第百話 Ⅹ
第十章 ウェディングパーティー
Scene,1
「おーい、支度済んだかー」
新郎新婦の控え室として提供してもらっている農園主宅の一室のドアをアレクセイが叩く。
「整ったわよ。どうぞ、入って」
ドアが開き、レナーテがアレクセイを中に招き入れた。
「…どうかな?」
少しはにかみながらユリウスが振り向いた。
式の純白のドレスと少し趣向を変え、淡いモーヴ色のドレスは、この時期に咲くライラックの花の化身のようだ。
髪もすっきりと纏め上げてほっそりとした白い首筋が一際美しい。
思わず妻の身体を引き寄せその白い首筋に唇を押し付けようとしたアレクセイを、寸ででレナーテが止める。
「あら、ダメよ!今は。…花嫁さんの首筋に跡が残ってしまうわ」
「あ、…すみません」
我に帰ったアレクセイに、花嫁の母が青い矢車菊の花冠を手渡す。
「これを。あなたの手でつけてあげて。花嫁さんの最後の仕上げよ」
花婿の手で、金色に輝く頭に、花嫁の澄んだ瞳を思わせる青い花冠が被せられた。
「綺麗だ」
仰ぎ見たユリウスの白い額に口付ける。
「さあ、ユーリカも」
今度は花嫁の手に矢車菊の小さなブートニアが手渡される。
「アレクセイの好きな…」
「俺の好きな、妻の瞳の、ブルーだ」
ーーありがとう。
襟元にブートニアをつけてくれたユリウスに今一度口付ける。
「さあ、行こうか。ゲストの皆さんと…それから介添人たちも待ちくたびれてるぜ」
「うん!」
ーーおーい!お二人さん。まだか〜?
ーークラウス〜、叔母様〜。皆お待ちかねよー。
ドアの外から聞こえて来る、ハンスとテレーゼの声に、「おー!悪いな。今いくぜ」とアレクセイが答え、ユリウスの手を握ると、控室を後にして行った。
ウェディングパーティーは、式と同じ場所で行われた。
会場の所々に置かれたテーブルにはこの村の土地の恵みを用いて作られた軽食やデザート類、そしてドリンク類が並んだビュッフェ形式となっている。
供された料理の大半は、農園主夫人のローラの陣頭指揮によって村の婦人方の手で作られたものだ。
気取りのない立食形式のパーティー会場に、早くも集った人々が銘々挨拶や歓談に花を咲かせている。
その間を縫うように、サービス係がシャンパンを載せた盆を手に、ゲストたちに乾杯の盃を配って回っている。
大方皆の手に飲み物が渡ったのと、介添人たちに付き添われ新郎新婦が会場に向かって来たのを確認した楽団の指揮者がそのタイミングで、タクトを振り上げた。
この日のためにユリウスが是非にとリクエストをして、それを受けヘルマン・ヴィルクリヒが小編成の管弦楽用に編曲されたその曲は、ドニゼッティのオペラ『愛の妙薬』の中のヒロイン、アディーナによってラスト近くに歌われるアリアだった。
弦のピチカートとハープによる伴奏で、アリアの主旋律がフルートのソロで奏でられる。美しいメロディーに合わせて、新郎新婦が介添人たちに伴われ、恭しく再登場する。
手を繋ぎ合い、新婦の片手には先ほどの式でも携えていたブーケが。そして新郎の片手にはー、愛器のストラディバリがある。
拍手と共に迎え入れられた新郎新婦が、誓いの木の前に設えられた席へと着席する。
新郎新婦の起立に拍手が鳴り止んだ。
二人がゲストたちに一礼し、アレクセイが開会の言葉を述べる。
