第百話 Ⅵ
第六章 語らい
「ご無沙汰いたしておりました。アルフレートのおじさま。またお会いできて嬉しいわ」
「久しいな。アンナ。…見違えるように素敵なレディになって、驚いたぞ」
一年余の日々を共に過ごし、もはや孫娘のような親密さで、アルフレートがアンナの再会を喜ぶ抱擁とキスを受ける。
「ふふ…。すっかり孫娘とおじいちゃんの再会…だね。父様、紹介します。こちらがヴァイシリーサ・ミハイロヴァ様。…アレクセイのお祖母様で…」
「ミハイルの母にございます。初めまして、ヘルアーレンスマイヤ。息子の大切な友人の貴方様に…こうしてお目にかかることが出来て光栄でございます」
上品に腰を折って挨拶した亡き友人の母であるヴァシリーサの白い手を、アルフレートは両手で取って恭しく押し戴いた。
「わたくしこそ、お目にかかれて光栄です。敬愛する我が友人の母上様。ようこそ、歓迎いたします」
その晩は実行委員の仕事の抜けられないアレクセイを除いたアーレンスマイヤ家の人間、アルフレート、ダーヴィト、マリア・バルバラ、テレーゼ、そしてユリウス、レナーテ、リーザの母娘たちと、ヴァシリーサ、アンナの賑やかな晩餐となった。
「私達の演奏、どうでした?」
「とても素晴らしいワグナーを聴かせてもらいましたよ。リーザは音楽学校のオケに交じって堂々たる演奏、とても立派でしたね」
「ハープは男性奏者が少ないですからね。優秀なハープ奏者のリーザがいつもオケに賛助として出演して下さって助かっています」
「そうなのですか。…ところでアレクセイの先輩と仰っていらっしゃいましたが、貴方もそれでは楽器をなさるのですよね?ダーヴィトさん。…学生時代は何をやっていらっしゃったの?ピアノ?それともあの子と同じ…」
「はい。クラウス…アレクセイと同じヴァイオリン科に在籍しておりました」
「今年の音楽祭には…出演されなかったのね」
「はは…。僕はゼバス卒業後は音楽以外の道に進みましたからね。ウィーンで人文科の学を修め、現在はゼバスで文学の教鞭を執っております。今回は残念ながら出演に至りませんでしたが…うん、次回は僕も出演するのもいいかな…」
「ダーヴィトさんはヴァイオリンだけでなくて、チェロもお上手なのよ。ヴァシリーサ様。かつてアーレンスマイヤ家に逗留していた頃に、腕前を披露してくだすったのよ」
「お褒めに預かり光栄だな。…学生時代はチェロも兼任して、ご令孫と室内楽…カルテットやそれから、そう!イザークと三人で弦楽トリオも結成していました。ユリウスの16の誕生日に招かれて、そこでメンデルスゾーンも披露したのですよ」
「あのメンデルスゾーン…今でも鮮明に耳に残っているよ」
当時のメンデルスゾーンの名演を思い出しながら、ユリウスがうっとりと目を閉じた。
「それ、ママがアレクセイをお誕生日のお茶会に呼ぶために仕組んだんでしょう?イザークおじ様をダシにして。…やるよね~」
「あれ?…仕組んだなんて人聞き悪い事言うね。この子は。でもあの後ゲルトルートにこっぴどく叱られちゃってね…」
往時を思い出してユリウスが大げさにため息をついてみせる。
「叱ってだなんて…!!ただ…イザーク様の気持ちを考えるとそういうことはちょっとどうなのでしょう?と…お諫めしただけで…!」
傍らにいたゲルトルートが、真っ赤になってムキになり弁明する。
「叔母様ってモテたんだ。…アレクセイにイザークさんに…。後の大ピアニストをダシって…」
「ああ。今でも絶世の美女だけど、お前の叔母様の、ユリウスの少女時代はそれは可憐で愛らしくて、ゼバスにも彼女に心を寄せていたヤローは結構いたと思うぜ」
「え?…そうだったの?」
当の本人はまったく気がついていなかったようである。
「まぁあの頃の君は…クラウスしか目に入っていなかったようだからね。…そうだったんだよ。僕の同級生で…今ゼバスのヴァイオリン科の主任になっている奴さんも…どうやらその一人だったようだぜ」
「…そう言えば…最初の縁談の時も、それから離婚してこちらへ戻って来た時も…縁談話が来てた…かも」
「だろう?時を経ても相変わらず靡かない高嶺の花のようだったけど…ね。で、そうこうしているうちに…また初恋の君が現れて…高嶺の花をあっさりと摘み取って行ってしまったわけ…だよな?」
そう言ってダーヴィトがユリウスにウィンクしてみせた。
「…もう、ぼくの事はいいよ!アンナの話を聞かせて。久しぶりだもの。とても綺麗になったけど、いい人は現れた?」
「え?わ、わたし??」
突然ユリウスに話題を振られたアンナが不意に顔を赤らめる。
「あ、その顔は~~~。いるんだね?ね、どんな人?聞かせてよ」
一気に皆の視線が集まり、モジモジとアンナが耳まで赤く染まった顔を伏せる。
「…同じ学校の同級生で…」
「うん?」
「…穏やかな口調と、優しい笑顔が…お父様…あ、レオニードのお父様じゃなくて、その…実父にちょっと似ていて…」
その言葉に一同が胸をつかれる。
「そう…。そう、なんだ…」
その言葉に、早くもユリウスとマリア・バルバラの涙腺が緩みはじめ、瞳を潤ませている。
「学校を卒業したら…二人でアトリエを持とう と話しています。時計と機械細工の工房を」
顔を上げてはっきりとそう言ったアンナの笑顔は、かつてなく輝いて晴れやかだった。
「あなたが、しっかりと自分の人生を豊かなものにしているようで、本当に安心したわ。…その、こちらでも…」
―― ね?
