第百話 Ⅴ
第五章 支度
「ねぇ、ママ、おばあちゃま、まだかなぁ?」
先程から母親と祖母のお人形状態でじっと鏡の前に座っているリーザが焦れて鏡越しの二人に視線を向けた。
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「リーザ、髪を結ってあげる。座りなさい」
舞台用の衣装に着替えたリーザを鏡の前に掛けさせ、ユリウスが娘の長いお下げを解いた。
いつもの学内演奏会の時は女学校の制服にお下げ姿で舞台に上がっていたリーザだったが、今回の音楽祭では「せっかくだし男子校の黒一色の制服に華を添える意味でも」と、周りに勧められてドレスアップしていたのだった。
とは言ってもオーケストラの一員なのでソリストのようなドレスではなく、ブラウスとロングスカートな訳だけど、ラヴェンダーがかった光沢の美しいグレーのシルクサテンのブラウスに濃紺のロングスカートを合わせた娘の姿はもういっぱしのレディである。
「…リーザ!とても良く似合うよ。こんなに素敵なレディになって…」
楽譜を小脇に抱えた娘のキリリとした立ち姿に、感激屋の母親の碧の瞳は早くも潤み始めている。
「…やっぱ黒の上下か白黒の方が良かったかなぁ」
一般的な演奏家のドレスコードをやや外した装いに、リーザが少し不安そうに自分の服装を見下ろした。
「断然こっちがいいわ。ヘルマンも、黒ずくめより少し華やぎがあった方がいいって推してくれたでしょう。これが正解よ」
上目遣いで窺うような孫娘の視線にレナーテが笑顔で大きく頷いてみせた。
娘の長い金の髪に母と祖母の四本の手が伸びる。
「こんなに長くなっていたんだねぇ。最近リーザママに全然髪を弄らせてくれないから…」
ある一定の歳から自分の身支度は全て自分で行うようになっていた娘の髪を感慨深げにユリウスが梳る。
「もう子供じゃないもの」
「あら、おばあちゃまはずーっとママの髪を結っていたわよ。少女時代も、それからお嫁入りしてからも」
「おばあちゃま、過保護!」
「ありゃりゃ。…リーザは手厳しいね」
ピシャリと断言されたユリウスが軽く肩を竦めて見せた。
そうは言いながらも三人は鏡越しに和気藹々と笑い合っている。
勿論リーザだって分かってはいる。
今の時代とは違い、母親がまだ少女だった時分の良家の令嬢は、身支度から何から何まで使用人の手によって行われていたこと。そして、母の身支度を一手に引き受けていた祖母が、表向きはそういう立場、つまり母の使用人の身分であったこと。
そんな暮らしの中で、誰の目も気にせずに母と娘に戻れる大切な時間が、身支度の短い時間だった事も容易に想像がつく。
「でも…ママとおばあちゃまの手に触れられると、すごく安らぐ」
「そうでしょう?ママも…おばあちゃまに毎朝髪を整えてもらう時間、大好きだったもの。おばあちゃまの手は、魔法の手なんだよ。鏡の中でどんどん綺麗になって行くのが…毎日不思議なような嬉しいような…ね?」
そう言って小さく同意を求めてきた娘に笑顔でレナーテが応える。
「…それは…うん。すごく分かる…ような気がするな」
リーザも大好きな母と祖母の手に身も心も委ねる心地よさを素直に認めた。
「どうしようか?」
「コテで巻いてハーフアップにする?」
「演奏中気が散るから、纏めちゃって」
「ハイハイ」
「じゃあ、夜会にしましょうか」
レナーテが丁寧に梳って艶を放つ孫娘の髪を巻き上げてユリウスに意見を求めた。
「似合うけど…うーん。ちょっと大人っぽすぎるというか。もう少し歳なりの少女らしさが欲しいね。そうだ二つに分けて耳の辺りでぐるりと巻くのはどうかな?羊の角みたいに」
ああでもない、こうでもない…と母と祖母のヘアスタイル協議はなんだか終わりの見えない様相を呈し始めた。
大人しく頭を二人に委ねていたリーザが、たまりかねてとうとう焦れてくる。
「ねえ、まだぁ?」
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「そうだ!アデールさんみたいな頭はどうかな?」
「アデールさん?」
三人が美しく結い上げられたアデールの頭を思い浮かべた。
「とても綺麗だし、それにきっちり纏まってるよね」
「そうねぇ。えーっと確かこんな感じ…だったわよね。ここをもっと膨らませて…」
「高さはこのぐらいだった。それで…」
ユリウスとレナーテが頭の中でグラースの友人の姿を思い浮かべながら記憶を頼りに早速再現して行く。
「出来た。どう?リーザ」
「これならば演奏中も気が散らないでしょう?」
鏡に映った自分に、ポツリとリーザが感想を漏らした。
「何だか…大人っぽくて、自分じゃないみたい」
「あら。気に入らない?ならば」
言いかけたその言葉に慌てて首を横に振る。
「ううん。何だか大人っぽくてその…」
リーザの言わんとしているその後を母親が継いだ。
「うん。ママもね、いつもそう思ってた。おばあちゃまの手にかかるといつもいつも…まるで自分じゃないみたいに綺麗でエレガントに仕上がって…」
ーー綺麗だよ。リーザ。
鏡越しの娘に囁くと、ユリウスは昔も、そして今も、母親がそうしてくれたように頭のてっぺんにそっと口付けた。
「さあ、それじゃあ演奏、楽しんでおいで。ママとおばあちゃまは、皆と一緒に客席で見守っているからね」
そう言って楽屋を送り出してくれた母親と祖母に
「うん。ありがとう。…ママ、おばあちゃま、大好き」
と弾けるような笑顔で応え、ロングスカートの裾を翻しリーザは楽屋を後にした。