「えー、今日は皆さんお忙しい中、私たちの挙式並びにウェディングパーティーに出席いただき、ありがとうございます。厚く御礼を申し上げます。そして、私たちの結婚式を提案してくれたのみならず会場を快く提供してくれ、私たちの我がまま一つ一つに耳を傾けてくれてこのような素敵な形で叶えてくれた農園主夫妻、並びに手伝って下さったこの村の方々、そして式とパーティーを彩る音楽を提供してくれたゼバスの皆さん、介添人を引き受けてくれた友人家族親戚、フラワーガールとヴェールボーイを務めてくれた愛らしい天使たち…この場を借りて心よりの感謝を申し上げます。これ以降は、肩肘張らない気のおけない宴の場とさせて頂きますので…、この村の土地の恵みに舌鼓をうちながら、楽しい音楽とダンスと、それから歓談で楽しい時間をお過ごし下さい。…僕たちも会場を回って皆さんと気のおけない楽しい時間を過ごしたいと思っております。僭越ながらパーティーの最初だけ、乾杯の音頭をとらせて下さい。皆さんお手元にグラスは行き渡ってますね。…では、今日は皆さんどうもありがとう!乾杯!!」
皆が手にした盃を掲げ、パーティーが始まった。
〜〜〜〜
「ウェディングケーキの入場ですよ〜」
トロリーに載せられ恭しく登場して来たウェディングケーキに、ゲストたちが群がる。
「わぁ!」
「ステキね」
それは、大きなシャルロットで、中の白いムース生地の上にはこの村の特産のさくらんぼのコンポートがふんだんに乗っていた。
「この季節に合わせた爽やかで口当たりの良いヨーグルトとチーズ風味のムースとなっております。このケーキに、新郎と新婦の手で仕上げをしてもらいます」
ブライズメイドとグルームズマンの手でさくらんぼのソースと、これも農村で採れた蜂蜜の入ったガラスジャーが運ばれて来た。
アレクセイとユリウスが顔を見合わせ小さく頷き合うと、それぞれジャーを手に取り、白いケーキに仕上げを施した。
ルビー色のサクランボソースと黄金色の蜂蜜が帯になって川のように流れ白いケーキを染めていく。
新郎新婦を囲むように集まった人々から今一度の大きな拍手が上がった。
〜〜〜〜〜
今日のゲストたちの間をアレクセイとユリウスが挨拶に回ってゆく。
「結婚おめでとう。いい式ですね」
「ありがとうございます」
「お式の純白のも良かったけど、そのライラック色のドレスもステキだわ。…あら、よく見ると胴衣とオーバースカートだけチェンジしているのね」
「気にしていたお腹も目立たないわよ。良かったじゃない」
「うふふ。ありがとう。カタリーナ、ベッティーナ。姉様と母さんと…それから父様がサプライズでプレゼントしてくれたの。綺麗なだけじゃなくて、お腹を締め付けないデザインでとても着ていて楽なんだ」
「それは…とても良かったです。おめでとうございます。ユリウス様。…ホラ、ユーベル。ユリウスさんとクラウスさんになんて言うの?」
母親がわりの叔母にせっつかれたユーベルが、もじもじしながら
「おめでとうございます。クラウスさん、ユリウスさん」
と二人に祝福の言葉を贈った。
「ありがとう〜。ユーベル。今日はヴェールを持ってくれて、どうもありがとうね」
「ありがとな。お前さんと、それからアイルを花で清めてくれたクローエのお陰で、いい式になったよ」
子供の背の高さに屈んだ新郎新婦に抱きしめられ頬を寄せられて、頭をクシャクシャと撫でられたユーベルはこそばゆそうな、でも誇らしげな笑顔を弾けさせている。
「クローエも…」
ーーおいで。
花嫁に手招きされてクローエがユリウスの方へ歩み寄る。
「今日は、フラワーガールの大任、ありがとう。…これはぼくからの感謝の気持ち」
クローエを抱き寄せ柔らかな頬にキスをしたユリウスが、手にしていたブーケを差し出した。
「!!」