言葉を濁してマリア・バルバラが傍らの夫に視線をやった。
妻の視線に小さく頷くと、ダーヴィトがその続きを切り出す。
「近頃…その、よからぬ輩どもが…世間を騒がせているようで。我々もちょっと君の事を気にかけていたんだ」
良からぬ輩ども…とダーヴィトが表現した者(もしくは者たち)は、革命直後からちょこちょことタブロイド紙を騒がせていたロマノフ王家の生き残りを騙る僭称者たち―、殊に2年程前に新聞で取り上げられて以来、世間を騒がせている自称“皇女アナスタシア”のことであった。
「あぁ…。その女性ですか」
ダーヴィトやマリア・バルバラの懸念とはうらはらに、アンナの反応は気抜けする程あっさりとしたものだった。
「…私は、今のわたくしは、アンナ・ユスポヴァです。…それは、かつて“その名”で呼ばれていたことも…ありましたが、もう、その名前とわたくしは、永遠に切り離されたものと思っております。…だからこそ、今現在の「わたくし」は在る。…そうでしょう?」
アンナの問いかけにそこにいた全員が大きく肯いた。
「…でも、己を捨ててまで、どうして他の人間を名乗ろう…と思ったのか…。それはわたくしには全く理解できないことですが…」
最後にポツリとアンナが呟いた。
晩餐後、コーヒーと共にサロンで歓談は続く。
「もう…随分と昔の話になります。…欧州視察から戻って来た息子が、ドイツから届く手紙を心待ちにしていた時期がありました。…あれは貴方だったのですね?」
ヴァシリーサの問いに「如何にも」とアルフレートが頷く。
「…視察から戻って来た息子は…何だか以前と変わってしまって。ミハイロフ家の当主としての役目以外にも…何だか色々なことに着手して…わたくしの知らないような人たちとも積極的に交流しているようでした。そんな多忙な日々を送っていた息子の楽しみが、時折ドイツから届く書簡だったようです。いつもそのドイツからの手紙に目を輝かせていましたので。…一度わたくしあの子に尋ねてみたことがあったのですよ。「そんなに嬉しそうにして。一体毎回どんなことが書かれているのですか?」とね。
そしたらあの子「別に…大したことは。うん、全く大したことは書かれていないんだ。いっつも四角四面の。僕の手紙の内容に答えるわけでもない、本当に四角四面の紋切り型の手紙なんだ。…でも、僕が手紙を出すと、こうして…必ず返信を寄越してくる。とても律儀な奴なんだ」って」
「ああ…」
言われてアルフレートも往時を思い出したようだ。
軍の情報筋に所属していた自分。プライベートな書簡のやり取りであっても、自分の手の内を明かしてはならぬと頑なに、紋切り型の返事を寄越し続けていたのだった。
あの時―
自分を友人と認めてくれた彼は、心を開いて様々なことを書簡で寄越してくれて来ていたのに。
それに対して自分は、全く不誠実な返事を送り続けていたのだった。
「…もっと彼の悩みや思いに…真摯に答えるべきだったと、後悔しております。あんなに早く亡くなってしまわれたのは…本当に残念でした。彼は、私の大事な友人でした」
アルフレートの友への想いに、ヴァシリーサが静かに首を横に振った。
「いいえ。あの子は…ちゃんと理解して、あなたの立場の事もちゃんとわきまえていたようです。…だから、あの子が急逝した折には、きっとあの子も心残りだろうと思い、訃報をこちら様へお送りするよう申し付けましたのよ」
「…そうでした。あの報を受けた時には…心にぽっかりと穴の開いたような気持になったのを今でも鮮明に覚えています」
「アルフレートさん…わたくしね」
ヴァシリーサが早くに亡くした息子への、ずっと心に溜めていた思いを語り始めた。
