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​第百話 Ⅱ

第二章 前夜祭

 

いよいよ記念すべき第一回さくらんぼの花の音楽祭が始まった。

 

前夜祭のレセプションは、この音楽祭に相応しく、ゼバスのオケを伴奏に音楽祭に招待した歌手による二重唱、マスカーニの『友人フリッツ』より「さくらんぼの二重唱」で幕を開けた。

ぼくも実行委員長夫人として、今日の開催まで共に動いて下さった方、協賛の方々、地元の方々、そして招待に快く応じて下さった演奏家の皆さんに、アレクセイと共に挨拶に回る。

 

「この度は開催、おめでとう」

「ありがとうございます」

 

勿論今回の大口協賛者でもあり、愛息子が演奏者として出演予定のキッペンベルク夫妻の顔も見える。

 

「やあ」

ぼくたちに気付いたモーリッツが、手にしていたシャンパングラスをぼくたちに向けてちょっと掲げてみせた。

 

「この度は多大な協賛を賜り、心より感謝申し上げます」

ぼくの丁重な感謝の言葉を、「やめろよ。堅苦しい挨拶は。さっきの開会の言葉だけで充分だよ」とモーリッツが大袈裟に肩を竦めておどけて遮った。

 

「フン!中々のもんだろ?俺の司会進行と乾杯の音頭も」

 

「まあね。正直意外だったよ。こうやってクラウスが…人前に立って堂々と仕切ってるの。なんかさ、昔の…ゼバスにいた頃のクラウスってさ、自然とみんなの中心にいることはあっても、何というか…進んで人前に立つの嫌がってたじゃない?「フン、しゃらくさいぜ」みたいな感じでどっか斜に構えててさ」

 

「あー…そうだったか?」

 

「そうだよ」

 

「じゃ、俺もオトナになって…青臭さが取れたって事かな。ハハ…」

 

「何だかな。アハハ」

 

本当は、違う。
ぼくは笑ってるアレクセイの横顔を見て思った。
ぼくは知ってる。
アレクセイは…ゼバスでクラウスと名乗ってた頃のアレクセイは…、やりたくても出来なかったんだ。

傍らのアレクセイの腕にギュッと腕を絡める。

 

「ん?どした?」
大人になって成熟し、年なりの落ち着いた風格を身に纏い始めた伴侶の穏やかな笑顔に、ぼくも笑顔で応える。

 

「…ううん。ねえ、今幸せ?」

ぼくの問いかけに、フっと小さく笑ってアレクセイは答えた。

 

「わかり切った質問すんな。ばかたれが」


「ところで、先ほどのオープニングの歌手の方達は…ドイツ人ではないわよね。…外国からも参加があるなんて、驚いたわ」

先ほどのオープニングのガラで圧巻の声を披露してくれた歌手の二人をチラリと見てベッティーナが言う。

レセプション会場でもよく響く少しイタリア語っぽいなまりのある二人のドイツ語。


「そうだね。彼ら…カルロとチェチーリアは、イタリア、ミラノを拠点に活躍しているオペラ歌手だよ。あ、チャーオ!カルロ、チェチーリア!」

ぼくらの視線に気付いたカルロとチェチーリアに声を掛けて、二人に引き合わす。

 

「チャーオ!ユリア。クラウス、初めまして。ユリアからお噂はかねがね。今日はお会いするのを楽しみにしていたわ」

いかにもラテン人らしい熱烈なハグとキスを交わし合う。

 

「ピアチェーレ。クラウス・ゾンマーシュミットだ。この度は招待に快く応じてくれて有難う」

今日晴れて初対面となったアレクセイとも挨拶を交わす。

 

「あ、紹介するね。カルロとチェチーリア。ミラノ・スカラ座の舞台にも立っている現役バリバリのオペラ歌手。カルロ、チェチーリア、彼らはキッペンベルク夫妻、モーリッツとベッティーナ。ぼくらの古い友人なんだ」

モーリッツとベッティーナにも二人を紹介する。

 