ブーケを渡されたクローエの父譲りのヘーゼルの瞳が、驚きで一回り大きく見開かれる。
「ユリウス!感謝の気持ちは嬉しいけど…。花嫁さんの縁起物のブーケを…。そんな。頂けないわ!もっと参列者には妙齢の…ブーケを受け取るに相応しいお嬢さん方が沢山いるじゃないの。さ、クローエ、ブーケをユリウスにお返しして…!」
慌てて辞退させようと娘の手にしたブーケに手を伸ばしたベッティーナに、クローエは顔を歪めて「イヤイヤ」とそのブーケを抱き抱えた。
「いいの!…いいんだよ。そのブーケは、クローエのものだよ。確かにアニエスやテレーゼ、それにうちのリーザや、それからアンナも。お年頃の女の子たちは沢山いるけれど…。彼女たちには将来を誓った人が既にいたり…、今さら縁起物のブーケは必要ないんだよ。…それに彼女たちの中の誰か一人を選ぶことも出来ないしね」
ーーだから、これは、これからの真っさらな未来が広がったクローエに。
「そ…う。それならば。…ありがとうね。ユリウス。ホラ、クローエ、ユリウスにちゃんとお礼を仰い」
どうやらその手にした綺麗なブーケを、自分が所有していても良いと言うことが分かったクローエは、花嫁と母親の顔を交互に見上げると、先程の半ベソ顔を笑顔に変えて言った。
「どうもありがとう」
scene2
「おめでとう、クラウスさん、ユリアさん」
「ありがとう」
「今日は音楽ありがとうな」
素晴らしい音楽で式に花を添えてくれたゼバス有志のアンサンブルの所へ主役が現れた。
その中には愛らしいディアンドル姿のリーザもハープ奏者として参加して、同世代の音楽仲間に囲まれ和気藹々と楽しそうな笑顔を弾けさせている。
「こうして同じ色のドレスを着ると、リーザとユリアさんは本当に瓜二つだね」
「うふふ。そうでしょう?声も似ているからね、良く間違えるんだよね?」
「こいつ電話で俺が間違えてるの分かっててわざと「うん、うん」て俺に話を続けさせるんだよ」
「だぁって〜。面白いんだもん。別にいいじゃん。電話ぐらい。…ちゃんと用件はママに伝えたよ」
「イヤ、そういうことじゃなくて」
「ああ、電話の最後に「愛してるよ。ハニー」って激甘なイケボで愛を囁いてくれたこと?しかもチュ!っていうキス付きで?」
「バ…!」
「クラウス?!…そうなの??」
思わぬリーザの暴露に花婿は狼狽え花嫁が気色ばむ。
「イヤだから、間違えただけだって!ホンットお前らと…それからレナーテさんもだけど…、みんな同じ声してんだぞ?電話で分かるかよ!」
「アハハ。やっちまったね、クラウスさん」
「ちぇー。…あのなぁ、お前らそうやって笑ってるけど…、じゃあ目ぇつぶってこいつらの声、聞き分けられるか?」
すっかりブスくれた面持ちでそう言った花婿に、その場の学生たちが互いに顔を見合わせる。
「んなの、無理に決まってんじゃん。旦那さんでさえ間違えるのをさ。僕たちが判別できるわけないよ」
〜〜〜〜
「クラウスさんとユリアさんの演奏聴いたよ。すっげーカッコ良かった。スペイン交響曲。俺もいつかやりたいな」
昨日の二人の演奏を聴いてくれていたヴァイオリン奏者の学生が、目を輝かせてそう語った。
「お、聴いてくれてたのか!ダーンケ」
「ユリアさんのピアノも、スッゲー上手で驚いた」
「僕は知ってたけどね」
子供の頃からユリウスと母親が親しくしていたヴォルフィがしたり顔で横からうそぶく。
「そりゃお前はそうかもしれないけど。俺らにとってユリアさんはさ、「ゼバスの学生をいつも優しく見守ってくれる女神様」だからさ。まさかあんなに凄腕だったとは」
ーーなぁ?
