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第百話 Ⅳ

第四章 昼餐

 

荷物を置いて、再び会場へと引き返す。

 

リーザがオケの一員としてリハーサル中の大ホールに顔を出す。

 

「ふふ…。やってるやってる」

 

舞台上でハープを抱え指揮台のイザークに向かって真剣な眼差しを向けている娘の横顔を客席から眺めているうちにリハーサルは終了した。

 

「ママ〜。お待たせ」

 

長い金のお下げを弾ませながら、制服姿のリーザが客席に駆け寄って来る。

 

「おばあさま、お久しぶりです」

そしてヴァシリーサの後ろに控えている人物に視線を移したリーザの碧の瞳が大きく見開かれた。

 

「!!フロイ…アンナ?!」

 

「お久しぶり。リーザ。…益々ユリウスにそっくりになってきたね。お姉さんになっててビックリした」

 

四年の別離を埋めるべく二人が固く抱き合う。

 

「アンナも…。すっごく綺麗になって…会えて嬉しい!」

 

ユリウスとリーザ、それからレナーテと、ヴァシリーサ、アンナの5人で公会堂内のカフェに入る。

 

そこへ、リハを終えたイザークとヘルマン・ヴィルクリヒもカフェへやって来た。

 

「やあ」

 

「あ、先生、イザーク。リハお疲れ様です。良かったらご一緒しませんか?」

 

〜〜〜〜

 

「紹介します。彼女はマダムヴァシリーサ・ミハイロヴァ。クラウスのおばあさま。それから、こちらの彼女は、マドモアゼルアンナ・ユスポヴァ。お二人とも、ロシアから亡命して来て、現在おばあさまはフランスのグラースに、そしてアンナは…」

 

「スイスの時計技師を養成する学校で学んでおります。初めまして。アンナ・ユスポヴァと申します」

 

「初めまして。ヘルマン・ヴィルクリヒです」

 

「イザーク・ヴァイスハイトです」

 

 

「ヴィルクリヒ先生はね、現ゼバスの校長で、イザークやクラウスの恩師なの。それからぼくのピアノの先生。母さんのパートナーでもあるんだ。イザークは…ロシアにも名声が届いていたからぼくが紹介する迄もないよね」

 

「ロシアで、貴方のリサイタルを聴きました。…素晴らしくて、あの時一緒に聴いていた家族と「凄かったね。ピアノってあんな音が鳴るんだね」とずっと話していた思い出があります。…その何年か後に新聞で手の故障で演奏活動を休止した旨を知りました。…音楽活動を、再開されたのですね。良かったです」

 

革命以前にロシアでリサイタルを開いた時のイザークの演奏を、アンナはよく憶えていたようだった。

 

「戦前の…僕の最後のヨーロッパツアーですね…。懐かしいなぁ。もう随分と昔の話のように思える」

 

「もう、指の故障は…よろしいの?」

 

ヴァシリーサの質問にイザークは静かな笑顔と共に首を横に振った。

 

「残念ながら。指の方はもう…。でも先生やユリウスたちの働きかけで、今は再び奨学金を得て、ミュンヘンで治療を受けながら理学療法を学んでいます。学を修めた暁には、故郷で治療院を開くつもりです。…それから、音楽の方も。今まで受けて来たたくさんの恩を、今度は後進の指導をはじめとする、今の僕に出来る形で返していきたいと思っています」

 

「そうですか…。それは、素晴らしい心がけですね。人生は思いがけない波乱があるもの。このわたくしも、それからこちらのアンナも。でもその波乱を乗り越えた者だけが、自分に降り掛かった苦難を与えたもうた神の真意を知り、そして生かされた意味に感謝するのだと、この晩節になってわたくしは思うのですよ」

 

「苦難の…意味?」

 

「ええ。そうです。…貴方の受けた苦難は、辿ってきた人生には、全て意味があって、今の貴方を作っているのではないかしらぇ?」

 

そこへ遅れてアレクセイが合流して来た。

 

「お〜!お待たせ。ん?なんだ?随分と賑やかなテーブルになってるな」

 

「やあ、お疲れ、クラウス。今ね、君のおばあさまから素晴らしく含蓄に富んだ人生訓を頂いていたところだったんだ」

 

「ホホ…。老人の、他愛無い戯言に真摯に耳を傾けてくれてね」

 

「へぇ〜。おばあさまの人生訓なんて…孫の俺だって聞いたことないぞ?」

 

「ホホ…。まぁ、そうですね。でもそもそも、人生訓を語ろうにもお前はそんなに…わたくしの身近にいなかったではないですか」

 

「アチャ〜。それ言われると…耳が痛いな。散々好き勝手して生きてきたババ不幸なドラ孫だったからなぁ」

 

「ホホ…。でも、それもこうして初ひ孫の誕生で、チャラ…ですわよね?」

 

ヴァシリーサの心のうちをレナーテが代弁して微笑みかけた。

 

「ええ、ええ。こうして貴女のような優しい義理のお母様と美しいお嫁さんそれからチャーミングなお嬢さんを得て、おまけに子宝にも恵まれて。平凡だけど幸せな人生を得たのをこの目で見届けられたというだけで…お釣りが来ますよ」

 

「ところでマダムたちは、どのぐらいこちらに滞在しているのですか?」

 

「ええ。しばらくね、ユリウスの実家のアーレンスマイヤ家の方々が、レーゲンスブルクに滞在を勧めてくださったのでね、あちらのお屋敷にお世話になることに致しましたのよ。アンナは夏いっぱいこちらに滞在して」

 

「新学期の始まる9月にはスイスへ戻ります」

 

「で、わたくしは、年内いっぱいこちらでお世話になって、ユリウスの赤ちゃんの誕生と成長を見届けるつもりです」

 

