリウスが弱々しい声でむずかり始めた。
「あぁ…あぁん」
弱々しく泣き出した我が子を「ごめんなさい。…泣かないで、ユーリカ。ごめんなさいね」とあやすレナーテの瞳にも涙が込み上げて、瞳に映る子供の顔が徐々にぼやけてくる。
その時だった。
「その赤子、腹が空いているんじゃないかい」
弱々しく泣く赤子とそれを必死にあやすやつれ切った若い母親に声をかけたのは、通りで辻占をしていたシンティの女だった。
「え?」
不意に、シンティから声をかけられたレナーテが戸惑って声の方へ振り返る。
「その赤ん坊。腹が減ってるんだろう?…ついといで」
辻占の女は、手早く店じまいすると、「ついて来い」とレナーテに目で合図をし、ズンズン歩き出した。
言われるがまま、その言葉に従ってその女の後をついて行ったレナーテは、正直なところ、少しやぶれかぶれになっていたのだろう。
それとケープの陰から見えた、その女の深い黒の瞳の不思議な強さに囚われたのもあったかもしれない。
とにかくレナーテはズンズンと先を行くシンティの女の背中をユリウスを抱いたまま小走りで追いかけて行ったのだった。
「入んな」
街外れの幌馬車がたくさん泊まったシンティの露営まで来ると、レナーテはその中の一台に招き入れられた。
「ライラ、ちょっと頼まれておくれでないかい?」
幌馬車にいたのは、レナーテと齢の頃は同じぐらいかやや上だろうか、若いシンティの女が自分の子供に乳をやっていた。
ライラ と呼ばれたその若いシンティが顔を上げる。
浅黒い肌と豊かな黒髪に彫りの深い顔立ちと野性味にあふれた黒い瞳がなんとも魅惑的な美女だ。
レナーテを連れてきた女から話を聞いたライラは大まかな事情を察したようである。
抱いていた自分の子供を占いの女に手渡すと、しなやかな両手をレナーテに差し出した。
女の浅黒い腕に映える金のブレスレットがシャラリと揺れて光る。
「え?」
「その子、腹を減らしているのだろう?寄越しなよ。…乳を飲ませてやる」
戸惑いを見せるレナーテに、「ホラ」というように、ライラが今一度両手をズイと差し出す。
おずおずとユリウスを差し出したレナーテに、「それでいい」というように目で肯いたライラがユリウスに豊かな乳房を差し出した。
もう何日も満足に腹を満たしていなかったユリウスが、夢中で乳房にむしゃぶりついて乳を貪る。
「まるで天使のような綺麗な赤ん坊だね。…あんたにそっくりだ」
「…でも、見ての通りこんなに痩せこけてしまいました。…私のような母親から生まれてきたのが、この子の不幸の始まりです」
他人の女の乳に夢中でむしゃぶりついている我が子を見ながら、レナーテが涙ぐんで小さく鼻をすすった。
「泣くんじゃないよ。…どんな経緯があったかは知らないが、母親のあんたがしっかりしなくてどうするんだね。…この子の母親は、世界であんたただ一人なんだから」
「私…だけ…母親…この子の…」
占いの女の言葉に、レナーテは返事をしようと思うものの、心の中にまるで強い風が吹き荒れたように思いが言葉にまとまらない。
そんなレナーテに
「何呆けたような顔してんだい。どうやら目が醒めかけたようだね。…あんた思い詰めていたようだったからね」
ーー話したくなかったら、何も言わなくていい。少なくとも今ここにいるあたしは、大して力にもなれないかもしれないけれど、その代わりあんたのことを責めも蔑みもしない。
優しくレナーテの背中を撫でたその手の温もりからレナーテの身体に熱いものが流れ、彼女の心を溶かしていった。
声を押し殺しながら背中を震わせて嗚咽するレナーテに、ライラが腕の中で満足し切って唇をチュパチュパ吸っているユリウスを母の手に返した。
「子供は宝だよ。今も昔もこれからも。あたしらロマにとっても、それからロマじゃないあんたにとっても、ね。あたしはライラ。それから、あんたを連れて来たこの人は、あたしたちの一族のビッグマザーのサラ。…あんたさえ嫌じゃなければ、また乳を分けてやるから、夜更けにでもここへおいで。…ただしここいらは物騒だから、来るときには十分気をつけてくるんだよ。何なら、サラと一緒に来るといい。大抵通りか広場の片隅で占いをしているからさ。サラと一緒にいる女にちょっかいを出す馬鹿はここいらにはいないからね」
「…いいん…ですか?」
「言ったろ?子供は宝だって。それがたとえ自分の腹を痛めた子でも、他人の子でも等しくね」
何を当たり前なことを何度も言わせるのだとでもいうばかりに、事もなげに女が答えた。