ーーうん。
「ウチのピアノ科の連中にも引けを取らない腕前で、びっくりしました」
ゼバスの学生たちからの称賛にユリウスの顔が綻ぶ。
「だいぶパートナーにしごかれたからね。耳の肥えたみんなのお褒めに預かり…頑張った甲斐がありました」
「あれだけ練習積んでりゃ、まぁ本番は余裕だと思ってたらさ。直前の舞台袖でまさかのアレだもんなぁ。青い顔してふるふる震えてんの見た時は内心「うわ!マジか?」って一瞬焦ったぜ」
昨日の本番直前の出来事を暴露したアレクセイに、今度はユリウスが狼狽る。
「も、もう!おしゃべり!!」
「ユリアさん、真っ赤〜」
「え〜。いいじゃんいいじゃん。俺だって本番や試験はめっちゃアガるからさ、気持ちわかるよ〜」
「ユリアさん可愛い〜。袖でふるふる震えてるユリアさん、俺もギュっとしてあげたかったな〜」
「バカ言ってろよ。お前なんかお呼びじゃねーってよ」
ーーアハハ…
学生たちにやんやと囃してられたユリウスが耳まで真っ赤にして言い返した。
「も、もう!大人をからかうんじゃありません!!」
〜〜〜
「ねえ…一つ、聞いてもいいかな」
学生の一人がおずおずとアレクセイとユリウスに切り出した。
その学生の言葉にユリウスが小首を傾げ、「おう、何だ。」とアレクセイが先を促す。
「リーザから聞いたんだけど…。その、二人って…、オルフェウスの窓で出会った恋人だって。。あの、さ。二人はあの伝説のこと、不安じゃなかったの?つまりその…」
「おい、やめろよ」
「おめでたい席で縁起でもない」
周りの仲間たちが場にそぐわない質問を窘める。
「だって…」
質問をした学生が俯いたその時に、じっと考える風な面持ちを見せていたユリウスが口を開いた。
「あの…ね」
ーーぼくは、思うんだ。…悲しい恋が、必ずしも不幸な恋とは言えないんじゃないのかなって。
「え?」
その言葉に思わず顔を上げた学生と、周りの学生たちの視線を受け、ユリウスが話し始めた。
「ぼくとクラウスは…確かに今の君たちぐらいの年頃に、オルフェウスの窓で出会った。そして…伝説通りに、ぼくはクラウスに恋をした。ね?」
腕を絡めた妻からニッコリと微笑みかけられ、「俺は一目惚れだったぜ」とアレクセイが即答し、学生たちからヒュウ!と口笛が上がる。
「だけど、あの頃のぼくたちは、それぞれに定められた将来があって、二人の未来に「一緒に生きていく」という選択肢はなかったんだ。…切なかったよ。彼のことが好きになればなるほど、苦悩もまた増していった。そしてぼくたちは…定められた人生に従って、別れの時を受け入れた。…悲しくて、悲しくて、彼が恋しくて…いっぱい泣いた。でも、悲しくて悲しくてまるで心に大きな穴が開いたように痛む心を抱えた自分を…、そんな恋をした自分を、不幸せだと思った事は、一度もなかったよ」
「俺もそうだな。苦しい時、試練に向き合った時…、心の中のこいつの存在が俺を奮い立たせた。…離れていた時も、心の中にいつもこいつは俺と共にあった」
二人が見つめ合い大きく頷き合う。
「悲しい恋でも…不幸な恋じゃ…ない?」
その言葉に二人が頷き、「少なくとも…ぼくたちにとっては」と言い添えた。
「俺たちはこれからも二人手を取り合って、窓の伝説なんか打ち負かして生きてくつもりだけどな」
「…これから、不幸な結末が待っているかもしれないって…怖くならないの?」
「二人でなら、怖くない。今ここに、こうして繋いだ手の温もりと力強さこそが、ぼくの、二人のリアルだから」
「まぁ、さ。お前さんも、いや、ここにいるみんなもな、きっかけがオルフェウスの窓であろうがなかろうが、恋はして欲しいと俺は思うよ。それがどんな結果に行き着こうと、その恋はお前たちの人生を豊かにすると思うから。ましてやお前らは音楽家だ。芸術の僕だろ!尚更恋はした方がいいぜ。…よし!これは俺からの…偉大な先輩からの課題だ!お前ら、卒業までにいい恋愛をしろ!んで首尾良く恋に落ちたら俺に報告に来い!」
突如発令されたその突拍子もない課題に、学生たちが一瞬目をパチクリと瞬かせ、その後ドっと沸き立つ。
「え〜?!恋〜〜?!」
「そうだ」
「俺はしてるけどね」
「お?感心感心。じゃあ、音楽祭が終わったら詳しく聞かせろ」
「何でだよ〜」
「何でも だ」
「僕は早速件の窓から下を見下ろそうかな〜」
「僕も」
「うふふ。まるで窓ラッシュだね。じゃあリーザは学校の友達に触れて回っとくよ。「オルフェウスの窓の下を通るといいことあるかもよ〜」ってね」
「よーっしゃ!ダンケ!リーザ」
ーー休み明けが、楽しみだぜ!
