第百話 Ⅰ
ぼくの人生でおそらく最高の数日が始まった。
プロローグ 出発
「戸締り火の元は大丈夫か?」
「うん。オッケー。アレクセイ、忘れ物はない?」
「大丈夫だ」
「靴は持った?まさかヴァイオリンを忘れるということはないと思うけど…」
「あ!やべ」
ぼくの指摘にアレクセイが慌てて音楽室にとって返した。
「ユーリカ、アレクセイ、支度は済んだ?もう外にハンスが来てくれてるわよ」
ぼくたちと同じく旅行鞄を提げた母さんがリビングに顔を見せた。
「うん。…今誰かさんはあわや大事なもの忘れそうになって慌てて取りに行ったけど」
「やー、焦ったー」
そこへ楽器ケースを手にしたアレクセイが決まり悪そうな照れ笑いを浮かべて現れた。
「全く…。一番肝心なそれ忘れてどうするの?ってハナシだよ」
ーー全く…。そそっかしいお父ちゃまですね?
お腹に語りかけたぼくに
「言うなよ!…さすがの俺だって今回ばかりはパッツンパッツンにテンパってんだよ!」
と、珍しく素直に今の正直な心の内をぼくたちに吐露してくる。
「ホホ…。そうよね。ユーリカと一緒に立つステージに、実行委員として初めて仕切る音楽祭。それに…」
「…ハイ。俺の…人生最大の大舞台です」
母さんの問いかけに、アレクセイは大きく頷くとぼくの肩を優しく抱きよせた。
ーープップー!
外から焦れたハンスの鳴らしたクラクションの音が鳴る。
「さ、行きましょう。ユーリカも、忘れ物ないわね?…ドレスは持った?靴は?アクセサリーは?楽譜も持ったわね?」
「ハイ!万全です。ステージ用のドレスも靴もそれからお式のドレスも靴も、楽譜も準備万端です。行こう!ハンスが焦れてる」
「んだな。…行くか」
ドアに鍵をかけ、ぼくたちの心躍る数日間はこうして開幕したんだ。
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「荷物はこれだけか?」
トランクに荷物を積み込んだハンスが今一度確認する。
「うん。出して下さい」
「よっしゃ。出発」
車が滑るように発進し、俺たちを乗せて会場の農園へと向かう。
「具合悪くなったら言えよ。車止めるから」
ハンドルを握るハンスがミラー越しに後部座席のユリウスの身体を気遣う。
「うん。大丈夫。今回はね、不思議と悪阻の気持ち悪さが殆どなかったんだ」
「その代わり食欲はすごかったけどな」
「おかげで太っちゃって当初着るはずだったウェディングドレスが入らなくなっちゃったの」
ユリウスが白状して肩を竦めてペロリと舌を出した。
「へ〜。そうだったんだ。…言われてみればリーザ…お嬢様の時とは打って変わって体調はずっと良さそうだったよな」
「うん。リーザがお腹にいた時はちょっと悪阻が辛くてね…。あの時はしょっ中車酔いしてハンスにも迷惑かけちゃったね」
「バーカ。別に迷惑なんかじゃねぇよ。そういや、リーザ…お嬢様は今日は一緒じゃないのか?」
「ふふ…。「お嬢様」は要らないよ。リーザでいいよ。うん、リーザはね、ゼバスで楽器の積み込みに立ち会ってから、オケのみんなと列車で会場入りするって」
「へ〜。そっか。あのちっちゃかったお嬢ちゃんも、すっかり親離れ…てか?」
「あー、うん。そうだね…。もうとっくにママべったりは卒業だね。あの子しっかりしてて独立心強いから。…まあ、半分は育った環境のせい とも言えるけど」
「ま、それはいーんじゃね?逆にいい歳していつまでも親べったりじゃ、それはそれで心配だろ」
「ユーリカは、いいお母さんよ。ねえ?そう思うでしょう?クラウスも」
「はい。俺から見れば母親として…母と娘の関係として、ユリウスは…ユリウスとリーザはパーフェクトです」
ミラー越しにユリウスの顔を見つめ、はっきりとそう断言した俺に、ユリウスはちょっと照れたような、でも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「お、よかったなぁ。ユリウス。パーフェクトだってよ。大したもんだな」
「買いかぶり過ぎだよ。…でも、すごく嬉しい」
他愛のない話をあれこれとしているうちに、今回の音楽祭の、そして俺たちの結婚式の会場となる農園の村に到着した。