「あの子…ミハイルは、果たして私の息子に生まれて…ミハイロフ侯爵家に生まれて、幸せだったのかと…近頃とみに思うのですよ。こうして時代が変わり、あの子が目指していた…身分のない世となって…旧時代の形骸としてわたくしたちが国を追われ、人生の晩節に差し掛かり、己が人生を振り返るにつけ、その事が思われてならないのです。わたくしやミハイロフ家が、あの子のやりたいこと、目指していた事の足枷になっていたとしたら…。もっと言えば、あの子が貴族の家に生まれていなかったら、もしかして志半ばであんなに若く亡くなることも…なかったのかもしれないとすら思えてならないのです。もっとやりたいように自由に人生を全うできたのではないのかと」
―― 今となっては…せんのないタラレバですが。
「ヴァシリーサ様…」
ヴァシリーサの心の内をうけて、アルフレートが静かに話し始めた。
「親愛なるわが友の…敬愛する母上様。僭越ながら…わたくし自身の経験から申し上げますれば―。お恥ずかしいことにわたくしは、かつて家族に沢山の不義理を致しまして…、今でこそこのようにアーレンスマイヤ家の中心にこうして居ることを許される身ですが、それは…この娘たち、マリア・バルバラとそれからユリア…ユリウスの寛容な心があってのことなのです。父親として全く至らなかった私と言う人間を…この孝行娘たちは赦し、受け容れてくれた」
「そんな…」
「父様…」
「特に…この末娘のユリアは、この世に生まれ落ちた時には既に母親と共に私から棄てられた身で、貧困と父なし子という社会的な差別と…それらに加えて性別を偽るという重い枷まで背負わされて…、一転勝手な都合で引き取られてからも、家の縁談の駒として扱われ…散々私の…アーレンスマイヤ家の勝手な都合に振り回されながら生きて来た…可哀想な娘でした。…それでも、この子はそれを受け容れながら、周りを、そしてこんな私までも大いなる愛で包んでくれて…地に足をつけ前を向いて、確固とした自分の人生を歩み続けている。…本当に強い娘です。たおやかで強い。この娘の人生は、困難の連続だった。だけどこの娘がそんな人生にめげず、常にこの娘の良い特質―、慈悲や思いやりの心を持ち続け、自身の人生に対峙し続けるうちに―、結果周りが変わり、人生が拓け、そしてこの度の幸せに辿り着いたもの思っております。わたしはね、こういう生き方を、ユリアのような特質を―、かつてわが友の中にも見ていたのですよ。穏やかで物腰は優雅でありながら、その内面には揺るぎない強い信念と、変わることを恐れない勇気を持っている。決して境遇を、他者を恨まず、寛容な心で全てを受け容れる大きくそして澄んだ輝きを放つ大きな器を…。確かに彼が、志半ばで若くして世を去ってしまった事は、残念でした。しかし、彼の優れた特質とそれから志は―、彼の遺した二人の息子へと、見事に引き継がれていたのではありますまいか?―偉大なる母上様。彼は、ミハイルは断じて、あなた様の仰ったような事は思っておりますまいぞ。…彼は、ミハイロフ侯爵家という名家の重みも、それからその家を統べていた偉大な母上様のことも、我を成す一部として、誇りに思っていたに違いありますまい。それは…心を交わした友人の私が、彼に代わって断言致しますぞ」
「アルフレートさん…」
「父様…」
クスン…
父親の思いがけない独白に、ユリウスが小さく鼻を鳴らす。
「何を泣いているの。この子は…」
傍らのレナーテがそんな娘の肩を優しく抱き、こみ上げて来た涙をそっと拭ってやっていた…。
「アルフレートさん…。ありがとう。今日…こうして貴方に出会えてよかった。…正直、当時は…貴女の事を少し恨んだことも…あったのですよ。視察から帰って来て、息子は何だか変わってしまった。きっとあちらで変な思想を吹き込まれたのだろう…と。…でも、遠からぬ将来あの世へ召されたら、息子に叱られてしまいますね。…フフ。こうして、幾重にも重なる縁を辿って、貴方に巡り会えて、本当に良かった。貴方との出会いに、そして貴方とわたくしの息子が出会って友情をはぐくんだ縁に…今はただただ心から感謝いたします」
静かにそう言ったヴァシリーサの目じりにも、きらりと光るものがあった。