ーー俺もクラウスさんとユリアさんみたいに、運命の恋人に出会っちゃうかもな〜。
すっかりまだ見ぬ恋人との未来に舞い上がる学生たちに、アレクセイが忘れずに釘を刺した。
「お前ら、窓辺に立つのもいいけど、あれ大分古くなってガタ来てるからな。くれぐれも落下だけは気を付けろよ。いくら下が気になるからってあまり外に身体を乗り出しすぎるなよ」
scene.3 NEW
「叔父様叔母様!」
「おめでとう、ユリア。…今日は一段と綺麗だこと」
二人がユリウスの叔父と叔母、アルフレートの実妹夫婦に挨拶に上がる。
「ありがとうございます。紹介が遅くなりました。…夫のクラウスです」
今日が初対面となるアレクセイと叔母夫婦をユリウスが引き合わせた。
「ご挨拶が遅くなりました。…クラウス、いえ、アレクセイ・ミハイロフです。先だっては色々と骨を折って頂いたと、義父から聞きました。お礼が今となってしまいましたこと、無礼を平にお許し下さい」
「なに、構わんさ。私が礼は不要とアルフレートに断ったんだ。…君のことはアルフレートからくれぐれも と頼まれてね。私たち夫婦にとってもユリアは可愛い姪だ。彼女のためならこんなことお安いご用さ。これからも何かあったら遠慮なく頼りなさい」
流暢なドイツ語で挨拶したアレクセイに叔父のフリードリヒが握手の右手を差し出した。
「あなたたちのことは…ね」
アルフレートの妹でユリウスの叔母にあたるゾフィが語り始めた。
「少女の頃のユリアが、
初恋を謳歌していた事は、わたくしも知っていたのよ」
「あ、ゲルトルート?」
ユリウスの問いかけにゾフィが優しい眼差しで肯く。
「この子が恋を諦めて、家の決めた縁談で嫁ぐ事は、少し不憫にも感じたわ。…わたくしたちの時代と違って今は、家や親の決めた縁談ではなくて、自由に恋愛をして伴侶を決めるものなのでしょう?」
「叔母様…」
「でもこの娘は…本当によくやってくれた。家の、アーレンスマイヤ家のために尽くしてくれた。いいえ、昔も今も変わらず、ずっとこの家に尽くしてくれている。あなたの存在に正直、アーレンスマイヤ家はどれほど救われたか分からない。ありがとう、ユリア」
「そんな…」
「あなたが離縁してこの家に、レーゲンスブルクに戻ってきた時に、少なからず耳の痛い小言を言ってしまって…あの時はごめんなさいね。でも、あなたはその後もマリアと二人力を合わせて事業を拡大し、難しい時代もうまく舵を取って、本当によくやってくれた。…きっとあなたが心から望んだ人と再び巡り合って、こうして今があるのも、頑張って真摯に人生を歩んできたあなたへの、神様からの…ご褒美かもしれないわね」
感極まりうっすらと涙ぐみながら、普段は厳格な叔母が花嫁衣装に身を包んだ姪娘を優しく抱き寄せた。
そんな二人に、フリードリヒがちょっと肩を竦めながら言った。
「おいおい、お前たち…。神様はまずいんじゃないのか?…何たって、ユリアのご夫君は」
ーーなぁ?
肩を竦めたまま傍のアレクセイに茶目っ気たっぷりに目配せをする。
「あはは…。いやもう、それは置いといて…。でも、神様かどうかは…俺にも分かりませんが、こいつと繋がっていた細い細い縁を手繰り寄せ、再びこうして手を取り合うことが出来たそれまでには、俺たちを…俺の背を押し導いてくれた無数の人の縁があった。何人もの人の手が繋いで行くように、俺を再び…こいつの元へと導いてくれた。尤も祖母に言わすと、
「それこそが神のお導き」なのだそうですがね」
アレクセイもちょっと肩を竦めてフリードリヒに返した。
「そうだ。君のお祖母様も、参列されているのだったね。是非挨拶をさせてもらわねばな」
「あ、はい。光栄です」
「お祖母様に付き添いで、今回はフロイライン…アンナも来てくれたのよ」
ね?