「初めまして」
「初めまして」

 

ぼくに引き合わされた二人が握手を交わした。

 

 

「お二人は、ユリアの知己なのね。…このヨーロッパで広くビジネスを展開している貴女の顔の広いことは知っていたけれど…まさかイタリアのオペラ歌手にまで人脈があったなんて…」

 

「うん。そうだよ。カルロとチェチーリアとは、実はエレオノーレ基金が縁で知り合ったんだ」

 

「へぇ!そうなの」

 

「5年程前レーゲンスブルクから奨学金を受けてミラノへ一人の歌手志望の青年がやって来ました。以来私たち夫婦は彼の歌の先生としてずっと指導してます。ユリアはずっと彼のことを気にかけていて、ミラノへ商用に来た折にはいつも…、そう、まるで母か姉のように彼を訪ねては励ましていて…。それで交流を深めました。彼も「奨学金を貰ったそのあともキメの細かい親身なサポートをしてくれたことは感謝に堪えない。折に触れて自分を訪ねて励ましてくれていたユリアの存在がどれだけ励みになったか」と言っていたわ」

 

「神様から授かった才能は、大事に育てていかなくては。…ぼくは才能を育てることは、金銭の援助だけだとは思わないからね。だから、エレオノーレ基金を受けて広い世界へ飛び出す若い才能の種は…金銭以外でも出来る限りのサポートをしていきたいと思っている」

 

「この基金を受けた学生は…幸せね」

 

「今回の音楽祭でも、かつて基金を受けて育って行った若い才能たちが、多く出演する予定なんだ」

 

「へぇ、そうなんだ。確実に…若い才能は芽吹いて大きな花を咲かせつつあるんだな。僕もゼバスを去ってから、ずっとこの基金を支援してきた甲斐があったな」


そこへイザークと連れ立ってヴィルクリヒ先生がやって来た。

 

「あ、先生。イザーク!」

 

「…やぁ。ずいぶんと無沙汰をしてしまったね。この度は僕を総合プロデューサーという栄えあるポストに迎えてくれてありがとう。…それから、音楽の世界への復帰のチャンスも…」

そう言ってイザークが両手でアレクセイの手をギュッと握った。

 

「ん…。さっきのオープニング、中々良かったぜ。勘、鈍ってないじゃんかよ」

感激で目の縁を僅かに赤らめた、そんなイザークの腕をアレクセイがポンと軽く叩いた。

 

「それは…ヴィルクリヒ先生が、ここまでオケを指導して仕上げてくれていたからだよ。…僕は、そんなふうにみんながお膳立ててくれたステージに最後に乗ったに過ぎない」

 

「あちらでの…成果はどう?イザーク」

 

「ああ。リハビリの甲斐あって…大分機能は戻ってきたよ。だけどやっぱり…完全に元のようにというのは…無理なようだ。でもこれで、僕も決心がついたよ。ピアニストとしてのイザーク・ヴァイスハイトは、引退だ。これだけ手を尽くしてリハビリに励んだことで、僕も踏ん切りがついた」

イザークの表情と口調は、吹っ切れたようにサバサバとしていた。

 

「そうなの」

 

「あぁ…、そんな顔をしないでおくれ!ユリウス。残念ながら手の機能は元どおりにならなかったけれども、イザーク・ヴァイスハイトの人生が終わったわけではないんだから。僕はこれからも理学療法の研究に邁進して…学を修めた暁には、レーゲンスブルクに帰って来て、治療院を開くつもりだ。指を壊した音楽家だけではなく、年老いて運動機能が衰えて来た人や、戦争や怪我、それから病で体の機能の一部を失った人の機能の回復の手助けをしていきたい」

 

あぁ!
これからの人生を、未来を、瞳を輝かせながら語るイザークは、かつてのピアノの道を邁進していた頃の彼と同じ力強さと真っ直ぐな信念が身体中から漲っていたんだ。

 