「ありがとう…ございます。ありがとう…。ああ、ユーリカ、良かったね。ユーリカ…」
子供と共に社会から締め出され、孤独と不安の闇の中で溺れ沈んで行きそうになっていたレナーテを引き上げた、それは熱く強い救いの手だった。
ーー生きよう。この子と生きていこう。生きていたい。
改めてそう思えた瞬間だった。
「でね、一番どん底だった時に救いの手を差し出してくれた彼女たちのお陰で、あなたは命を繋ぐことが出来て、母さんもそのあと何とか繕い物や洗濯の仕事を見つけて来て、ようやく絶望の淵から這い上がることが出来たの。…母さんの話を聞いて…その、ショックだった?」
合いの手も入れずにじっと母の回顧に耳を傾けていたユリウスに、恐る恐るレナーテが伺う。
「…何が?…ショックなことなんて…何もないよ。…ぼくはね、嬉しいの。こんなお荷物でしかないぼくみたいな望まれない赤ん坊を…宝だって言ってくれた人がいた事が。そして母さんがぼくと一緒に生きていたいと思ってくれた事が。…ぼくを生かしてくれた人たちの手があって…今ここにぼくがこうしている事が!全てが嬉しいの!」
そう言ってユリウスが感極まったように両手で顔を覆って、肩を震わせしゃくり上げた。
覆った両手の下から止めどなく熱い涙が伝って来る。
「…どうしよう。…ヒック。ああ、もう!涙が、止まらない」
「あらあら。…でも、こうして振り返ってみると、本当に有難いわね。彼女たちは…私とあなたの前に不意に現れた…救いの天使だった。…世間からも神様からも見放された私たちの、ね」
感激で泣きじゃくる娘の背中を優しく撫でさするレナーテの目尻にも、うっすらと涙が光っていた。
「それで、その後はどうなったの?…ぼくが物心ついた時には、その人たちは…もういなかったよね?」
ようやく涙が止まり、目の淵と鼻の頭を僅かに赤くしたユリウスが尋ねた。
「ええ。出会いも突然だったけど…別れもまた突然でね」
「サラ、ライラ!」
突如目にした光景にレナーテは愕然とした。
定住地を持たず流浪を常とする集団であることは、レナーテも十分理解してはいたが、目の前で露営を畳み、動き出す幌馬車の集団をこうして目の当たりにすると、やはりショックは隠せない。
呆然と立ち尽くすレナーテの姿に気づいた、すっかり顔馴染みになったロマの一人が、サラとライラを呼んできてくれた。
「サラ、ライラ!…あの、私…」
突然の別れに言葉が出ないレナーテを、サラとライラが強く抱きしめた。
「…お別れだ。あたしらは、別の土地へ行く」
「あの…また、またここへ戻って来るのでしょう?…またいつか」
縋るようなレナーテの言葉に、サラとライラが顔を見合わせると、二人は首を横に振った。
「ここへは…戻らない」
「何故?…どうして?」
縋るレナーテに、サラの代わりにライラが答えた。
「この人の占いがね、この街の有力者を怒らせちまって。請われて占いに行ったサラが、その家の凶事を占っちまったんだ。で、それをバカ正直に告げたら、向こうさんが大激怒してね。…だからあたしらは当分、ここへは戻れないってワケさ」
「仕方ないだろう。…占いの結果は神聖で絶対だ。…あたしの、一族の、民族の名誉にかけてもイカサマは伝えられないよ。相手が王様だとしてもね。大体…結果を受け止める覚悟がないならハナっから占いなんかに頼るなってもんさ」
あくまで悪びれない、サラの誇り高いその態度に、レナーテも別れのショックが吹き飛んで思わず笑い出してしまった。
「いい顔だ。いいかい、辛いときほど、そうやって、無理矢理でもいいから笑うんだ。…そうだ!餞に、あんたを占ってやろう。但し、あたしの占いはよく当たるが、あんた聞く覚悟はあるかい?」
その言葉にレナーテが大きく頷いた。
「あんた、これから色々波乱はあると思うけど、長い目でみると、未来は決して悪くないよ。…子供だ。あんたを未来へ導くのは、ユーリカだ。ユーリカを大事に育てていきなさい」
レナーテの前で厳粛な面持ちでタロットカードを繰っていたサラが宣託を告げる。
「ありがとう。サラ、ライラ。…あの時私に手を差し伸べてくれて。私たちを絶望の淵から引きずり上げてくれて。…私はあなたたちに何も返してあげられないけど…これからの旅の安全と幸せを、祈ってます」
「さよならは言わないでおくよ。運命が導くなら、また会おう。大丈夫。もうあんたは大丈夫だ。ユーリカと助け合って仲良く暮らしなさい」
占いの結果を餞に、こうしてサラたちはレナーテの前から去って行ったのだった。