ああ。
そう言ってユリウスが嬉しそうに腕を絡めた夫の顔を見上げ微笑んだ。
「ほう。プリンセス…アンナも!これは久しいな。これは是非とも美しく成長されたアンナ嬢の姿も拝見せねばな」
ーーお祖母様、アンナ!
少し離れた場所で二人寄り添って、この数日で知り合った人たちと楽しそうに歓談していたヴァシリーサとアンナを、ユリウスが呼び寄せ引き合わせた。
SCENE4 12/31 NEW
アレクセイのヴァイオリンとゼバス有志のオーケストラの奏でる音楽に合わせて、招待客たちが三々五々手を取り合い、ダンスに興じ始める。
今日のその場に居合わせた愛する人たちが、時に相手を変え、笑いながら、このかけがえのないひと時を共有する。
小さなユーベルもダンスのステップは知らないながらも音楽に合わせ楽しそうにクローエの手を取りくるくると、会場中を回りながらダンスを楽しんでいた。
そんな甥の姿に、笑みをたたえながら傍で見つめていたフリデリーケに、声がかかる。
「フリデリーケ、僕たちも踊らないか?」
「兄さん…」
〜〜〜〜〜〜
「大丈夫。兄さんに任せて。…そうだ、音楽をよく聴いて。うん、中々上手いぞ」
音楽に合わせイザークがフリデリーケをリードする。
「兄さんも…。ダンスこんなに踊れるなんて…知らなかった」
音楽に合わせリードされながらイザークの腕の中でフリデリーケが答えた。
「まあな。昔…ウィーンにいた頃は、それなりに社交の場にも出ていたからな。…そう言えば、お前を、ウィーンにいた頃はついぞ一回も社交の場に連れていかなかった…な」
「…」
兄が珍しく、滅多に口にしないピアニストとしての人生の絶頂期のウィーン時代を振り返った。
音楽に合わせてフリデリーケをリードしながら尚もイザークが続ける。
「こないだ…クラウスと一緒に、ミュンヘンにユリウスが来たんだ」
「あ、エレオノーレ基金?」
「うん。そうだね。来年大学での課程が修了する予定の僕に…これからのことについて面談を、ね」
「うん。私の時もあった…かな。ありがたいよね。本当…」
「ああ」
ーーその時…ね。
音楽に身を委ねながらイザークが腕の中のフリデリーケに語り始めた。
〜〜〜〜〜〜
1922年早春 ミュンヘン。
「イザーク、久しぶり。充実しているんだね。顔に、瞳の輝きにそれが現れているよ」
「やあ、ユリウス。君も…聞いたよ。お腹に二人目の、クラウスとの子供を宿しているって。おめでとう。君こそ今の幸せが輝くような美しさに現れているよ」
久々の再会の抱擁とキスをひとしきり交わすと、「さあ、かけて。…身重の身で、わざわざミュンヘンまで来てくれて、すまなかったね」
と、恭しくユリウスに椅子を引いた。
「 さて、と。まずは型通りの面談を。えー、イザーク・ヴァイスハイトさん。来年大学での課程を修了の予定ですが、今後のことを教えてください。このまま新たにミュンヘンに活動拠点を移しますか?それとも」
「レーゲンスブルクへ帰ります。帰って…故郷で、レーゲンスブルクで、学んだことを生かし、人々の健康の維持に貢献して、今まで受けて来た無数の恩を返したいと…そう考えています。幸い…カタリーナさんの…ブレンネル総合病院からも声をかけて貰っているし…、それから、ヴィルクリヒ先生からも、ゼバスで是非非常勤でいいから月に何回か、学生たちの手や…身体を診て欲しいと、オファーがあったんだ。ゆくゆくは、自身の治療院も持ちたいと思ってるよ」
「…」
「何だよ、その顔は。…僕そんなに君を驚かせるようなことを…言ったかい?」
イザークの返答に少し意外だというような表情を見せたユリウスに、イザークはおどけるように小さく笑って返した。
「え、あ…いや。…うん。正直、ちょっと意外…だったかも」
「そうかい?」