「うん…うん。…そうだね…、イザーク。君なら…君にこそ相応しい使命だと、ぼくは思うよ」

 

やだ…。
涙が…止まらない…。

 

声を詰まらせながらやっとそう言って、とめどなく溢れる涙を拭っているぼくの頭を「泣くな」とアレクセイがポンポンと撫でた。

 

「それから…お前の「音楽の」新しい章も、ここから始まるんだ。…ピアニスト、イザーク・ヴァイスハイトは引退でも、音楽家イザーク・ヴァイスハイトの引退は…俺は認めねぇかンな」

 

「それは私も同感だな。恩師として、お前さんの才能を見守ってきた者として…お前さんはまだ音楽家として全てのことをやり切ってはいない…だろう?私は師としてお前さんの音楽を行き着くところまでこれからも見守っていく使命があると…自負しているから、な」

 

「クラウス…ヴィルクリヒ先生…」

 

「それならば、僕だって…。君に花を持たせて、輝かしい音楽家としての道を譲ってやった立場として…君はこれからも素晴らしい音楽で応えて行く義務があるからな…。よもやもう借りは返したなんて…思われちゃ困るよ」

 

「モーリッツ…」

 

「僭越ながら…同じ音楽家として、そしてあなたと同じく、かつて奨学金を得て、たくさんの人々の後押しと支援に支えられて今の声楽家としての現在がある身として、私たちも、あなたの音楽の世界への復帰を心から望みます。…偉大なるマエストロ、イザーク・ヴァイスハイト。…はじめまして。イタリア、ミラノで声楽家として活動しております。…かつてあなたの素晴らしい演奏を聴き、そして同じような境遇であったと知り、感動と共に勇気を貰った者です。今日はそんな貴方の指揮で歌うことが出来て、あの時の感動が蘇り、魂が震えました」
ーー私はカルロ・ロッシ。そして彼女は妻のチェチーリアです。私達夫婦は主にミラノで舞台に立っております。…いつかまた、今度はミラノのオペラハウスで共演できる日を楽しみにしています。マエストロ。

 

「こちらこそ。…これから、オペラの猛勉強をしなくてはならないな…。また、人生の生き甲斐が、一つ増えました。その時を楽しみにして精進します。スィニョーラ、エ、スィニョールロッシ」

 

感激で声をつまらせながら、イザークが差し出された二人のオペラ歌手の肉厚な手を、堅く握り返した。

 〜〜おまけ〜〜

 

「ユリウス、お前さん前夜祭の間ずっと立ちっぱなしでいたんじゃないのか?もう今日は休みなさい。おい、クラウス、ユリウスを送って行ってお前さんももう休め」

立食形式の前夜祭の間、ずっと会場を立ちっぱなしでアレクセイと共にホステス役を務めていたユリウスの身体をヴィルクリヒが気遣う。

 

「え?大丈夫ですよ」

 

「大丈夫なものか!大事な身体だ。無理は禁物だ、おい、クラウス」

 

「あ、あぁ。…そうだな。ユリウス、今夜はホステス役を務めてくれて有難う。もう今日は休もう。すみません。こいつ送り届けたらまたすぐ戻って来ますんで…」

 

「いいよ。お前さんだってここんとこ休みなしでずっと動いてたろう? 今日はもう私とボランティアの学生だけで事足りるから。もう戻ってこんでいいから、お前も休みなさい」

アレクセイの申し出に、ヴィルクリヒは早く帰れとでもいうように手をヒラヒラさせながら答えた。

 

「…すみません。じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます。…ユリウス、じゃあお暇させて頂こう。…失礼します。あとはよろしくお願いします」

「皆さん、ではお先に失礼します」

 

連れ立って会場を後にする二人に

「ん。…音楽祭、成功させような」

とヴィルクリヒが温かい言葉で送り出す。

ユリウスの肩を労わるように抱いたアレクセイが、深々と頭を下げて、前夜祭の会場を後にした。
 

Mascagni - Cherry Duet from "L'amico Fritz"

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