第百話 Ⅷ
第八章 本番直前
「アレクセイ…」
「おう!…ん?どした?」
出番を控え、舞台袖に現れたユリウスを、一足先に支度を終え舞台袖に来ていたアレクセイが迎える。
自分の名を呼んだユリウスの声は、少し震えていた。
振り返ると、緊張で血の気が引いているのだろう。薄暗い舞台袖とは言えいつもの白い肌は、白いを通り越し青白く見える。
すぐさま両手を握ってやると、その手は冷たく、そして小刻みに震えていた。
「一体、どうしたんだ。…いつもの強気と天真爛漫は、何処へ行ったんだ?」
妻の緊張を緩めようと、殊更に戯けた口調で声をかけながら、俯き加減の顔を覗き込んだ。
いつもは快活に輝いている碧の瞳が、少し不安そうに揺れている。
「どうしよう…。震えが、止まらなくて…」
ーーもうすぐ出番なのに…。
蚊の鳴くような声で緊張を訴えたユリウスに、「フッ」と小さな笑いと共に、アレクセイの両腕が、華奢な背中に回った。
緊張で硬直した身体をギュッと抱きしめる。
「あ、アレクセイ…。人が見てるよ」
「いーんだ。…ん、震え、止まったな」
抱きしめる手を緩め、両腕を握ったまま身体を少し引き、真紅のステージドレスに身を包んだユリウスの全身に視線をめぐらせる。
「ん。ドレスもよく似合ってるぞ。やっぱ真紅で正解だな」
と、自分が見立てた生地で作ったドレスに悦に入る。
「アレクセイも、そのジャケット、すっごく素敵だね」
だいぶ緊張が解れてきたのか、ユリウスの顔に柔らかな笑みが戻ってきた。
「お?そうか?」
「うん。アレクセイ、背が高くて首から背筋のラインがきれいだから、スタンドカラーよく似合うね」
アレクセイの晴れの衣装は、婚礼衣装と一緒にユリウスといつもの仕立て屋で誂えたもので、アレクセイのプロポーションの良さに惚れ込んだ仕立て職人が、「フォーマルなジャケットはお式でもお召しになるから、音楽祭のお衣装は少し冒険してみませんか?」と、デザインから起こしたものだった。
チャコールグレイのチロルジャケット風の上着は少し控えめなスタンドカラーになっており、やや長めの着丈でバックに向かって斜めにカットされた裾がスッキリとして洗練された印象だ。
浅めのVの刳りから覗くタイと、胸元のポケットチーフは、愛妻の瞳の色に合わせた鮮やかな碧色、スタンドカラーに合うようタイトに撫でつけ櫛目を入れた亜麻色の髪も、同色の細いシルクのリボンでひっつめて纏められている。
「アレクセイ、ブルー似合うね」
ユリウスの手が一つにまとめられた髪を纏めたリボンにそっと伸びた。
「お、そりゃ光栄だな。…何せブルーは俺の一等大好きな色なんだ」
ーー何たって不滅の恋人の瞳の色だからな。
その瞳を覗き込んで言った言葉に、ユリウスがはにかんだ笑顔を見せた。
「うん。いい顔だ。俺たち、サイッコーにイケてるペアだと思わないか?ん?」
目を見てそう言われたユリウスがコクリと頷いた。
舞台の演奏が終わり、舞台袖にも客席からの拍手が漏れ聞こえてくる。
「よし。出番だ。…いいか?俺に、俺の音だけに集中するんだ。そうすれば、あとは指が勝手に動くから」
ーーさあ、行こうじゃないか!相棒。
ポンと背中を叩いて舞台のスポットライトの中へ出て行くアレクセイの背中についてユリウスも舞台へと歩を進める。
いつしかユリウスの緊張は霞のように消えて無くなっていた。