イザークの優しい黒い瞳が、何かを言いあぐねている様子のユリウスに先を促した。
「だって…君、レーゲンスブルクを発って…ミュンヘンに行ってしまって以来、ほとんど帰って来なかったから…。てっきりもう…」
ーーイザークはもう、ここへは戻って来ないのかもしれないねって…フリデリーケと。
「フリデリーケと?」
今度はイザークの表情が少し驚いたような色を浮かべた。
「うん…」
少し躊躇って、ユリウスが話し始めた。
〜〜〜〜
君がミュンヘンへ発って以来、…殆どこっちには帰って来なかったでしょう?クリスマスもイースターも。。。もちろん君だって必死だったろうし、そのことを責めるつもりは毛頭ないよ。そのことに関しては…ぼくも、フリデリーケだって、理解しているつもりだし、故郷を離れて奨学金を得て学ぶ奨学生たちは皆似たり寄ったりだからね。だけどね、修了を間近に控えて、フリデリーケがね、ずっと心に引っかかっていた事を、打ち明けてくれたんだ。
* * *
ユリウスの身体を検診した後、いつものようにお茶を囲んだ時に、フリデリーケがずっと心に引っかかっていた事を口にした。
「ユリウス様…」
「ん?」
「兄は…このまま、レーゲンスブルクには帰って来ないのではないでしょうか?」
「え?」
フリデリーケの思いがけないその言葉にユリウスが手にしていたカップを置き、居住まいを正す。
「イザークが、そう言ったの?」
ユリウスに訊かれてフリデリーケが無言で首を横に振った。
「…どうして、そう思うの?イザークと手紙でのやりとりは…しているのでしょう?」
「はい。…お互い多忙なので…頻繁にとはいきませんが。私もユーベルの様子などを知らせたり…。でも、肝心なことは、ミュンヘンでの留学を終えたのちのこれからの事は、敢えて私も兄も、互いに避けていた節があって。そうこうしているうちに…」
ーー兄は…未だに修了後のことを、私に話してくれません。私も…。
「…聞けばいいじゃない?これからどうするつもりなの?って。兄妹…ううん、かけがえのない家族なんだから」
ユリウスの言葉にフリデリーケは静かな微笑を―、まるで泣き笑いのような笑みを浮かべて、かぶりを振る。
「なんか…バカみたいなんですが、聞くのが少し怖いんです。兄の口から…ここへは帰らないと…聞かされるのが。そして…兄が実は私の事を重荷に感じているということがはっきりと思い知らされるのが!…私の想いを…兄が重たく感じてるのじゃないかと。…」
「そんな…」
「もし、そうだとしたら…この街を…離れようと思います。兄が…何もかも新しくやり直したいと、そう思っていて…その再出発に私が邪魔なようならば…私がこの街を離れて、遠くから兄の幸せを祈るのが…最善だと思います。兄は…例えピアノが弾けなくなっても…イザーク・ヴァイスハイトは変わらずこの街の英雄だから。」
――だから、兄はこの街で、私は新天地で…。
「フリデリーケ!」
ユリウスの優しい瞳がフリデリーケを包む。
「包み隠さなくていい。正直に、ぼくには正直に話して。…あなたは、あなたは…それでいいの?あなたの本当の望みを、ぼくに聞かせてて?」
「ユリウス様…」
「あなたの心の中にある、様々な感情を、包み隠さずぼくに話して。どんな想いでも…ぼくはあなたを咎め立てしたりはしないから…」
「…私の心の中の…自分勝手な欲望を知ったら…きっとユリウス様は私の事を…軽蔑…」
「しないよ!…友達じゃない!…同じように長いこと好きな人への想いを心に秘め続けてきた、同志じゃない!仲間じゃない」
ーーさあ、ぼくに聞かせて。あなたの望みを。思いの丈を。…そして、勇気を出して前に、未来に進もう。
ユリウスの手がフリデリーケの手を包み込む。
その手の温かさに促されるように、フリデリーケがポツリポツリと心のうちを吐き出し始めた。
