第七十七話 Ⅴ
少しだけ扉が開いていた、アデールに与えられた小サロンから浮かれた話し声がする。
ーーま…あ!それは…それはよろしゅうございましたねえ。姫様。おめでとうございます。これで…またあの幸せな日々の続きが始まるのですね。
ーーええ…ええ、そうね。
ーーこちらでのお披露目は、されるのですか?
ーーそんなこと…。でも復縁の報告の手紙を手配しなくては。
ーーえぇ?手紙だけでございますか?お披露目の…内輪だけでもお披露目のパーティーをすべきでございますよ。そして、知人の皆様に、若様のこともお披露目しなくては!
ーーあぁ!そうね。そうだったわね。ユスーポフ家の嫡子なのですものね、あの子は。
ーーそうですよ!それに…姫様はまだお若いのですし、若様の弟君でも妹君でも、もう一人、いえ!二人でも三人でも!!
ーーイヤだわ、ネーリったら。
サロンから漏れ聞こえるはしゃいだ会話に苛立ちが沸騰していく。
そんな私の視線に二人が気づいた。
「…なんでございましょう?盗み聞きなんて、プリンセスのされることとは思えませんね」
私の身体全体から立ち上る憎悪に反応したお付きの侍女が臨戦態勢で構える。
「ネーリ!」
私の憎悪に敏感に反応した侍女を窘め、アデールが「どうぞ?中にいらっしゃいな」と、ぎこちない笑顔を浮かべて私をサロンに招き入れた。
その余裕も今のうちだ。
お前は、私をここに招き入れたことを、後悔するだろう。
「さ、掛けて。ネーリ、お茶を」
大事なお姫様の側を片時も離れまい と私に対して臨戦態勢を解かない侍女にお茶を命じる。
ネーリが渋々と主人の側を離れて行った。
「…どうしたの?わたくしのサロンに来るなんて…珍しい」
少し戸惑った様子で私に話しかけたアデールに、とうとう私の口から憎悪が言葉の剣となって口から溢れ出た。
「…あなたの知りたかったことを、教えてあげようと思って…。あなたの心に引っかかっていたこと。侯爵も、ヴェーラも話す事のない真実を」
自分でもゾッとするような冷たく低い声だった。
「侯爵が…ドイツの任務で出会った女性のこと」
目の前のアデールがゴクリと唾を飲み込んだ。
〜〜〜〜
「ミハイロフ侯爵夫人から、ユリアのことは聞いているのでしょう?あなたの懸念していることは、大方間違っていない。そう!ユリアは、ドイツのレーゲンスブルクで侯爵が任務に訪れていた先の令嬢よ。出会ったのはもう15年も前!あなたが…侯爵を蔑ろにしてあの浮ついた仲間たちと毎日遊び回っていた頃よ!美しく高潔で聡明で、内面も外見も輝くようなユリアに、侯爵はすぐに恋に落ちた。決して口には出さないけれど、侯爵はね、ユリアのことをずっと愛していたの!多分今もね。侯爵が急にあなたとの夫婦仲を回復しようと歩み寄った理由を知っている?あれもね、ユリアがそう勧めたからなのよ。任務で忙しい侯爵に、「もっと奥様を大事にするべきだ」って!ユリアもお人好しよね。あなたなんて、侯爵という夫がいながら他の男に抱かれていたあなたなんか、大事にされる資格なんてないのに!ユリアね、侯爵に、「今自分のお腹にいる子供と侯爵の子供を将来娶せよう」って提案したのですって!侯爵は「馬鹿なことを」と最初はそう思ったのだけど、それも悪くない と、あなたともう一度向き合うことを決意したのですって!Jr.がこの世に生まれたのも、そもそも今あなたがここで浮かれて舞い上がっているのも…全てはユリアのおかげなの!ユリアはね、あなたなんかよりも、よっぽど侯爵にとっては大切で特別な存在なの!そんなことも知らずに、浮かれちゃって馬鹿みたい!!」
ーーガチャン!!
背後で何かが床に落ちる音がして我に返り振り返った。
そこには…ティーカップを床に取り落とし、ワナワナと震えるネーリが立っていた。
彼女の全身から湧き上る忿怒に、今度は私が怖気付く。
その怒りに身動きできないでいる私のところにつかつかと近づいてきたネーリが、低く唸る。
「言いたいことは…それだけですか?質の悪い、邪悪な戯言は、終わりましたか?」
背筋がゾッとするようなネーリの恫喝に、「嘘じゃない…」と震える声で言い返した。
ネーリの手が私の顎を掴んだ。
すごい力と凄まじい形相に私の喉から声にならない悲鳴が漏れた。
「そのような、デタラメばかり囀る邪悪な…その邪悪な舌は、いっそ切り落としてしまいましょう。さあ、その舌をお出しなさい!」
私の顎を掴んだネーリの手に益々力が込められて行く。
顎を物凄い力で掴まれた痛みと恐怖に、逃げることも出来ず身体から力が抜け、声にならない悲鳴を漏らしたのと、アデールが「ネーリ、やめなさい!」と叫んだのは同時だった。
「姫様…」
一瞬力が緩んだ隙に、ネーリの身体を押し退け、自由になる。
「行きなさい…」
震える声でそう言ったアデールの方を振り返る。
顔色を失い、打ちひしがれた顔をしたアデールに、かつて心無い悪口に傷ついたお母様の顔が重なる。
私はー
自分のしたことを、自分の言葉の剣が切り裂いたものを悟った。
「行きなさい!…早く!」
絶叫したアデールの声に私が二、三歩フラフラと後じさった。
私は…取り返しのつかないことをしてしまった。
アデールの叫びにヴェーラとJr.がサロンに駆けつけて来た。
二人がサロンに入って来るのと入れ替わるように、何かにふれたように私はサロンから駆け出して行った。