「そうですか!それは、楽しみですねえ。…ではどうぞ、我が校のクリスマスの学内演奏会にも是非足をお運びください」

 

「まぁ、…滞在の楽しみが増えましたね」

 

「オークネフたちには、長期休暇をやったんだろ?…思い切るよなぁ」

 

「ええ。彼らも…革命からの亡命を経て…今までずいぶんと苦労をかけましたからね。歳も歳ですし、ここらで長期のリフレッシュ休暇を取ってもらうのもいいかと思って、丁度良いタイミングでしたので、今までの勤続手当てと共に、年内いっぱいの休暇を与えました。リザは、やはり革命時に主人と共にニースへ亡命していた妹一家と過ごすようで、…身内のいないオークネフは当初休暇の取得を渋っていたのですが、結局アデールさんが手配してくださったアドリア海の保養地へ向かいましたよ。温泉のある素敵なヴィラでね…」

 

「へぇ…オークネフが、バカンス…ね。でもどーすんだよ?」

 

「あら、何がですか?」

 

「そんな長期休暇なんてやって、戻ってきたらオークネフもリザも、もう隠居させてほしいなんて言われたら」

 

「それは…その時は、しょうがないでしょう。そもそも革命後もわたくしに付き従って、遠く英国、果ては南仏にまで来てくれたこと自体が、もう過ぎた献身だったのですから。もしそうなっても…わたくしはもうこれ以上は引き止めるつもりはありませんよ。そうね、そうなったら、グラースの館を引き払って…ここのヴィラにでも入館しましょうかねえ」

 

「多分…あの二人に限っては、そんなことはありえないと思うけど。でも、もしそうなってしまったら、いつでも大歓迎です。最近ね、ここのヴィラ、評判を聞いて外国からの入居者の方たちも増え始めているのですよ」

 

「ではその時は、よろしくお世話になりますね」

 

「お腹にいるこの子も連れて…そうしたらしょっ中おばあさまに会いに伺います」

 

「あら!嬉しいわ。いっそのこともう本気であの二人には暇を出してしまおうかしら!」

 

案外まんざらでもないような祖母の言葉に

 

「おい!おいおい!何言ってんだよ。ったく。オークネフもリザも帰ってくんに決まってるだろう?あの二人の忠誠心甘く見んなっつの」

 

「…冗談ですよ。冗談。…全く冗談と本気の区別もつかないなんて…ヤボな子ですよ」

 

孫に突っ込まれたヴァシリーサが少し拗ねたように返す。

 

「でもヴァシリーサ様、さっきは目が結構本気でしたよ。…実は結構その気だったのではございませんか?」

 

アンナが中々鋭いところを突いてくる。

 

「そんなこと…。まぁ、正直言うとそれも悪くない、と一瞬その気にはなりましたけど」

 

「やっぱその気になったんじゃねぇかよ!」

 

ーーあはは

ーーうふふ

ーーホホ…

 

アレクセイ相手に繰り広げるヴァシリーサとアンナの話すややぎこちないドイツ語での、それでも丁々発止のやり取りに、テーブルが笑いに包まれる。

 

「嘘です。ウソ。わたくしは、年が明けたら、また南仏へ、グラースへ戻りますよ。あそこは気候も温暖で過ごしやすくて、なんと言っても同胞の親友がおりますもの。…国を離れて、今の地へ移住した時にね、彼女、「ヴァシリーサ様の最期はわたくしが看取ります。最期の最期まで、親友のこのわたくしが一緒にいます」と言って下さったのですよ。あの頃…孫のお前も失って今度こそ天涯孤独になってしまったと思っていたわたくしに…あの言葉は本当に心に染みましたね…」

 

何一つ自由のない貴族の令嬢として生まれながら、その人生は苦難の連続だった祖母だった。

 

早く夫と一人息子に先立たれた上に、その後も次から次へと我が身に襲いかかる試練を、ミハイロフ侯爵家の最期の女主として毅然と受け止め、生きてきた人生の晩節に思いがけず出来た女友達の存在は、年齢世代こそ違えど、今や生きる大きな支えとなっているのだろう。

 

「…そうですか…」

 

「ええ。ですから…わたくしは大丈夫ですから、お前はお前の道を、…進みたいようにお生きなさい。今まで通り。そしてこれからも」

 

「…はい」

 

 

 

「あ、今何時?」

 

「ん、一時…10分前だな」

 

懐から懐中時計を取り出して時間を確認したアレクセイの答えに、リーザが徐に席を立ち上がる。

 

「タイヘーン!…そろそろチューニング始めなきゃ!…ごちそうさまでした。お先に失礼します」

 

あたふたとテーブルを後にする娘の背中に、「後で控室に行くからね」とユリウスが声をかけた。

 

 

 

「ん。じゃあ私も…そろそろ行くとするかな。しっかり者のリーザと違ってあの年頃のヤローどもはまだてんで子供だからな。目を離すとどんなハプニングが起こるか分かりゃしない…」

 

リーザに続いてヴィルクリヒも席を立つ。

 

「あ、楽器屋の大将が、一応消耗品持って公会堂入りしてる筈だから。万が一何かあったら、おっさん捕まえて申し付けてくれ。替えの弦もリードも、大抵のものは揃えさせたから」

 

ヴィルクリヒの背中に声かけたアレクセイに、「分かった」とでもいうようにヴィルクリヒが右手の指を二本宙にかざしてみせた。

 

「さてと…。俺もそろそろ行くかな」

 

最後にやってきたアレクセイも残りの食事をかっこむと、ナフキンで口元を拭い、慌ただしくテーブルを立って行った。

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