「少女の頃から兄さんの事を…ずっと好きでした。それから、随分時が経って…私にも、そして兄さんにもいろいろなことがあって…あの頃の幼くて、でも純粋な初恋の感情とは…多少その想いの質も変わってきていると…思います。でも結局私は…やっぱり兄さんを…愛してる。ずっとずっと…愛してるんです。兄さんの駄目な所、弱い所、惚れっぽい所、繊細なところ…そういうところも含めて、やっぱり放っておけないというか…そういうところも含めて、あの人が愛おしんです。だけど…さすがにもう…また他の女性に恋をして…そして他の女性のものになったあの人をそばで見続けるのは…しんどい…かな。そうなったら…今まで通り、妹として、身内として彼の事を見守り続けるのは…もう無理!」
最後には絞り出すように思いを吐き出したフリデリーケの小刻みに震える肩を、ユリウスの両腕が包み込んだ。
「…そうだよね。…そうだよね。うん…辛かったね」
〜〜〜〜
「そう…か」
ユリウスから改めてフリデリーケの想いを聞かされたイザークが、頭を抱えて微かなうめき声と共に天を仰ぐ。
しばらく二人の間を沈黙が支配する。
「…イザークは、どうなの?」
その沈黙をユリウスの方が破った。
「…ストレートに…切り込んでくるなあ」
「でも、あなたを責めてるつもりはないよ」
「うん。分かってる。…そういう口調だもの」
小さく笑いながら、イザークも居住まいを正し、包み込むような笑みを浮かべたユリウスと向き合った。
「僕は、レーゲンスブルクへ帰る。…そして、フリデリーケの、彼女が長年僕に対して傾け続けて来てくれた想いに、ちゃんと答えを出す」
はっきりとそう言い切ったイザークに、ユリウスが無言で、大きく頷いた。
〜〜〜〜〜〜
音楽とダンスのステップに身を委ねながら、尚もイザークが続ける。
「お前の気持ちを…ユリウスから聞いたよ。…いや、聞かずとも、本当はずっと気付いていたんだ。君の気持ちに…ずっと。君が…本当の血の繋がった妹ではないと知った時から…。僕はずるくて、ひどい男だ。そんな君の想いを、長いこと気づかないふりをして…兄妹のフリをして、君の想いから逃げ続けていた。…一人の女性としての君に…僕はひどく不誠実な態度を取り続けていたね。まずはその事を、心から詫びたい。すまなかった、フリデリーケ。僕を、許してくれるかい?」
「そんな…許すだなんて…」
「その上で、改めて君に伝えたい。ユリウスの訪問以来、ずっとずっと君のことを考えていた。僕にとっての君という存在のことを。今までの関係には戻れない、いや、戻ってはいけない。じゃあ、自分はどうしたいのか。…真剣に考えた。そして結論に達した。僕は…君と離れて、これからの人生を生きることは…到底考えられないと。調子がいいのを承知で言うなら…僕と君と、それからユーベル。これからの人生の時間はこの3人で…スタートしていきたいと。…これが偽らざる僕の気持ちだ。…フリデリーケ、僕の人生には、君が必要だ。…愛している」
「…あい、して?」
「ああ。…一応、これはその…僕のプロポーズ…なんだけど、な」
ひとしきり自分の気持ちを伝えたイザークが少し決まり悪そうに、視線をフリデリーケから泳がせた。
「プロポーズ…」
「ああ。フリデリーケ・ヴァイスハイトさん。どうか僕の…僕の伴侶として、人生を歩んでください」
泳がせていた黒い瞳を、再び目の前の求婚者に向けると、イザークは求婚の言葉を口にした。
兄の、ずっと愛し続けて来た男性の口から出てきた、その言葉を心の中で噛みしめるような、暫しの沈黙の後に、フリデリーケがはっきりと答えた。
「…しょうがないな。はい、プロポーズをお受けします。イザーク・ヴァイスハイトさん。貴方の伴侶となって、貴方と私、それからユーベルと、幸せな家庭を築きましょう」